遣隋使の派遣は日本史において重要な出来事であり、学校でも必ず習う事柄です。
しかし派遣された目的や、遣唐使との違いについてうまく答えられない人も多いでしょう。
今回は遣隋使の説明や目的に加え、遣唐使との違いについて解説していきます。
目次
遣隋使が派遣された背景
隋という大国
中国は220年に後漢が滅亡し、群雄割拠の戦国時代を迎えます。581年に北朝の外戚楊堅(文帝)が隋を建国し、589年に中国を統一します。
隋は律令制の推進、科挙(官僚を世襲でなく試験で登用する)の採用、州県制の導入等、当時としては画期的なシステムを打ち出しています。
周辺諸国(百済、新羅、高句麗、日本等)は隋との関わり方を意識せざるを得ませんでした。百済、新羅は隋と君臣関係を結ぶ事になり、これを冊封と言います。
日本の情勢
581年頃の日本は蘇我氏と物部氏が仏教の導入を巡り対立していました。587年には丁未の乱で物部氏が没落後し、蘇我馬子が台頭します。
592年には崇峻天皇の暗殺事件が起こる等、国内の情勢は不安定であり、隋に使者を送る余裕はありませんでした。国内の情勢が落ち着いた頃、ようやく隋への派遣が検討されます。
朝鮮半島と倭国
宋書には488年の段階で倭国(日本)が朝鮮半島に進出した記録があります。この頃は百済、伽耶、新羅は日本の従属関係となっていました。
徐々に新羅は日本と対立し、百済や伽耶等の日本の支配領域を脅かすようになり、562年に伽耶にあった日本府は滅ぼされます。伽耶の立て直しを図る為、日本は新羅遠征を検討します。
日本は古来には倭の五王が宋に朝貢をしに行った事が分かっています(420〜479年)。それ以降は中国に渡った記録はなく、隋との冊封体制には組み込まれていませんでした。
新羅は隋と冊封体制にあるが、隋と日本に冊封関係がなく対等の関係である事が示されれば、新羅よりも日本の方が新羅よりも立場が上という事になります。
実現できれば影響力や征伐に優位になると日本は考えたようです。
遣隋使が派遣された目的
簡単にまとめると
- 隋に行き、優れた技術や政治システムを学びたかった
- 新羅遠征の為に隋とは冊封関係ではない対等な関係を結びたかった
と言う事が挙げられます。
遣隋使の全貌
第1回遣隋使
600年に第1回遣隋使を派遣しました。同年に新羅遠征も行われます。最初の派遣は外交的に失敗に終わり、記録として残す事が忍びなかったのか、日本の記録には残っていません。
書の記録によれば、倭国の多利思北孤(たりしひこ)が使者を派遣しました。使者は「天をもって兄とし、日をもって弟とする」と伝えたそうです。現代語では倭王は天を兄とし、日を弟にしていると言う事です。
中国には中華思想があり、対等な国は存在しません。天=皇帝であり、皇帝を兄呼ばわりする倭国は無礼でした。
他にも倭国の政治体制等を尋ねますが、まともな返答はありませんでした。日本からすれば隋の政治を学びに行く事も遣隋使の目的だったので、政治体制が未熟なのは当然とも言えます。
文帝は怒るよりも呆れ、義理がないと使者を諭す有様でした。倭国は朝鮮半島より更に僻地であり、相手にしなかったと言う事でしょう。隋書では”俀”国と間違って書かれています。
余談ですが、新羅遠征は実行され新羅は降伏しますが、日本が帰国後に伽耶はまた新羅に侵攻されています。
第2回遣隋使
外交的に失敗に終わった遣隋使ですが、隋の政治や文化を学ぶ事に成功します。607年に第2回遣隋使が派遣され、小野妹子が大使となります。
船には高向玄理、南淵請安、旻等の後の時代で活躍する人物も乗っています。7年間の間に日本は十七条の憲法や冠位十二階等の隋風の制度を作っています。
7年の間に文帝は退位。2代目の煬帝が皇帝でした。妹子は煬帝に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」から始まる国書を渡し、激怒させたのは有名な話です。
何故煬帝が激怒したかですが、
- 日没する処=隋 と書いた為、隋が斜陽国家であるように感じた。(日本が東側にある事を表しただけで、この部分自体は煬帝も怒っていなかったという説もある。)
