匈奴とは?漢を苦しめた戦法や冒頓単于、フン族との関係を解説

古代の東アジアの主権を握っていたのは、多くの時代や地域では中国でしたが、時代によれば遊牧民族たちも大きな勢力を築いています。

匈奴(きょうど)と呼ばれる人々が紀元前4世紀~紀元後1世紀にわたりモンゴル高原を中心にして、広大な範囲を支配していたのです。

遊牧民族である彼らは馬を巧みに操り、古代世界において屈指の戦闘能力を発揮した集団になります。

今回は秦や漢を苦しめるまでの勢力を持っていた「匈奴」について解説していきます。

匈奴とはどんな人々だったのか?

匈奴とは中国から見て北方や辺境にいる遊牧民族

匈奴は紀元前4世紀の頃には、古代中国の北部や辺境に姿を現した武装した遊牧民族たちであり、中国の王朝と軍事的な衝突を起こすこともあります。

ときには外交や交易を行うようになっていました。

冬は比較的、高度の低い土地で放牧を行い、夏になるとモンゴル高原などの標高の高い土地に移動していました。

家畜を放牧する彼らは馬に乗ることに長けており、農耕を行うことは稀で、主に狩猟や牧畜で食料を得ていたのです。

食生活はヒツジの肉や魚、狩猟で得た野生の鳥などが中心であり、ヨーグルトなどの乳製品も食べています。

交易などで手に入れたのか、穀物を食べていたという研究もあります。

住居は移動式の簡素なテントであり、羊毛などにより編まれた布と木組みを使って建てられていたようです。

信仰していたのはシャーマニズムだったとされています。

シャーマニズムは匈奴だけでなく、その周辺にいた遊牧系民族にも見られる特徴になります。

また美術としては「動物による補食シーン」などを好み、死んだ獲物をくわえて運ぶ虎などがあります。

空想上の怪鳥がヘラジカを襲う彫刻など、狩猟や動物をモチーフにしながら、死と再生や力の継承といった、民族的な哲学を反映させた芸術観を持っていたのではないかとも考察されているのです。

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匈奴の政治体制:単于(ぜんう)

単于(ぜんう)とは匈奴の大首長のことになります。

多くの集団から形成されていたと考えられる匈奴の、リーダーたちのリーダーのことであり、簡単に言えば「王さま」「皇帝」とも言える地位になります。

単于は匈奴だけでなく、北アジアの遊牧民国家の「君主」を示す言葉として使われています。

単于という言葉そのものが文献に登場するのは、中国の司馬遷が記した『史記』(紀元前91年に完成)になります。

匈奴は漢の時代に滅びますが、本来は血族単位で行動している遊牧民族が集合して国を作るという発想は彼ら以外の遊牧民族に継承されるようになるのです。

鮮卑、突厥、柔然、契丹、女真などの、モンゴルあるいは中国北部にいる遊牧民たちに同様の仕組みを受け継ぐことになります。

遊牧民の血筋や国家は隣接する中国にも大きな影響を与えることが多く、モンゴルを統一したチンギスハンは元王朝を、中国北東部にいた女真族は清王朝を作るなど、遊牧民たちは中国に征服王朝を建てることにもなるのです。

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匈奴の墳墓

単于などの有力者が亡くなった場合には、その墓には金銀財宝などと一緒に、愛人や部下などを数千人単位で殉死者として埋葬したともされます。

最盛期の王墓は現在のところは未発掘となっているため、これからの発掘と研究が待ち遠しくもありますが、子孫であるモンゴル系の方々にとって「王墓があるかもしれない土地」は「聖地」として祀られていることもあるため、発掘作業は難しい状況でもあるのです。

墳墓の形式にはトルコ系のものと類似したものが見られるなど、遊牧民族の血筋の広さや多民族性を考えさせるような発見もあります。

匈奴の騎馬戦法

匈奴は戦上手

古代の中国の王朝である秦(始皇帝などで有名な国家)と、匈奴たちは領土が一部重なっていたため、両者のあいだでは軍事的な衝突が起こることがあったのです。

匈奴は遊牧民であるため、馬を巧みに乗りこなします。このことが大きな軍事的なアドバンテージになるのです。

秦にも馬はいましたが、あぶみ(足を置くための装置)などの馬具が発明されてもいない時代であるため、馬に乗ったまま武器を扱うことなど、技術的にはほとんど不可能であろうという認識でした。

