南蛮貿易とは?輸入品や織田信長との関係など解説

「南蛮貿易」とは、戦国時代後期(16世紀後半)にポルトガル・スペインの商人との間で行われた交易で、日本としては初めての欧米との貿易です。

「南蛮人」とは「南の野蛮人」の意味であり、自分たち以外の人種をすべて野蛮とみなす中国人が「南方から(船に乗って)来る」人々につけた呼び名を、日本人が流用して呼ぶようになったのがきっかけです。

この南蛮貿易が日本に定着してから終焉するまでの経緯について、寄港地や領主の大名、輸入品、天下人・織田信長とのかかわり、そして「教科書には出てこないエピソード」を交えて見ていきたいと思います。

偶然では無かった、ポルトガル船の漂着

記録上の、ヨーロッパ人の初来日

南蛮貿易開始のきっかけの一つは、1543年の種子島へのポルトガル人漂着といって過言ではないでしょう。ただ、その船は偶然、種子島へ漂着したのではありません。本当に日本へ向かっていたのです。

この船の持ち主は、日本をよく知る水先案内人兼仲介者でした。海賊であり倭寇(偽倭)でもあった、王直という明(中国)人です。

王直の交易範囲は、呂宋(フィリピン)・安南(ベトナム)・暹羅(タイ)・Malacca(マレーシア)にまで広がり、1541年には肥前(今の長崎県)平戸へ拠点を設けていました。

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ポルトガル人が先駆者だった理由

かつてイベリア半島を占領した時代のアラビア人から航海術を学び、大航海時代で先駆していたポルトガル人は、バスコ・ダ・ガマらの時代を経て、インドのゴアを占領地としアジア貿易を本格化させていました。

“新大陸”のアメリカ大陸でスペインに先を越されていたポルトガルは、アジアではスペインに先んじて拠点を築いたゴアを足掛かりに、フィリピン以外の地で着々と貿易拠点を築いていたのです。

そして当然、マルコポーロの東方見聞録による「黄金の国ジパング(Zipping)」を意識していました。そんな彼らに対し、王直が「水先案内人」を買って出たのでした。

因みに織田信長はこの1543年には9歳で、元服する3年前でした。

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南蛮人の最初の駐留地・平戸

布教と一体化していた貿易

「南蛮貿易」が一定の規模で始まるのは、漂着による初の来日から6年後、1549年に布教活動を目的としてイエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエルが薩摩に上陸してからと考えられています。ポルトガル人の貿易は、布教活動と一体だったのです。

そして、翌1550年、明人に案内されたポルトガル船が平戸へ入港したと、記録に残っています。平戸に拠点を構えていた王直が、橋渡しをしていた可能性が高いと考えられます。

そのような中、平戸に寄港して巨利を得るようになったポルトガル船を、ライバルのスペイン船が尾行してきたという記録も残っています。

輸入品とその代金

ポルトガル人の巨利の元は、日本の「金」です。マルコポーロの伝説のもとと思われる「平泉の金」に代わり、戦国時代には佐渡や土肥(伊豆)の金山が発見され、日本はゴールドラッシュともいえる時代でした。

金が豊富だった為か、銀との交換比率が世界標準に対して三分の一程という安価であった為、ポルトガル人達は輸出品の代金を金で受け取るだけで、本国では金がその三倍の価値になると言う、巨利を得ていました。

(尚、こののちに貿易を管轄した徳川幕府も、二百数十年の間、この金と銀の為替レートに気付かず、明治維新までの間に日本の金は世界相場の三分の一の価値で流出し続けたのでした。)

南蛮貿易での輸入品の主役は、中国産の生糸でした。この当時まで、日本の衣服の中心は麻だった為、生糸は貴重でした。そんな中、この頃の明は、倭寇の被害により日本との交易を制限していた為、ポルトガル人がマカオから調達してくる生糸は需要がありました。

そしてもちろん、鉄砲火薬も輸入されました。但し、近江の国友村で1549年に500丁の鉄砲を織田信長から受注した記録が残っているように、鉄砲の国産化は驚くほどのスピードで進んだようです。

この他、南蛮船によって初めて日本にもたらされたものには、欧州産の毛織物めがねのほか、カンボジアを意味したカボチャ、南米産のトウモロコシジャガイモタバコのほか、地中海沿岸産のスイカ、シャム(タイ)を意味した軍鶏などがあります。

