歴史には栄枯盛衰がつきものであり、栄えた王国も終わりを迎える日が来るものです。
中国の王朝である清の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)は清の最後の皇帝(ラストエンペラー)になります。
今回は波瀾万丈の人生を送った溥儀をご紹介しています。
目次
溥儀の生涯
溥儀は2才で宣統帝として即位
諸外国との闘争や内乱の結果、大きく疲弊していた清にさらなるイベントが起こります。
1908年に先帝である光緒帝(溥儀からすれば伯父にあたる)が死亡したことで、わずか2才の溥儀が清朝の皇帝として即位することになるのです。当時の元号から、「宣統帝(せんとうてい)」と称しました。
もちろん2才の溥儀に政治など執り行うことは出来なかったため、彼の父親である醇親王・載灃(じゅんしんのう・さいほう)が政権を掌握します。
父親・載灃が行ったことは有力な政治家であり軍人でもある袁世凱(えんせいがい)を政権から追放することです。
袁世凱は光緒帝の部下だったのですが、光緒帝と対立していた西太后(せいたいこう/せいたいごう)側に寝返り、光緒帝が幽閉される契機を作っています。
光緒帝の弟である載灃からは恨まれていたのです。
なお光緒帝は対立していた西太后や袁世凱、もしくは宮中で力を持っていた宦官等により毒殺されたと考えられています。
2003~2008年に中国で行われた調査により、光緒帝の遺体からは大量のヒ素が投与された痕跡が発見されています。
犯人の特定はされていないものの、「光緒帝が毒殺された翌日」に西太后は死亡しているのです。
このことから死の間際にあった西太后が光緒帝を暗殺させたのではないか?という説も存在しています。
ともあれ、光緒帝は死亡して、西太后は死の直前に光緒帝の次代の皇帝を幼い溥儀に指名したのです。
清朝末期の大悪女である西太后の死によって、最後の皇帝の物語がスタートします。
【関連記事】
清朝の滅亡:辛亥革命
激動期にある中国において溥儀が皇帝であった時間は短くも色濃いものとなります。
溥儀の父親により追放された袁世凱でしたが、再び権力の中心に近づくチャンスが生まれます。
1911年に起きた辛亥革命(しんがいかくめい)の反乱を制圧することが出来る人物は袁世凱しかいないという結論に清朝政府は達したのです。
清朝軍は衰退しているため、袁世凱がリーダーであった「北洋軍閥(ほくようぐんばつ)」の力を借りることで反乱を防ごうとしたわけです。
こうして袁世凱は政権に復帰し清朝の第二代内閣総理大臣に就任しますが、清朝を裏切り革命勢力に協力することになります。
袁世凱は革命勢力から「中華民国の臨時大統領に任命する」という密約を結ぶと、清朝政府に政権交代を促します。
その結果として1912年に清朝は滅亡して宣統帝は退位することになるのです。
【関連記事】
溥儀が皇帝として復位
1917年7月1日、革命後も清朝に忠誠を尽くしていた張勲(ちょうくん)により溥儀が再び皇帝として即位させられます。
張勲の行動の後ろ盾となっていたのはドイツです。
第一次世界大戦下にある当時、ドイツは中国が対ドイツ勢力の一員として参戦してくることを警戒しています。
そのため、皇帝と清朝の復権を目論む張勲に資金提供を行い、その見返りとしてドイツと中国が敵対する状況を防ごうとしたのです。
張勲はこの資金提供の結果としてなのか、それまで対ドイツに見せていた主戦的な考えを否定しています。
しかし、7月1日に新たに即位した溥儀に対しては民衆の支持も集まらず、各国も反対の動きを見せたため、7月12日には溥儀は退位することになるのです。
張勲はドイツ大使館に逃げ込むこととなり、政治的にはこれ以後は失脚する状態となります。