しかし遊牧民族である匈奴の戦士たちは馬上から弓を放ち、それをターゲットに命中させるほどの優れた乗馬技術を持っていたのです。

強靭な金属で鎧を作ることが出来ない時代であったため、馬から放たれる矢は圧倒的な殺傷能力を持っています。

匈奴の馬上からの弓をつかった射撃によって、秦などの中国国家は大きな苦戦を強いられるようになったのです。

古代世界では騎兵が圧倒的に強かった

古代世界では歩兵を中心とした軍隊が組織されています。

秦の軍隊も移動は馬で行ったとしても、戦闘は馬から下りて行うことが一般的でした。

馬具の発達していない時代においては、馬の上で武器を扱うことは極めて特殊な技術であったわけです。

よほど馬に慣れているか、あるいは天才的な乗馬技術でもない限りは、そのようなことは出来ないため、実用的な騎兵の誕生は馬具や馬の品種改良などが行われる後世まで、遊牧民族しか持っていなかったのです。

騎兵は馬に乗っているため歩くよりは速く、突撃して来ても巨大な動物であるため強かったのです。

さらに匈奴は馬に乗ったまま矢を放ってきます。

この馬に乗って戦える兵士たちを持っていたことが、匈奴の圧倒的な強さを支えていました。

匈奴と中国(秦・漢)の戦略の違い

中国の戦略は城や町を拠点として戦い方ですが、匈奴は遊牧民族であるため、拠点も移動式になります。

中国からしてみれば匈奴を滅ぼすために攻め入る場所がないわけです。

たとえ一時的に戦闘に勝ったとしても、匈奴はどこまでも逃げることが出来ます。

遊牧民であるがゆえに、攻められても逃げればいいという作戦であったわけです。

中国側が優勢のときは逃げればよく、中国側が守りに入れば、周辺を根こそぎ略奪すれば良かったわけです。

また匈奴のリーダーは先頭で軍勢を指揮するというスタイルであったため、戦況判断を軍隊全体に波及させることが出来ました。

つまり劣勢のときに素早く逃げられるということが、匈奴の戦術上の強みとなります。

戦術的・戦略的に守りに優れている軍団であり、そもそも攻撃は騎兵で行うためその時点で強いわけです。

攻守ともに優れた集団であったため、中国の軍隊は匈奴に苦戦することになります。

匈奴と秦の戦い

秦は始皇帝によって中国全土を統一したことで有名ですが、紀元前771年から存在している国になります(滅亡は紀元前206年)。

匈奴は紀元前318年に秦を攻撃しましたが、敗北しています。

およそ100年後の紀元前215年、秦の始皇帝は領地を占有している匈奴を討伐させています。

匈奴を撤退させた始皇帝は、各国が各地に点在するように作っていた長城を改築、それらをつなげるようにして北方からの遊牧民族たちの攻撃を防ぐようにしたのです。

これがいわゆる「万里の長城」であり、匈奴を始め、中国の北方に住んでいたり、あるいは北からやって来たりする遊牧民族の攻撃を防ぐための城塞になります。

匈奴の皇帝・冒頓単于

冒頓単于が匈奴を支配する

始皇帝によって追いやられた匈奴は、同じ遊牧民族でありながら違う部族である月氏(げっし)からも攻められます。

王族の一人である冒頓(ぼくとつ)は、自分の父親に人質として月氏に送られましたが、父親は息子が人質になっているにも関わらず、月氏に戦争を仕掛けました。

冒頓が人質となったことで油断していた月氏を匈奴は倒し、また冒頓は自力で月氏から馬を奪って帰国してきたのです。

その後、冒頓は父親を自分の精鋭部隊によって弓を放って暗殺します。

父親の「単于=王さま」の位を奪い取り、匈奴の皇帝・「冒頓単于(ぼくとつぜんう)」として君臨することになるのです。

匈奴は東にいた東胡を攻め滅ぼし、さらに月氏を西へと追い払うことで匈奴を強国へと成長させたのです。

匈奴と漢の戦い

紀元前200年に前漢の皇帝である劉邦(りゅうほう)は歩兵32万を率いて匈奴討伐に繰り出します。

40万の兵を率いる冒頓は弱い兵を前線に配置して、わざと敗北を演出し後退します。

劉邦はそのまま勢いに乗って前に出てしまいますが、匈奴の軍勢に包囲されてしまったのです。

そのまま7日間のあいだ白登山(はくとさん)という山に孤立した劉邦は、冒頓の夫人に賄賂を払って脱出します。

講和の条件として、匈奴側は漢に対して貢ぎ物を渡すように要求し、建国して間もなく国力の乏しかった漢はその不利な条件を飲むことになったのです。