平戸の領主・松浦氏と、佐世保の領主・大村氏

最初の居住地・平戸と、大乱闘

一方、来日から二年で帰国したフランシスコ・ザビエルの後任の宣教師・トレースは、商船団と密接な行動をとり、かつ「貿易したければ入信しろ」という態度が露骨であったことから、その居住地・平戸の領主・松浦隆信から好かれませんでした。

そんな折の1561年、ポルトガル商人と日本人との間で起きた売買のイザコザを調停しようとした松浦家の武士が、ポルトガル人にサーベルで斬りつけられるという事件が平戸で起きました。

武士は当然のように相手を斬殺し、そして双方大人数での大乱闘になりました。

佐世保の領主・大村氏からの勧誘

平戸での事件もきっかけの一つとなり、ポルトガル人は平戸を捨てて、大村湾岸の横瀬へ移りました。横瀬の対岸・佐世保の領主である大村純忠が勧誘し、横瀬をキリシタン領として献上したからです。

尚、この年、尾張では「桶狭間の戦い」が行われた翌年で、28歳の織田信長と19歳の松平元康(徳川家康)との間で和議が結ばれています。

ポルトガル人達にとって横瀬も長続きしませんでした。1563年、大村家の反対勢力に横瀬の商館などが滅ぼされた為、長崎近郊の福田浦に港や商館を構えました。この前後、大村純忠とその家臣・長崎甚左衛門が洗礼を受けて改宗しています。

長崎や織田信長との関係

「長崎」は、人名が由来

さて、ポルトガル人が三番目に港町とした福田浦は水深が浅かったようで、ポルトガル人の拠点は、8年後の1571年に長崎甚左衛門の領地に移りました。これ以降、この地を「長崎」と呼ぶようになり、現在まで続く、代表的な商港の名前となりました。

尚、この頃には、博多と共に二大商港都市であった堺にまで、ポルトガル人は出向いていたようです。

1569年には、宣教師のルイス・フロイスが、京への居住とキリスト教布教を織田信長から認められています。

信長が足利義昭の帰京バックアップを成し遂げるも副将軍への推挙を断った翌年です。

信長はこの頃から京や堺とも関係を深め、南蛮渡来のマントや帽子、時計を愛用したと言われています。

この数年後の長篠の合戦(1575年)で、日本で最初と記録される銃撃戦を率いたのも、信長の舶来好みと堺の国際化が背景にあったのでしょう。

イエズス会の勢い

一方、肥前では、大村氏が長崎を教会領としてポルトガルに寄進しました(1580年)。商港に使ってもらい、関税収入で儲けようとしたのですが、背景には北九州全域を治める勢いの竜造寺氏からの攻撃に対し、ポルトガル人の武力に頼ろうとしていた説もあります。

以後長崎は、ポルトガルとイエズス会にとってマカオ(この頃は租借地)に相当する、貿易と布教の拠点となりました。

ポルトガル人たちが「貿易したければ入信しろ」という態度を更に強めたのはこの頃からです。長崎を寄進された驕りからか、イエズス会は領内の神社仏閣を焼き払いました。  

禁教という転換点

ポルトガル本国の植民地化

平戸入港から30年目の1580年は、ポルトガル人たちにとって日本での活動の転換点だったかもしれません。

まず、当時の帆船では西欧から日本まで1年ほど費やしたので、事実の伝達は翌年だったと思われますが、この1580年、ポルトガル本国がスペインのフェリペ2世に軍事攻撃を受け、併合されました。スペインの植民地になったようなものでした。

そして1582年には本能寺の変で信長の覇権が終焉し、布教の後ろ盾を失いました。

バテレン追放令と禁教への動き

あとを継いだ豊臣秀吉は、1585年に関白となった後の1587年に九州征伐をすると、「バテレン追放令」を出しました。

制圧した九州にて、神社仏閣を焼き払うほどのキリシタンの勢いを目のあたりにして脅威を抱いたと言われています。

そしてスペイン船が、小田原征伐による全国統一の6年後の1596年に、公式記録に登場します。

イエズス会よりも歴史の古いフランシスコ会の乗った船が、土佐・浦戸に漂着したのです。

この時取り調べた増田長盛は「この者どもは、貿易で儲ける為に住民をカトリックで懐柔し、従わねば軍を送り占領するつもりだと供述した」との調書を秀吉へ示しました(サン・ペリエ号事件)。

