ホセ・リサールとは?フィリピンの英雄の生涯と名言について解説

ヨーロッパ各地がアジアへ進出していた大航海時代、1565年スペインのミゲル・ロペス・デ・レガスピがセブ島を領有したのを皮切りに、フィリピンはスペインの植民地となりました。

その植民地下において19世紀になると独立運動が盛んになります。
そこに1人の英雄がいました。それがホセ・リサールです。

ここでは彼の生涯と、彼の残したいくつかの名言を共に解説していきます。

少年期

ホセ・リサールは本名をホセ・プロタシオ・メルカード・リサール・アロンソ・イ・レアロンダと言います。

ホセは1861年、スペイン領東インドルソン島のカランバで誕生しました。

父親はフランシスコ・メルカードといい、中国人とマレー人の混血です。
母はテオドラ・アロンソで日本人とスペイン人の混血でした。

ホセは11人兄弟の7人目の子供でした。
彼には姉が6人、兄が1人、それに妹が4人おり女系家族だったようです。

ホセは8歳でタガログ語とスペイン語を学び、9歳でピニヤーン校に入学しました。

そこで初等教育を学んだホセは、1877年にはマニラのアテネオ学院(現在のアテネオ・デ・マニラ大学)に16歳で入学し農学と土地測量技術を学びました。

母が失明するかもしれないという状況になると、フィリピンの最高学府であるサント・トマス大学で医学も学びました。

1879年にはスペイン語の詩のコンテストで最優秀賞を得て、1881年にはスペイン政府から土地査定技師の免許も与えられました。

海外留学

スペインへ

ホセは1881年にアテネオ・デ・マニラ専門学校を卒業、翌年にはサント・トマス大学の医学部も修了しています。一体どれだけ学校に通い、どれだけ勉強していたのかと驚かずにはいられませんね。

そしてホセは父の反対を押し切って、スペインのマドリード大学へと留学したのでした。彼はマドリード大学の医学部と哲文学部に入学しました。

ここでも彼は猛勉強をし、スペイン語はもちろんフランス語、イタリア語、ポルトガル語などなんと15カ国以上の言語をマスターしたのでした。その上、中国語や日本語、タガログ語など数カ国の言語を研究していました。

大学時代の同級生には、哲学者として有名なミゲル・デ・ウナムーノがおり同じクラスでギリシャ語を学んでいます。
ホセは1885年にマドリード大学の哲文学博士と医学士の学位を取得しました。

フランス、ドイツへ

マドリード大学を出た彼は、今度はパリ大学へ行きフランス語と眼科学を学びました。
このとき彼はフランス革命の「人権宣言」をタガログ語に翻訳しています。

その後1886年から1887年にかけてドイツのハイデルベルク大学やライプツィヒ大学、ベルリン大学で医学と社会学を学びました。

ホセがドイツ語で書いた社会学の論文が認められ、ドイツ国籍を許されたのですが彼はこれを断りました。
彼はあくまでも母国を愛し続けていたという証でしょう。

そして1887年にベルリンで「メリ・メ・タンヘレ」(我に触れるな)という小説を書いています。

その年彼はフィリピンへと帰国しました。26歳になっていました。

再度留学へ

フィリピンへ戻った彼は医師をしていましたが、ベルリンで書いた「メリ・メ・タンヘレ」が反植民地的だとスペインの植民地の支配層から問題視されたため、身の危険を察知した彼は再び留学することになりました。

日本へ

ホセの留学の目的地はヨーロッパでしたが、日本とアメリカを経由して行くことにしました。
1888年2月横浜に到着し、スペイン公使館や東京ホテルに約2ヶ月間滞在しました。

彼は「おせいさん」こと白井勢似子と親しくなり2人は歌舞伎を見たり日光や箱根を訪れたりしました。

ホセは勢似子とのことを誰にも口にしませんでしたが、彼の没後その日記から勢似子の写真と共に「あなたのように私を愛してくれる人はいなかった」と記されています。

わずか2ヶ月間でしたが2人はとても大切な時間を過ごしたのでしょう。

ヨーロッパへ

1888年4月にはサンフランシスコ行きの船に乗り込みました。船中で後に衆議院議員となる自由民権運動をしていた末広鉄腸と意気投合し、鉄腸は訪米が目的だったのですが、ホセと一緒にイギリスまで行っています。

ロンドンで鉄腸と別れたホセは、大英博物館などのイギリスやベルギーの図書館に通い古代史の研究をして、スペインによる植民地化以前のフィリピンの歴史を研究しました。

1889年ロンドンで日本の民謡「かるかに合戦」とフィリピンの民謡「さるかめ合戦」を比較したものを書いています。

その年の2月には、ロペス・ハエナやデル・ピラールなどのマドリードに滞在していたフィリピン出身者と、スペイン語新聞の「ラ・ソリダッド」(団結)の創刊に関わりました。

1891年9月にベルギーのヘントで小説「エル・フィリブステリスモ」を出版しました。

帰国

2冊目の本を出版した後、ホセは帰国しようとしました。しかしホセの反植民地主義を危険視されたたため帰国ができませんでした。

1891年11月香港に到着し、そこで眼科医を始めました。
それでも母国に帰りたい気持ちが高まり、翌年の6月帰国しました。

帰国後彼は、「ラ・リガ・フィリピナ」(フィリピン同盟)を組織しようと動きます。これは決して革命的なものではなく穏健な改革を望むものでしたが、スペイン側からは危険極まりないものと捉えられました。

ホセは逮捕され、ミンダナオ島のダピタンに流刑となりました。
島に流されてからも医師として住民に寄り添いながら、島の地質や動物について研究しています。

最後

1896年流刑から戻ったホセは、軍医に志願し、スペイン海軍の巡洋艦「カスティリア号」に乗り込みキューバへと向かいました。

しかし船が地中海に入ったところで秘密結社カティプナンが独立闘争を始めたのです。

以前から危険視されていたホセは、バルセロナ上陸後逮捕されてしまいます。
フィリピンの首都マニラに連行されたホセは軍法会議にかけられ銃殺刑が言い渡されたのです。

1896年12月フィリピンの民衆が見守る中ホセは銃殺刑となりました。まだ35歳の若さでした。

名言

ホセはいくつかの名言を残しています。それはいつもくじけない心を示したものでした。

  • 「我々は希望がひとかけらでも残っている限り、繰り返し、繰り返し挑戦して、絶対にへこたれない」
    何度でも挑戦してへこたれない彼の生き様そのものでしょう。
  • 「学びに学び、そして学んだことを熟慮するのだ。人生は真剣なものであり、知性と勇気を持つもののみが、その価値にふさわしく生きることができる」
    若い時から勉学や研究に真摯に打ち込んできたホセならではの言葉ではないでしょうか。

まとめ

母国フィリピンを愛していたホセ・リサール。研究や学問にこんなにまで打ち込めたのも故郷を思うが故だと感じます。

革命と言っても穏健派だった彼は、残念にも銃殺されてしまいましたが彼の生き様はフィリピンの人々の心に英雄として刻まれたのでした。

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