上杉鷹山とは: ケネディからも尊敬された日本人の名言と改革について解説

江戸時代中期、米沢藩9代当主であった上杉鷹山は逼迫した藩の財政を立て直すきっかけを作ったとして有名な人物です。

その才覚はアメリカのケネディ大統領の耳にも届いたほどでした。

また上杉鷹山といえば数々の名言を残した人でもあります。

そんな名藩主 上杉鷹山について、その人生と彼の行った改革や残された名言などについて解説していきましょう。

上杉鷹山とは

生い立ち

上杉鷹山は、1751年日向高鍋藩主 秋月種美の次男として高鍋藩江戸屋敷で生まれました。はじめから米沢で生まれたわけではなく、宮崎の出身だったんですね。

母は筑前国秋月藩主 黒田長貞の娘で春姫という人でしたが、早くに亡くなってしまいます。幼名を松三郎といった鷹山は、実母亡き後一時祖母の瑞耀院に引き取られ養育されました。
実家の高鍋藩は兄の秋月種茂が継ぎました。

1760年鷹山は10歳で米沢藩8代藩主 重定の養子となります。重定は鷹山の母、春姫の従兄弟にあたる人でした。この時鷹山は直松と改名します。

1763年から折衷学者の細井平洲から学問を習いました。
折衷学とは聞くのも珍しいかもしれませんが、江戸中期の儒学の1つで、古学・朱子学・陽明学などのいいところだけをとった教えのことです。

米沢藩の家督を継ぐ

1766年元服して、名を勝興と改めます。その後江戸幕府10代将軍徳川家治より治憲という名を与えられました。そして翌年に上杉治憲として米沢藩の家督を継いだのです。上杉鷹山16歳の少年でした。
先程から使ってきた上杉鷹山という名前は、彼が隠居後に名乗ったものですがこちらの方が有名なので今回は上杉鷹山で話を進めていきます。

上杉鷹山の改革

上杉鷹山が家督を継いだ頃の上杉家は、財政難でかなりの危機に陥っていました。
その借財は20万両もあり、石高が15万石の上杉家に6000人もの家臣がいたのです。この人数は石高が120万石だった頃から変わりなく、人件費だけでも悲鳴をあげるほどでした。
その上農村も廃れてしまい、1755年には洪水まで起きて、藩の苦しい財政を更に脅かしたのでした。
前の藩主上杉重定は藩を幕府に返上しようかとまで考えていたといいます。

上杉鷹山は、この現状を財政再建と産業の開発、そして精神面の改革を用いて立ち直るきっかけを作ったのでした。
1785年に家督を治広に譲り隠居します。鷹山はまだ35歳でした。
治広は鷹山が養子となった後に生まれた重定の実子です。
隠居後も藩主の後見役として、実質的には政権を振るって財政立て直しを続けていたのでした。

「上杉鷹山」と名乗る

1802年鷹山は剃髪し、この時初めて上杉鷹山と名乗りました。この号は米沢藩の北部にあった白鷹山からとったものだと言われています。

最後

そして1822年4月早朝、睡眠中にこの世を去りました。死因としては疲労と老衰であるとされています。享年72歳(満70歳没)でした。

死後、上杉神社に謙信公と共に祀られましたが、1902年に松岬神社に移され、上杉景勝や直江兼続らとともに祀られています。

上杉鷹山の実施した改革

1.財政再建のための質素倹約

鷹山は藩主になるとすぐに大倹約令を出しました、
そして財政に詳しい莅戸善政(のぞき よしまさ)を重用しました。

まず、それまでの藩主では1500両かかっていた江戸での生活費を209両まで減らし、奥女中も50人から9人にまでリストラしました。
こうした倹約をしたにも関わらず、江戸城西丸の普請を命じられ、また多額の費用を出すことになり、再建は遅れをとってしまいます。