溥儀はその後も王城である紫禁城(しきんじょう)に住むことは許されていたものの、中国国内での内戦が混迷を深めるなか、1924年に起きた馮玉祥のクーデターの結果、紫禁城から追放されます。
追放された溥儀は日本に接近し、その保護を得ることになるのです。
満州事変が溥儀に与えた影響
日本の関東軍による謀略(軍事介入する理由は日本側の自作自演)である満州事変後に満州を制圧した関東軍は、溥儀を再び皇帝として即位させることにします。
中国国内の紛争につけ込む形で領土を占有した日本側は、各国からの不信感を払拭し、満州の支配に正当性をもたせるために溥儀を皇帝として擁立することに決めたのです。
溥儀も清朝の没落により王墓などが盗掘されるなどの権威の失墜に心を痛めていたため、清朝復興を目指して日本側の要請に乗ります。
1934年に満州国の皇帝・康徳帝として即位し、日本側の傀儡(かいらい=言いなり)として満州支配のための道具となったのです。
日本側からすれば軍隊を駐留させ中国大陸の利権を確保するための大義名文を得ることになり、満州は事実上の植民地政策と中国との戦争を継続するための拠点になります。
プライドの高い溥儀は清朝の復権を望んでいましたが、日本側も中国側の緒勢力もそれを望むことはなく、清朝復権は夢のまた夢であったのが現実です。
支配者として地位こそ与えられたもの、政治的指導者としての実権は全くもって無いままに、清朝の皇帝としてのブランドを日本側に利用されるだけになったのです。
皇帝としての後宮を日本側に作られても、溥儀は盗聴されることを恐れて一度も使うことがないなど、信頼とは遠い関係にあったのです。
第二次世界大戦後の溥儀
第二次世界大戦が終結すると満州国は崩壊し、日本への亡命を目論んでいた溥儀もその逃避行の途中でソビエト連邦軍に捕まります。
財宝で買収しようと企みますが失敗してしまい、ソビエト連邦(ロシア)に輸送され捕虜となり、やがては中国へと移送されることになるのです。
中国では戦争犯罪人として扱われることになり、1950年~1959年のあいだは戦犯管理所に収監されることになります。
中国からすれば敵である日本に協力した裏切り者だったからです。
1959年に模範囚として釈放された後は、北京の植物園で庭師として過ごした後に満洲族の代表という意味合いのもとに政協全国委員(日本で言えば国会議員のようなもの)に任命されます。
1967年の10月17日、文化大革命の最中にある北京で死亡することになるのです。
その死因は腎臓癌の症状悪化によるものでしたが、運び込まれた病院からも治療を拒まれる形となってしまいます。
溥儀の私生活
勉強熱心な少年
皇帝としての地位を利用され続けただけの人生でもあった溥儀ですが、私生活も波瀾万丈なものになります。
溥儀が13才のときに彼の家庭教師となったイギリス人のレジナルド・ジョンストンは、勉強熱心な若者だと彼のことを評しています。
溥儀は西洋の文化に受容的な側面も持っており、ジョンストンの影響を強く受けることになるのです。
ジョンストンから「ヘンリー」という英語名までもらっています。
洋服に合わないからという理由で瓣髪を切る
紫禁城で西洋文化に親しんでいた溥儀は、洋服に似合わないからという理由で自身の瓣髪(べんぱつ/女真族の髪型)を切ったり、スーツを着たりといったことをしていたのです。
西洋文化の影響を受ける彼に対して、周辺にいた宦官や女官などは清朝の伝統や文化を重んじて欲しいと望み、やがて対立することになります。
溥儀は保守的なスタッフを大量に解任させることも行いますが、紫禁城から追放され年齢を重ねていくと清朝文化への執着も見せるようにもなります。
また慈善活動にも積極的であり、日本が関東大震災で被災したときは多額の援助金を送っています。