漢王朝が安定していき、強大な国家となるまでその関係性は続きましたが、漢の武帝の時代に大規模な匈奴との戦争が起きました。

その結果、匈奴は敗北してしまい、奥地へと逃げ延びたとされます。

国力をつけた漢には対抗出来なくなっていき、かつてとは立場が逆転し、漢に人質を取られるようになっていきます。

中国の王朝が変わると混乱につけ込むように勢力を盛り返すこともありましたが、やがて匈奴は分裂し、北と南に分かれます。

北匈奴は後漢とそれに協力する南匈奴によって討伐され、どこかへと消えました。

南匈奴は中国に同化してしまい、匈奴は歴史から消えてしまったのです。

匈奴とフン族

北匈奴の行方

北匈奴はどこに逃げ去ったのでしょうか?

国が滅び去ったとしても遊牧民族は草原を伝ってどこまでも逃げることが可能です。

匈奴は文字を使っていなかったため、自分たちの歴史的な資料を残していません。

そのため彼らがいつどこをどのように移動したのかを追跡することは難しいものになってしまうのです。

しかし一つの興味深い説があります。

匈奴という言葉の呼び名が「フン」に似ていることから、4世紀にヨーロッパを荒らし回ったフン族とのつながりを指摘する研究もあります。

名前が似ているかもしれない、使っていた言語の一部に共通点があるかもしれない、少なくとも遊牧民族で騎馬に乗って戦っていることは同じ、という一致があるわけです。

また4世紀に中国から西へと追いやられたことと、4世紀にヨーロッパへ東から現れたことで時代と移動した方向の一致もあります。

もしかすると、フン族=匈奴である可能性もあるわけです。

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匈奴=フン族説の信頼性

匈奴はフン族だったのでしょうか?

遊牧民族がユーラシア大陸を横断することは不可能なことではありません。

その説を支持するための幾つかの証拠が存在していますが、今のところは断定することも完全に否定することも難しい説になります。

そもそも匈奴がどういった民族だったのかを定義することも、現状では難しいのです。

匈奴は複数の民族が集合して生まれた可能性さえあるからになり、匈奴の正確な情報は残っていません。

またフン族に対してもそれは言えることなのです。

どちらも複数の言語を使っていた、多民族からなる集団だった可能性もあるため、たとえ言語や文化の一致が発見されたとしても、それを証拠にして両者を同じ存在だと断定することは難しいのです。

遊牧民には文化的な共通点も多く見られることもあるため、文化が似ているだけでは同じ民族と証明するための根拠としては弱くもあります。

また移動距離が広大な人々であるため、その遺伝的なルーツを追跡することが難しいのです。

数千キロ離れた場所で生まれた遊牧民族同士が、婚姻を結ぶこともあるからになります。

もしも匈奴の王墓などを発見して発掘することが出来れば、単于だけでなく殉死者の遺体などを見つけて遺伝子を調べることで、匈奴を構成する遺伝子を見つけられるかもしれません。

しかし今のところ匈奴=フン族と断定することは難しいのですが、否定することも出来ない説でもあるのです。

匈奴がフン族としてヨーロッパの歴史に大きく関わっていたとすれば、とても興味深い説になります。

まとめ

  • 匈奴は遊牧民
  • 匈奴は馬に乗っていたから戦が強かった
  • 匈奴は秦や漢とも戦い、大きな勝利をしたこともある
  • 匈奴は文字を使っていなかったため、正確な資料が残っていない
  • 匈奴とはどういう集団であったのかを証明することは難しい
  • 匈奴はフン族になったという説もある
  • 匈奴の大首長を単于という

匈奴は謎が多い集団です。

自分たちが書き残した歴史が残っていないことが、匈奴の研究を難しくしています。

しかし中国の古代帝国を圧倒するほどの力を発揮したことは事実です。

匈奴ほどの強い集団ならば、ユーラシア大陸を駆け抜けてヨーロッパに大きな影響を与える可能性もあります。

研究が進めば、西洋と東洋の古代史がリンクする日も来るのかもしれません。

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