しかし鷹山は自ら進んで倹約生活を送っていました。朝は粥をすすり、夜は干し魚などをおかずにしていたと言います。酒も飲まず、冬に甘酒をいっぱいだけ飲んでいたそうです。
着るものも絹などの贅沢品を身につけず、綿でできたものを着ていました。

天明の大飢饉で東北地方を中心として餓死者が多く出た頃、鷹山は非常食の備蓄や藩士、農民へも倹約を進めていたこともあり、藩では餓死するものが他の藩よりも少なかったといいます。

2.産業の開発

米沢藩には鷹山が藩主になった頃、特産物と言えるものがなかったそうです。
そこで鷹山は綿織物や木工製品などの特産物を取り入れました。
原料輸出で終わっていた産業を製品にするまで一貫して生産しようというものでした。

米沢産の青苧は質が良く、織物の材料として収入源となっていました。
これを最終製品にするために「縮役場」を作り役人を置いて支援しました。製造場も作り蚕から取れた絹糸と青苧の糸とを織り交ぜて織物を作りました。養蚕が盛んになると絹織物を生産しました。

その上、鷹山は、当時流行りを見せていた錦鯉に目をつけます。米沢の水は錦鯉が育つのにうってつけだと考えたのです。

そのようにして少しずつ米沢に誇れる品を増やしていったのでした。
また藩士たちに命じて農民たちと田畑を開き、飢饉が起きても農民たちが飢えることのないように各自に蓄えておくこともさせています。

3.精神面の改革

鷹山は、武士だけではなく農民も全て等しく大切なものだという考えの持ち主でした。
民が豊かになることが、国を豊かにすることなのだという考えです。
鷹山は自ら田を耕し、農民とともに田植えをしたのです。殿様が手足を汚し田植えをしている姿に農民も、藩士たちも感動し、皆が気持ちを強く持ち農耕に勤しむようになりました。

中にはこのような改革に反対する者もいました。これを七家騒動といい奉行や家老などの7人が改革の中止を言い始めたのです。7人はこれを全藩士の意向であるといいましたが、下級武士たちがそれに逆らったので、鷹山はこの7人を処罰したのでした。

上杉鷹山の残した名言

1.「為せば成る  為さねばならぬ何事も  成らぬは人の為さぬなりけり」

あまりにも有名なこの名言を誰しも一度は聞いたことがあるでしょう。
これは2つの「なす」がキーワードです。

「為す」は行動することで、
「成す」は成し遂げるということです。

意味としては
行動を起こせば成し遂げられる、何もしなければ何も成し遂げることはできない。何もできないということは人が行動を起こしていないからである
何かを成し遂げたいならまずは行動を起こしなさいと言っているのですね。

2.「してみせて  言ってきかせて  させてみる」

ここでも行動の大切さを言っています。

意味は
人を育てるにはまずは自分がしてみせて、言ってきかせて、そしてその人にさせてみる

この名言とよく似たものがあります。
「やってみせ、言ってきかせて、させてみて、褒めてやらねば、人は動かじ」
山本五十六の言葉です。彼は上杉鷹山の名言をベースにしていたのですね。

まとめ

1961年第35代アメリカ大統領となったジョン・F・ケネディは、就任の時、最も尊敬する日本人は誰ですかという質問に、迷わず上杉鷹山の名前をあげました。窮地に陥っていた米沢藩を救った鷹山にとても尊敬の念を持っていたのでした。
これが逆に上杉鷹山の名前を日本でも大きくクローズアップさせたきっかけとなったことは確かです。

名前は知っていたが、実際にはどんな人なのかそのとき初めて知った人も多いかもしれません。
日本に来日したわけでもないケネディは内村鑑三の書いた「Represetative Men of Japan」(日本を代表する人物たち)という本を読み、上杉鷹山という人物とその生き方に触れ、感動したのでしょう。

上杉家には上杉謙信や景勝など有名な藩主がいますが、わずか10歳で当主となり、藩のために贅沢もせず尽くし抜いた上杉鷹山もまさに日本の代表する藩主であると言えるでしょう。

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