トラヤヌスとはどんな人物か?生涯や記念柱について解説

ローマ皇帝であるトラヤヌスは文武両面で能力を発揮し、領土拡大とともにローマ帝国内の公共施設の強化に成功した皇帝です。

そんなトラヤヌスはそれまで首都ローマを含むイタリア本土出身者しか皇帝として選ばれなかったのに対し、初の属州生まれの皇帝でもあります。

トラヤヌスは能力の高さから同時代の皇帝の多くは、後世において批判を受けることになるのに対し、後世においても称賛を受ける数少ない皇帝の一人となっています。

トラヤヌスはローマ帝国の五賢帝の一人として名声を集めており、現在においてもトラヤヌスの記念柱やトラヤヌス市場なども有名です。

そんなトラヤヌスの生涯や記念中などについて解説していきます。

トラヤヌスはローマ帝国の五賢帝の一人として名声を集めており、現在においてもトラヤヌスの記念柱やトラヤヌス市場なども有名です。

そんなトラヤヌスの生涯や記念中などについて解説していきます。

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トラヤヌスの生い立ちから皇帝即位まで

トラヤヌスの生い立ち

トラヤヌスは、53年にヒスパニア・バエティカ属州の植民市イタリカで生まれました。ヒスパニア・バエティカ属州は全属州の中でもローマ化が進んだ地域であり、イタリカ市はイタリア本土からの移民者が主体の都市でもあったのです。

トラヤヌスは父が元老院議席を持つ上流貴族であり、トラヤヌス自身も青年期を迎えるにあたって政治的キャリアを築き始めます。

青年期を迎えたトラヤヌスは軍隊への参加を契機にキャリアを築き始め、各地を転戦することとなりました。父がシリア総督として74年に現地赴任をするのですが、その時に幕僚として派遣されました。

そこから76年に財務官、そして84年に法務館員就任をし、86年にはヒスパニア・タラコネンシス属州に第7軍団ゲミナの軍団長として駐留するなど、順調に出世を重ねていきます。

そしてトラヤヌスが歴史の表舞台に立つこととなるのは、ライン川防衛の指揮官であった上ゲルマニア属州総督ルキウス・アントニウス・サトゥルニヌスの反乱の鎮圧で功績をあげ、91年に執政官としてローマ凱旋を果たすときです。

トラヤヌスの皇帝即位のきっかけ

皇帝に即位するきっかけとなったのが96年の皇帝ドミティアヌス暗殺で、これによりフラウィウス朝が断絶すると古参貴族の元老院議員ネルウァが皇帝に即位しました。

この時に皇帝に即位したネルファには子息がおらず、さらに高齢ということもあり97年に後継者としてトラヤヌスが選ばれたのです。

トラヤヌスが後継者として選ばれた要因は、軍の支持を集めるトラヤヌスの指名を親衛隊に強要されて断ることができなかったという見方が強くなっています。

トラヤヌスの皇帝即位

皇帝であるネルファが皇帝に即位してからわずか2年で病没し、養子縁組を結びあらかじめネルファ家の家督を継いでいたトラヤヌスが皇帝として即位しました。

トラヤヌスは軍の支持を集めていただけでなく、ドミティアヌス時代に不当な理由で投獄されていた囚人を開放したり、没収していた私有財産を元の所有者に返還したりと穏当な統治を心がけたのです。

それにより民衆からも皇帝即位が好意的に受け止められるだけでなく、元老院からは「オプティムス」という名誉称号を与えられるなど称賛を受けました。

ドミティアヌスが支持を失った原因である強圧的な統治を極力避けるなど、ネルファ帝と同じくドミティアヌスの治世を否定する路線を継承したのです。

トラヤヌス時代の二つの戦争と晩年

ダキア戦争

トラヤヌスが皇帝時代に、名声を集めるきっかけとなったのは2度の戦争です。

まず一つ目がダキア戦争と呼ばれるダキア王国への遠征なのですが、以前ダキア王国はローマ帝国が属国にしようとし、ドミティアヌス時代にダキア王国デケバルスに大敗を喫します。

そのためローマ帝国はダキア王国に賠償金を支払い撤退、以降ダキア王国は勢力を拡大し続け、ローマ帝国の領土に侵入するようになるのです。

皇帝であるトラヤヌスはこうした状況に決着を付けるべく親征を決意したことで、ダキア王国との戦争が勃発しました。

101年に一度目の遠征が開始され緒戦からダキア軍に勝利し、続いての遠征でもローマ軍はダキア軍に勝利を収め、結果翌年にダキア王デケバルスはトラヤヌスに降伏することになります。