- 皇帝と同格の意味である天子を日本にも用いており、隋と日本が対等の様な内容だった。
- 敬語がなかった。(対等な相手でも敬語は常識的に使うべき)
等の理由があるようです。
煬帝は家臣に「無礼な蕃夷の書は今後自分に見せるな」と命じ、妹子に返書を渡します。今回も失敗かと思いきや、煬帝は裴世清(はいせいせい)という使者を妹子に同行させます。
ちなみに帰国の際に妹子は返書を紛失。本人は百済に盗まれたと言いますが、内容が酷く、破棄した可能性もあります。
煬帝が倭国に使者を同行させたのは国際情勢が影響しています。隋は対外戦争に明け暮れ、朝鮮北部にある高句麗に手こずっていました。高句麗は日本同様に隋と冊封関係を結ばなかった国でした。高句麗の他、倭国とも敵対するのは得策ではないと考えたようです。
当時の日本政府内には高句麗の僧侶の恵慈がおり、政府も隋の情勢を知っていたようです。無礼な手紙も「トラブルがあっても隋が攻めてくる事はない」という作戦だったのかもしれません。
何も考えていなかった可能性もありますが。ひとまず日本は冊封関係にならないと宣言する事に成功します。
その後の遣隋使
608年に第3回遣隋使が派遣されます。目的は裴世清を隋に送り届ける事でした。妹子は返書紛失の件で一時的に流罪になりますが、すぐ復帰しています。
隋書に610年に第4回遣隋使が派遣されたとありますが、日本側に記録はありません。逆に614年に遣隋使として犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)が派遣されていますが、隋書に記録はありません。
日本も当初の目的を達成し記録に残す必要がなく、隋は末期で記録どころでなかったのかもしれません。618年に隋は滅亡し、日本と新羅との関係は悪化していきました。663年に日本は白村江の戦いで新羅に大敗します。
遣唐使について
隋が滅んだ後は唐が出来ます。唐の建国を間近で見た留学生から、唐の政治システムを学ぶべきという声が聞かれ、630年に1回目の遣唐使の派遣が始まり、最後の遣隋使大使であった犬上御田鍬が初代大使となりました。
派遣回数も多く、大使は沢山いました。唐とは朝貢関係を持ちますが、日本視点では隋同様に冊封は受けていません。
遣唐使は12〜20回(定義が異なるので回数はバラバラ)派遣されています。初期の派遣では律令制を学んでおり、大化改新による中央政権の樹立に繋がります。
貿易も盛んに行われましたが、黄巾の乱により唐は衰退。菅原道真の提言により、894年に遣唐使は廃止されました。
遣隋使と遣唐使の違い
名前は似ていますが、中国の優れた文化や政治を学んだ以外は時代も背景も異なります。簡潔にまとめていきます。
遣隋使
600年~614年に4~5回派遣された使節です。大使は小野妹子や犬上御田鍬がいます。
目的は隋の文化や政治を学ぶ他、隋との対等な関係の構築や、新羅への牽制等がありました。冊封体制からの脱却という目標が達成された後、派遣は殆ど行われなくなりました。
遣唐使
630年〜894年に15〜20回派遣された使節です。大使は犬上御田鍬の他多数います。
目的は唐の文化や政治を学ぶ意味合いが強かったです。唐が衰退し始めた894年に菅原道真の提言により、遣唐使は廃止されました。
まとめ
- 遣隋使は隋の政治を学ぶ他、隋との対等な関係の構築や、新羅への牽制の目的があった。
- 1回目の派遣では日本の政治が未熟な事もあり、外交的には失敗に終わった。
- 2回目の派遣では小野妹子が派遣され、国書の内容から煬帝を怒らせた。
- 遣隋使の派遣を通じ、隋の冊封体制から脱却した。
隋までの航海は命がけでしたが、遣隋使の派遣により、日本は隋の政治システムを学ぶ他、周辺諸国とは違った立ち位置で中国と関わっていきます。先人たちの行動と勇気に感謝の気持ちを持ちたいものですね。
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