パルティアとは?ローマ帝国を苦しめたパルティアンショットも解説

騎兵の発達していない古代史における「遊牧民」の強さは圧倒的なものです。

戦車を引く小型の馬は存在していましたが、兵士を乗せて戦場を走る回れる馬や馬具の開発は古代世界では普及していなかったことが理由になります。

遊牧民族たちは「騎兵」という最大の武器を使い、古代世界に覇権を築いていくのです。

今回ご紹介するパルティアもまた遊牧民に築かれた古代国家になります。

古代ヨーロッパで最強の帝国、ローマ軍にも勝利したという彼らの王国を解説していきます。

パルティア王国の誕生

パルティアの建国者アルサケス1世

アルサケス1世のコイン(出典:wikipedia)

アレクサンドロス大王の死後、後継者の一人とされるセレウコス1世によりセレウコス朝が誕生します。

イラク、シリア、アナトリア、イランにまたがる広大な王国は各地を支配していくことになるのです。

その支配に不満を持っていた遊牧民ダーハ族の長であるアルサケス1世(正確な出自は不明、死亡は紀元前211年頃)は、パルティアの土地に兄弟や盗賊たちと共に現れ民衆を扇動します。

アルサケス1世はセレウコス朝のパルティア総督であるアンドラゴラスを襲撃し、彼を殺害することでパルティアを奪い取り、アルサケス朝パルティア王国を建国することになるのです。

しかしアルサケス1世には悩みがありました、西にあるセレウコス朝と、東にあるバクトリアという二つの敵対国家です。

軍備を増強していたバクトリアの王ディオドトス1世をアルサケス1世は警戒していましたが、ディオドトス1世の死を契機に、バクトリアと同盟を結ぶことに成功します。

東の脅威を解消したアルサケス1世は、西にあるセレウコス朝だけを敵にすれば良くなったのです。

紀元前227年頃、セレウコス朝と会戦し、その王であるセレウコス2世を撤退させることに成功、イランの土地を掌握することに成功します。

アルサケス1世はこうしてパルティア王国の基礎を築き、彼以後のパルティア王はアルサケスを称号として使うことになるのです。

パルティア王国の全盛期:ミトラダテス1世

ミトラダテス1世が彫られたコイン(出典:Pinterest)

ミトラダテス1世(在位紀元前171~紀元前138年)の時代にパルティア王国は全盛期を迎えます。

イランに続き、イラク・シリア方面を領土に組み込むことで強国となっていくのです。

かつての敵であるギリシャ風の文化を多く受け入れて、パルティア王国独自の貨幣にも「ギリシャを愛する」という刻印を記すようになります。

ミトラアフラマズダなどのイランの神々さえも、ギリシャの神々の姿で貨幣に刻まれています。

ギリシャ文化だけでなく王権や法律などの統治のための仕組みや、掌握したイラン・イラク・シリア各地の宗教観、芸術、建築様式などを受け入れていくのです。

なおパルティア王国は後代になるほどイラン文化の復活が進んでいきます。

中国(漢)とのシルクロードの交易地を掌握したパルティア王国は、交易と商業の中心となり大きく発展していきます。

パルティア王国の中国からの呼び名は「安息」であり、中国にまでその名が知られるほどの広大な範囲に影響を及ぼしていた強国なのです。

パルティア王国とローマの対立

パルティア王国のライバルであるセレウコス朝は、ローマに滅ぼされることになります。

その結果、西アジアの覇権を巡る対立の構図はパルティア王国対セレウコス朝から、パルティア王国対ローマ帝国という形へと変化することになったのです。

パルティア王国とローマ帝国は各地での紛争や、属王(言いなりの王、事実上の植民地の王を任命しようとした)擁立を巡る政治闘争を繰り広げることになります。

西アジアで勢力を拡大していった両者は、やがて直接的な軍事衝突を行うようにもなるのです。

パルティア王国対ローマ帝国

第一次パルティア戦争:カルラエの戦い(紀元前53年)

クラッスス(出典:wikipedia)

