新島襄:同志社創立者の生涯や妻・八重、名言など解説

新島襄と聞いてまず思い浮かぶのは、同志社大学の創設者であり、新島八重の夫だった人だということだと思います。

当時禁じられていた渡米を果たし、キリスト教を持って帰国した新島襄の人生も波乱に満ちていました。

ここでは、その新島襄の生涯や妻のこと、そして子孫はいるのかを解説していきます。

新島襄の生涯

生誕から幼少時代

江戸時代も終わりを告げようとしていた1843年、江戸神田の上州安中藩江戸屋敷で、新島襄は生まれました。

父は安中藩士 新島民治、母は武州浦和宿のとみという女性でした。 新島襄の本名は七五三太(しめた)と言います。

新島家では4人続けて女の子が誕生し、やっと男の子が生まれたことに「しめた」と喜んだことからついた名前だそうです。

その後七五三太から敬幹(けいかん)と改名しています。元服した新島はアメリカに憧れるようになります。

そして幕府の軍艦操練所で洋学を学びました。
ある日新島は漢訳聖書に出会います。すっかりキリスト教に心を奪われた新島はこれがきっかけで「福音が自由に教えられている国へ行くのだ」と心に誓うのでした。

渡米

1864年新島は日本の運輸船「快風丸」に乗り、アメリカ渡航を目指して箱館(函館市)へと向かいました。

新島は箱館に潜伏している間に、ロシアの司祭ニコライ・カサートキンと出会い、日本語や日本の書物について教えました。聖書に関心が深い新島にニコラスは弟子にならないかと勧めましたが、アメリカへ行くという意志は固かったのです。

それでニコラスは坂本龍馬の従兄弟にあたる沢辺琢磨や福士卯之吉と共に新島の密航に協力するのでした。

ついに新島は箱館港から米船ベルリン号で出国します。
途中上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換えました。新島はその船の中で働きながらアメリカを目指したのでした。

1865年7月ついに新島はボストンに到着しました。
ワイルド・ローヴァー号の船主であるA・ハーディ夫妻の援助を受け、新島はフィリップス・アカデミーに入学することができました。

留学生として

新島は1866年にアンドーヴァー神学校付属教会で洗礼をうけます。
翌年にはフィリップス・アカデミーを卒業しました。

その後進んだアマースト大学を1870年に卒業しています。これは日本人初の学士の学位取得となりました。

このアマースト大学でウィリアム・スミス・クラークに科学を習っていました。新島はクラークにとって初めての日本人学生であり、この出会いがクラークを来日させるきっかけになったのです。

密航者としてアメリカに着いた新島は、この頃は正式な留学生として認められていました。

岩倉使節団

1872年新島はアメリカ訪問中の岩倉使節団と出会いました。
木戸孝允は新島の語学力に目をつけ通訳として使節団に参加させました。

新島はニューヨークからヨーロッパへ渡り、フランスやスイス、ドイツやロシアなどを訪問しています。

その上使節団の報告書「理事功程」まで編集したのでした。

【関連記事】 岩倉使節団とは?目的やメンバー、ビスマルクとの関係を解説

帰国

1874年アンドーヴァー神学校を卒業した新島は日本での宣教活動をするため帰国の途につきます。

時代は明治と名を変えていました。
翌年横浜に帰港し、まずは故郷の上州安中に向かいました。

そこでもキリスト教の講演をしています。30人ほどが洗礼を受け安中教会が設立されました。

同志社設立

1875年新島は京都府に同志社英学校を開校し初代社長に就任しました。
開校時の教員は、新島とジェローム・ディヴィスの2人だけで生徒も8人でした。

1876年には英学校を開く際に力を貸していた山本覚馬の妹、八重と結婚しました。1877年には同志社女学校を設立し、1880年からは大学設立の準備を始めるのでした。

岡山の高梁市で講演を行い、東京では全国キリスト教信徒大親睦会に幹部として出席するなど忙しい毎日でした。

そんな新島は1884 年再び海外へ渡ります。ドイツではヘルマン・ヘッセと会っています。

しかし、スイスのサンゴタール峠で心臓発作を起こして倒れました。
新島はその時2通の遺書を書いたと言います。
それでもなんとか帰国しました。

1888年徳富蘇峰が「同志社大学設立の旨意」を添削し、大学設立に向けて協力をしていたのでした。

病と最後

新島は1889年に大学設立の運動中再び倒れます。
神奈川の旅館百足屋で静養をしていましたが、1890年徳富蘇峰らに遺言を託しこの世を去りました。

46歳、大学設立の夢半ばの死でした。

死因は胃腸カタルからの急性腹膜炎だったということです。

妻・八重と最後の言葉

妻・八重(出典:ja.wikipedia.org)

新島八重といえば、戊辰戦争の折女だてらに銃を持って城に立て篭った勇ましい女性であることはよく知られています。

新島は妻に自分と対等に生きてくれる人を望んでいました。

その点から言えば八重はぴったりな女性だったのです。
2人は教会で結婚式を挙げました。日本で最初にウエディングドレスを着たのは八重でした。

2人はとても仲良く、お互いを尊重しあっていました。
新島はアメリカの友人への手紙に
「妻は美人ではないが、生き方がハンサムなのです。私はそれで十分です」
と書いています。

新島がこの世をさる時、
「狼狽するなかれ、グッバイ、また会わん」
と言い残しました。

2人は心の奥深くまで愛し合っていたのですね。

子孫

新島襄と八重の間に子供はいませんでした。

しかし2人の息子として新島公義さんがいます。
2人は彼を養子にして、新島家を託したのでしょう。

名言

「我らもし事業をなさんと欲すれば、必ずまずこれがために倒るるの覚悟なかるべかざる」

同志社大学を作りたいという思いで必死に行きていた新島襄の覚悟が見て取れる言葉ですね。

キリスト教を学びたいと密航を企てた時も同じ思いだったのでしょう。

「世の中全て気魂、仕事にして既婚の強きものが最後の勝利を得るにいたるなり」

これも大学設立のために気迫を込めてことに当たっていたことを表していますね。

普段は穏やかそうな新島襄の中にはこのような激しい一面があったのですね。

「諸君よ、人一人は大切なり」

この言葉は同志社創立10周年記念講演(1885年)での際、校長としての式辞に添えられた言葉です。

この講演の前、新島は渡航していました。その間に一人の生徒が退学する事件が起きたのです。

新島はその生徒の将来を案じ悲しんだ言葉でした。

まとめ

キリスト教に憧れ密航してまでアメリカへ渡り勉強をしてその知識を日本の教育に役立てようと懸命に生きた新島襄。

彼の夢見た同志社大学の設立は1920年の大学令によって叶うのでした。

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