真実の証言とは思えませんが、ゴアにおけるポルトガル人、或いは中南米におけるスペイン人の行動そのものであることから、すくなくとも秀吉は調書を信用した模様でした。

この翌年(1597年)、秀吉が長崎のキリスト信徒26人を磔刑にしたのも、サン・ペリエ号事件の影響と言われています。

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南蛮貿易の終焉

貿易の許可制開始

ポルトガル商人によってマカオから輸入する中国産の生糸が不可避だった為、江戸政権樹立後も南蛮貿易は行われていました。

生糸貿易の統制をはかる為、堺商人・茶屋四郎次郎の主導で糸割符仲間を発足し、貿易許可を書面で与える「御朱印船貿易」という形での輸出入が継続されました(「朱印状」とは、「許可を印した書状」という意味です。)

オランダの台頭

他方、カトリックの宣教師による布教と貿易がセットのポルトガルやスペインに対し、プロテスタントのオランダは、布教を目的としていないことから、キリスト教の広がりを好ましく思っていなかった德川幕府にも受けられる余地がありました。

南米での漂流を契機に、1600年に来日したオランダの航海士・三浦按針(ウィリアム・アダムス、英国人)が家康の外交顧問となったのが一例です。

スペインの植民地だったオランダは、1588年の無敵艦隊敗北でかつての勢いを失ったスペインから、独立を目指している最中でした。

また自立の為に海上立国を目指してインドネシアや台湾の植民地化を狙い、制海権を巡ってもスペインとも交戦中でした。

敵国を凌ぐために、「スペインやポルトガルにはカトリック宣教師を媒介として侵略的野心がある」と幕府に鼓吹したという説もあります。

ゲルマン民族のオランダ人は、ラテン系の「南蛮人」とは見かけも違い、「紅毛人」と呼ばれました。

そして「紅毛人」たちは、「中国産生糸は、南蛮人からでなくとも、自分達が明(中国)から買ってくる」と提案し、幕府は貿易ルートを変更することにしました。

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ポルトガルの劣勢

ポルトガル人の「侵略的野心」については、疑われても仕方のない事件がありました。

アンドレというポルトガル軍司令官が、マカオにいた御朱印船貿易中の船を砲撃し積荷没収するという事件を起こしました。

しかもその後、貿易船の船長となって長崎に入港したというから、その厚顔ぶりには驚きます。

船の持ち主であった有馬氏(九州の大名)は家康から許可を入手し、船に夜襲して火をかけ、アンドレらほぼ全員焼死しました。

スペイン・ポルトガルからの来航禁止

更に、德川幕府は、キリスト教徒の増加(40~50万人にもなったという説もある)を統治上の懸念と考え、1614年に日本人キリシタンを国外追放しました。

そして1616年には、明以外の船の入港を長崎と平戸に限定したうえ、1624年にはスペイン船の来航を禁止しました。

こうした経緯の後、1636年にはポルトガル人は長崎の出島に収容されました。そして島原の乱の二年後である1639年には、ポルトガル人の来航禁止令が出され、南蛮貿易はその幕を閉じられることになりました。

まとめ

南蛮貿易のはじまりが、ポルトガル人の漂着として最初に記録されている1543年とすれば、貿易の担い手となったスペイン人とポルトガル人のどちらも来航禁止となった1639年まで、96年間続いたことになります。

当時の世界は大航海時代、プロテスタントに勝る為の布教と貿易のみならず、領土的野心を持ったポルトガルとスペイン。

アジアの東端・日本への到達も偶然の漂流ではなく、そしてスペインよりもアジアでは先行していたから、ポルトガルが先に到達したのも、必然だったと言えます。

ポルトガルが先駆者利益を得た「日本市場」でしたが、1580年には本国でスペインに軍事的敗北。そのスペインが「日本市場」を独占できるのかと思いきや、1588年に英国に無敵艦隊が敗北。

それを契機にスペインが一時期の勢いを失うと、スペインの植民地だったオランダがアジアへ進出し、「日本市場」で台頭します。

やがて日本が「鎖国状態」となった後、約250年に亘って、オランダは独占的貿易を続けました。

日本でも、足利幕府―信長―秀吉―江戸幕府、と覇権が入れ替わった100年間でしたが、ヨーロッパでの覇権遷移が対日貿易に影響した流れを見るのも、おもしろいかもしれません。

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