共和制ローマのマルクス・リキニウス・クラッスス(紀元前115年~53年)は有能な軍人であり、三頭政治(三人の有力者によるローマ帝国の統治)も行った政治家です。

しかし20年前の第三次奴隷戦争での軍功以来、クラッススは軍事的な実績から遠ざかっていたのです。

クラッススはパルティア王国を討伐し、軍事的な栄誉を得ようと考えます。

元老院は進軍を反対しましたが、カエサルとポンペイウスの賛成によりクラッススはローマ軍を率いて紀元前55年にローマを出発、パルティア王国との戦いに挑みます。

クラッススはアルメニアとの同盟を結ぶと、ユーフラテス川を渡り砂漠地帯を進み、パルティアへと向かうことを決断します。

このコースは過酷であるものの、アルメニア軍との合流を早く行えるというメリットがあったのです。

しかしアルメニア軍は土壇場になると参戦できなくなります。

パルティア王国軍の主力部隊がアルメニアを攻撃していたからです。

パルティア王国侵攻は、クラッススのローマ軍だけで行うことになります。

カルラエの戦い:スレナスの事前工作

クラッススはアルメニア軍が参戦しないと知っても砂漠を進みつづけ、パルティアの地を目指すことを変えることはなかったのです。

何度かのパルティア軍との戦いが繰り返され、ローマ帝国軍の兵士たちは熱中症と脱水症状に苦しむ状態に陥り、補給がままならない状況になります。

ローマ軍はパルティア王国の貴族スレナス(紀元前84年~紀元前52年)の「焦土作戦」にはめられていたのです。

スレナスは略奪される可能性のある町を自ら破壊、食料を民に運ばせていたため、ローマ軍は略奪による補給が行えない状況に追い込まれていたわけです(こういった戦い方を焦土作戦と言います)。

疲弊したローマ軍の5万の兵士たちの前に、スレナスは私兵1万を率いて現れます。

クラッススは左右に騎兵を配置し、中央に歩兵を縦に並べるという防御の陣形を選択し、スレナスの軍勢を待ち受けます。

パルティアンショット対ローマ帝国軍

パルティアンショット(出典:wikipedia)

クラッススは知っていました、遠征が始まって何度かパルティア軍との戦いをこなすうちにパルティア軍の攻撃方法は「パルティアンショット(Parthian Shot、安息式射法)」だと理解していたのです。

パルティアンショットとは騎馬で突撃したあとで、後方に退却しながら兵士が馬上で背後に向かって矢を放つ、一撃離脱の戦法になります。

クラッススはその攻撃を防御でやり過ごし、パルティア軍の矢が尽きるのを見計らって猛反撃を与えるという作戦だったのです。

当時最強と謳われたローマ帝国軍の5万に対して、スレナスは1万の兵であるため、この作戦は妥当なものに見えますが、スレナスはクラッススの想像を超える有能な将軍だったのです。

ローマ帝国軍が布陣を完成するよりも先に、パルティアンショットによる攻撃が始まります。

そしてこの日のパルティアンショットに矢が尽きるという「弾切れ」は起こらなかったのです。

スレナスは自軍の背後にラクダによる補給部隊を呼んでいました、このラクダたちの背には大量の矢が積まれてあったのです。

パルティアンショットの弱点はこの戦術で消失し、待ち受けるだけ矢の雨を浴び続けることになり、さらに言えば砂漠地帯の酷暑に晒されることで体力は削られていきます。

カルラエの戦い:結末

スレナス(出典:Circle of Ancient Iranian Studies)

