バスコ・ダ・ガマ:大航海時代にインド航路を確立した航海者

バスコ・ダ・ガマはポルトガルの航海者であり探検家でもあります。
彼の生涯については、あまり資料が残っていません。
それは1755年に起きたリスボン地震が影響していると思われます。
地震と津波でリスボンは壊滅的な被害を受けたのです。

したがって、これからお話しするバスコ・ダ・ガマの活躍は、ジョアン・デ・バロスが航海を綴った書物を参考にしています。バスコ・ダ・ガマは喜望峰を経由してヨーロッパ人として初めてインドへの航路を発見した人として有名です。

しかし、その航海は波乱に満ちたものだったようです。
ここではバスコ・ダ・ガマの航海者としての姿はもちろんその生涯をも追いかけてみましょう。

バスコ・ダ・ガマの生涯

出生と家族

彼は1460年頃(1469年ともいわれている)ポルトガルのアレンテージョ地方のシーネスで生まれました。

父はエステヴァン・ダ・ガマといいポルトガルの王族フェルナンドに仕えた騎士でした。後にシーネスの市長にもなっています。

母はイサベル・ソドレというイギリス起源の名家出身の女性でした。

バスコには兄パウロをはじめ、5人の兄弟がいました。

幼年期から結婚

バスコがどのような幼年期を過ごしたかはっきりわかっていませんが、シーネスが港町であることから、航海に関する知識や経験は身につけていたと思われます。

その上、若い時から宮廷に出入りしていたことからそこで教育を受けたと考えられています。

バスコは3度の航海をしていますが、2度目の航海から帰った頃、カタリナ・デ・アタイデという女性と結婚しています。

2人の間には、6人の息子と1人の娘がいました。長男のフランシスコはバスコの3度目の航海に同行しています。

バスコ・ダ・ガマの死

3度目の航海でバスコは帰国を果たすことなく、途中で病に倒れ亡くなったのでした。

1524年12月25日(24日深夜説もあり)でした。葬儀はコチンの聖フランシスコ修道院で行われ、遺体はポルトガルに連れ帰りヴィディゲイラで埋葬されました。現代はジェロニモス修道院に葬られています。

大航海時代(コロンブスやマゼランたち)

15世紀から17世紀にかけて、ポルトガルやスペインはアフリカやアジア、アメリカへの航路を開拓するべく盛んに航海をしていました。1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸の最南端といわれる喜望峰へ到達しています。(実際には最南端は150キロ離れたアガラス岬です)

1492年にはスペインの支援を受けたクリストファー・コロンブスが西回りでインディアス(実際はアメリカ大陸)に到達しました。

またポルトガル人のフェルディナンド・マゼランはスペインの支援で艦隊を率いて1519年から1522年にかけて史上初の世界周航を果たしています。といっても当のマゼランは航海半ばの1521年に亡くなっているのですが、歴史は彼がやってのけた偉業と讃えています。

そしてそんな大航海時代の中、バスコ・ダ・ガマも航海の旅へと出て行ったのでした。

第1回目の航海

公開の目的

ポルトガルはインドの豊富な黄金や香料に目をつけ、直接貿易をしたいと考えていました。このためインド航路を発見し、インドとの親交と貿易のきっかけを作ることが目的でした。この航海に、バスコが任命されたのです。

当初は父のエステヴァンが行くはずでしたが、病で死去したためバスコに白羽の矢が立ったのでした。不可解なのはこの時喜望峰を発見したバルトロメウ・ディアスは健在でした。それなのに無理に経験の浅いバスコを指揮官にしたのは何故なのかわかりません。

出港

バスコは、サン・ガブリエル船とサン・ラファエル船、ベリオ船、そして貨物船の4隻を率いて出航しました。このほかにバルトロメウがヴエルデ岬まで随行するナヴィオ船も用意されました。

バスコは1497年7月8日大観衆に見送られてリスボンから出航しました。途中ヴェルデ岬でバルトロメウと別れ、12月には喜望峰を通過しています。

これからバスコはポルトガル人が足を踏み入れたことのない海域へと進んで行くのでした。北上を始めたこの頃から壊血病を発症し亡くなる船員が出始めました。

モザンビークについたバスコは、現地の人と水と食料の確保のために交渉しましたがうまくいきませんでした。そこでバスコは武力行使にでました。なんと砲撃を浴びせ水場を奪ったのです。物資と水を手に入れバスコは航海を続けます。

インド到達と帰港

1498年5月ついにインドのカリカットへ到着しました。そこでポルトガルの織物や錫と現地の胡椒やシナモン、宝石などを交換し帰路につこうとしましたが、出航の許可がもらえませんでした。これに対してバスコは現地の住民を人質に取り、人質奪回に追ってくる船を砲撃しながら逃げ切ったのでした。

1499年アフリカのマリンディでサン・ラファエル号を諦め焼却しました。それほど乗組員は病気のために減っていたのでした。兄のパウロも同じでした。バスコは兄の養生のためにカナリア諸島へ立ち寄りました。しかし8月パウロはそこで亡くなるのでした。

その後9月にリスボンへ帰還しました。その一行は、出港したときの147名から55名にまで減っていたのです。

インド航路を発見したバスコは多くの報酬を与えられ、また多額の年金も得ました。その上王族や貴族にしか許されなかった「ドン」の称号も与えられたのでした。

第2回航海の成功

1502年2月バスコは15隻の艦隊で出航しました。インドに到着したバスコらは敵対国のものと戦い、マムルーク朝スルターン所有のメリという船を捕らえて、積荷を没収しながら婦女子を含めた300人もの人を死に追いやったのです。

バスコはコチンで国王と友好関係を結び交易のメドを立てます。1503年2月コチンを出航しました。この時交易で得た品は、胡椒、シナモン、スオウや生姜でした。

バスコ一行は10月にリスボンへ帰港しています。バスコはまたも高く評価され年金を追加されました。

1519年にはヴィディゲイラとフラデスの町をあたえられ、ヴィディゲイラ伯爵の称号も受けたのでした。この航海はインドを支配下に置く、いわゆる植民地化への第一歩だったと言えるでしょう。

第3回航海とバスコ・ダ・ガマの死

バスコが2度目の航海から帰って以降ポルトガルはインド洋の支配を強めていましたが、歴代総督たちの失敗を改革するために、三度バスコが司令官としてインド洋へと派遣されたのでした。

1524年4月バスコは14隻の艦隊に3000名の大人数で出航しました。。9月にゴアに到着しセイロンやスマトラ島の余剰要塞を解体し、逆にジャカルタでは要塞を建設しました。この頃からバスコは体調をこわしていましたが、ポルトガルの活動を妨害するイスラムの艦隊とぶつかったときはこれを見事に撃沈したのでした。

精力的に指示を与えながらもバスコはどんどん弱っていきました。自分の死を予感したバスコは、気丈にも引継書を作成したり、自分の死後に開封が許される命令書などを書き置いたりしていました。そして、ついに1524年12月コチンで亡くなるのでした。

まとめ

バスコ・ダ・ガマはインド航路を発見した人です。
しかし、平和的に新航路発見などというものでは決してなく、多くの病死者と、多くの敵艦隊の死があり、友好的な国と敵対する国の間で駆け引きもあったのでした。

勇敢さと時折見せる残虐な部分は、母国から遠く離れた地において自分達を守るために他なかったと思われます。

そのようなバスコ・ダ・ガマの航海の中で、彼の発見した航路によりポルトガルのインド洋支配、植民地化へと進んで行ったことは、彼の業績に他ならないことは確かでといえるでしょう。

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