その後解放されたデケバルスは反乱軍を組織して立ち上がり、105年にローマ領に侵入したことで第2次ダキア戦争が開始されました。

トラヤヌスは再度南ダキアに親征をし、激しい攻防の末ダキア王国の都サルミゼゲトゥサ・レギアを陥落させてダキア戦争は終結したのです。

パルティア戦争

二つ目の戦争はパルティアとの戦争で、晩年となる113年にパルティアのオスロエス1世が、両国の緩衝地帯であるアルメニア王国に傀儡君主パルタマシリスを立てたことがきっかけとなります。

114年にローマ軍は進軍を開始、アルメニア領内に進入しパルタマシリスの退位とともに「アルメニア属州」の樹立を宣言したのです。

114年中に各地の要衝が押さえられ、115年春にパルティア北部に進軍を開始したとされています。パルティアは内部抗争で分裂状態にあったこともあり、116年にはパルティアの首都クテシフォンを占領しました。

その後パルティアにはローマで教育を受けていた王弟パルタマスパテスを傀儡君主として立て、パルティアとの戦争は決着したのです。

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トラヤヌスの晩年

パルティナとの戦争が終結した直後の117年に各地で反乱が勃発し、アルメニアでは亡命政権が樹立されました。

さらにユダヤ教徒の大規模な反乱も数百年ぶりに勃発、メソポタミア属州総督が戦死しメソポタミアの維持が困難となったローマ軍は大きく後退したのです。

トラヤヌスは再度メソポタミアへ攻勢に出る計画を立てていたのですが、健康状態が徐々に悪化していきます。

病状が悪化しイタリアへ帰還しようと海軍を呼び寄せるのですが、その間に健康状態の悪化が深刻化してしまいました。

そのまま病状が回復することなく、117年にキリキア属州のセリヌスに到着した直後にトラヤヌスは病死したのです。

トラヤヌスは後継を遺言として残していなかったのですが、皇后の証言によって従甥であるハドリアヌスが皇帝として即位しました。

トラヤヌスの死後皇帝になったハドリアヌスは、トラヤヌスの帝国拡大路線を放棄しアルメニア、メソポタミア、アッシリアの3属州の放棄を宣言、さらにパルティアとの和睦を進めたのです。

トラヤヌスの記念柱とトラヤヌスの市場

トラヤヌスの記念柱とは?

出典:National Geographic

現在でもイタリアのローマに残っているモニュメントであるトラヤヌスの記念柱ですが、このトラヤヌスの記念柱はダキア戦争の勝利を記念して建設されたものとされています。

元老院の依頼によって建築家ダマスカスのアポロドーロスの指揮で建設されたと言われており、ダキア戦争の叙事詩的に描いたフリーズが表面に螺旋状に描かれています。

113年にトラヤヌスの記念柱は完成しましたが、このトラヤヌスの記念柱のデザインは様々な記念柱で模倣されることとなるのです。

トラヤヌスの遺灰は、元老院によってこのトラヤヌスの記念柱のある広場に埋葬されることが決められました。

トラヤヌスとトラヤヌスの妻の遺灰と共に、ダキアからの戦利品である武器や鎧などで装飾されたのです。

トラヤヌスの市場は史上初のショッピングセンター?

出典:wikipedia

トラヤヌスの時代は戦争だけでなく、公共施設の強化でも成功を収めました。その代表的なものとして、トラヤヌスの市場があります。

トラヤヌスの市場は100年から110年の間に、建築家ダマスカスのアポロドーロスの指揮の元で建設されました。

中世期に階が追加されて、1200年にはミリツィエの塔のような防御用の要素が追加されたのです。

トラヤヌスの市場は主にコンクリートとレンガで建設されており、天井はローマン・コンクリート製のヴォールトになっています。

トラヤヌスの市場は上層階が事務所として使われており、下層階にはワインや魚介類・野菜類などの商店が並んでいました。

現代でいうショッピングセンターのような造りとなっており、その建物と構造は古代ローマの生活の生きたモデルで、ローマ建築の好例でもあるのです。

【まとめ】トラヤヌスは文武両面で能力を発揮した皇帝

トラヤヌスが皇帝の時代には二つの戦争によって領土を拡大しつつ、公共施設の強化に成功しました。

晩年は反乱などが勃発しトラヤヌスの死後はローマ帝国は拡大路線を放棄せざるを得なくなったのです。

しかし後世においてもトラヤヌスの功績は称賛されており、ローマ帝国の五賢帝の一人として名声を集めています。

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