反撃のタイミングを逸したローマ帝国軍は矢の雨と熱中症で疲弊していきます。

クラッススは状況を打破するために部下に命じて騎兵による突撃を行いますが、スレナスはあえて後退することでそれを砂漠のなかへと誘い込み、包囲し殲滅したのです。

ローマ軍の将の一人の首を討ち取ったスレナス軍は、その首を矢の雨を浴びて瓦解しつつあるローマ軍の内部に投げ込み、ローマ兵士たちの士気をも挫いたのです。

クラッススは自軍の崩壊を悟り撤退を開始しますが、スレナスは追撃して撤退的にローマ軍を攻撃します。

この追撃の結果、クラッススとその息子が戦死し、ローマ軍は壊滅することになるのです。

最強のローマ軍5万をスレナスは手勢の1万だけで破り、パルティア王にクラッススの首を献上することになったのです。

カルラエの戦い:その後

パルティア王オロデス2世はスレナスを恐怖するようになります。

オロデス2世が政争を制してパルティア王になれたのも、スレナスの功績が大きかった上、5倍のローマ軍を壊滅させたのです。

オロデス2世はこの有力貴族であり軍才をもつスレナスのことを、やがて粛正して殺してしまいます。

その後、オロデス2世の指揮のもとにパルティア軍はローマ軍と戦いますが、その結果は良くはないものであり、クラッススの部下でありローマ軍のガイウス・カッシウス・ロンギヌスは2年間シリアを守り抜くことになるのです。

国内での反乱も起きたため、ローマとの戦いは中断することになるのです。

ローマ帝国では有力者クラッススの戦死により、三頭政治は崩壊してしまいます。

カエサルとポンペイウスの対立が激化していき、勝者であるカエサルは帝制ローマを始めることになるのです。

スレナスの攻撃から命からがら生き延びたローマ軍の兵士たちは、パルティアの軍旗がきらめくシルク製であることをローマに報告、絹(シルク)への関心がヨーロッパで高まります。

この戦いの結果のひとつとして、シルクロードの西ヨーロッパへの拡大を招くことになるのです。

なおパルティア王との戦いで名を上げた「カッシウス」は、やがてカエサルを暗殺することになります。

パルティアの滅亡

パルティア戦争の推移

パルティア戦争の推移
  • 第一次パルティア戦争(紀元前53年):カルラエの戦いで勝利
  • 第二次パルティア戦争(紀元前39年):アウグストゥスによる戦略的引き分け
  • 第三次パルティア戦争(紀元2年):パルティア側の勝利
  • 第四次パルティア戦争(58年~63年):パルティア側の勝利、アルメニアに属王を擁立
  • 第五次パルティア戦争(113年):ローマ軍の勝利
  • 第六次パルティア戦争(161年~166年):ローマの勝利
  • 第七次パルティア戦争(194年~198年):ローマ軍勝利、パルティア大幅に弱体化
  • 第八次パルティア戦争(212年):アルタパヌス4世率いるパルティアの勝利

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パルティア王国の滅亡

度重なるローマとの抗争と国家の疲弊により、パルティア王国は衰退していくことになるのです。

そして224年、アルデシール1世によりパルティア王が殺害されてしまいます。

226年には首都を占拠されて、遊牧民主体イラン人国家であったパルティア王国は、農耕主体のイラン人=ペルシャ人に滅ぼされ、ペルシャ人の王アルデシール1世によりササン朝ペルシャが建国されるのです。

ササン朝ペルシャは651年にイスラム教勢力に滅ぼされるまで続き、そのあいだはゾロアスター教を侵攻するイラン文明国家としてこの土地を支配することになります。

ササン朝ペルシャもまたローマ帝国、ビザンツ帝国などのライバルとの戦いを繰り広げることになるのです。

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まとめ

  • パルティアは遊牧民族によって建国
  • パルティアはギリシャ文化が好き
  • パルティアは後はイラン文化に回帰
  • パルティアとローマの戦いの結果シルクロードが拡大する
  • パルティアとローマはよく戦う
  • パルティアンショットはヨーロッパ文明で威力を発揮する
  • パルティアはササン朝ペルシャに滅ぼされる

遊牧民族の馬上射法であるパルティアンショットは、パルティアだけでなく他の遊牧民族も広く行う攻撃方法です。

ローマ人が初めて見たのがパルティア兵のそれであったため、パルティアンショットと名付けられます。

パルティアとの戦いでローマは疲弊していき、ゲルマン人たちの南下を許すことになり、ギリシャ・ローマ主導による古代世界は終わり、キリスト教主体の中世ヨーロッパの時代が始まることになるです。

パルティア王国もまた世界の歴史に影響を与えた国家になります。

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