そういった縁もあり、紫禁城を追われた後は日本側の保護を受けるようになり、やがては傀儡(かいらい)の皇帝として利用されることになるのです。
【関連記事】
5人の女性と結婚するも子供はいない
妻も妾も君主の奴隷という言葉を残しているのが溥儀の家族観のひとつになりますが、5人の女性と結婚しています。
しかし、溥儀は子供には一人も恵まれませんでした。
- 婉容(えんよう):皇后。正妻であるが愛情はない結婚ともされる。海外脱出が望みであったが、夫があきらめたことに失望。アヘンに溺れるようになる。満州へは行きたくなかったが、夫が死んだから来てくれと騙されて、連れ出されることになる。
満州で子供を出産するが、不義の子と夫に断じられボイラーで焼かれる。アヘンの中毒になりボロボロの廃人状態になっていたとされ、最後は満州国からの脱出の騒動の末に行方不明となる。 - 文繍(ぶんしゅう):愛のない結婚その2。没落した貴族の娘であり、側室である。紫禁城から愛新覚羅溥儀ともども追い出された後で離婚している。最後は困窮して餓死に近い形であったともされる。
- 譚玉齢(たん ぎょくれい):満州国の皇帝になったあとで娶った側室。17才で結婚し、22才で死亡。関東軍に暗殺されたという説もあるが、病死説のほうが有力視されている。
- 李玉琴(り ぎょくきん):貧農出身。15才で結婚。後に離婚するものの、溥儀の側室だったことで迫害される(溥儀も病院で治療を拒まれた形で死亡している)。
- 李淑賢(り しゅくけん):幼くして両親を亡くした苦労人。夜間学校で看護師資格を取る。37才で結婚。溥儀からすれば唯一の恋愛結婚。夫婦仲はよかったとされる。
溥儀の家族:弟と父親
- 溥傑(ふけつ):弟。満州国軍陸軍中佐。日本にも留学していた。第二次世界大戦後は戦犯としてソ連、中国で収監される。社会復帰して議員となる。日中国交正常化後は日本に7度も訪れ、両国の親善に貢献。
- 溥任(ふにん):弟。兄たちとは異なり政治には関わらず、小学校を設立しその校長を務める。2015年に96才で死去。
- 載灃(さいほう):父親。日本の傀儡(かいらい)国家満州の皇帝に息子がなることを不満に思い、満州には行かず北京で過ごす。息子たちと異なり裏切り者と弾劾されることはなかった。
- 毓嵒(いくがん):遠縁の子。本人は後継者に指名されたとも主張しており、溥儀もまた自伝のなかで後継者候補として考えたこともあったと述懐する。
溥儀に子孫はいない?
前述した通り、溥儀には結婚した女性は5人いたものの、子宝には恵まれませんでした。
しかし、弟の溥傑(ふけつ)は日本留学中の1937年、日本人の嵯峨浩(さがひろ)と結婚し、二女に恵まれます。
次女の福永嫮生(ふくなが こせい)さんは現在兵庫県・西宮市に住んでおり、戦争の体験や日中友好についての講演活動を行なっています。
そう、彼女こそ愛新覚羅家の血を継ぐ者なのです。
ちなみに、溥傑の長女・慧生(えいせい)は1957年に日本人の恋人・大久保と静岡県の天城山(あまぎさん)にて心中しました。
ラストエンペラー溥儀の人生は壮絶
伯父である先帝が毒殺され、2才で皇帝になり物心つく前には退位します。また臣下とドイツの介入により、少年時代におよそ10日だけ皇帝となることもあったのです。
クーデターで紫禁城から追放されて、その後は日本の傀儡(かいらい)として過ごすことになります。
近代中国史の混沌とした時代背景を反映した政治的なイベントの連続ですが、そのほとんど全てで彼が主導権を得ることはなかったのです。
時代に翻弄され、なおかつ私生活も物質面の豊かさはあるものの悲惨なものと言えます。
三度の離婚に、正妻はアヘン中毒の果てに行方不明となったのです。
ラストエンペラーの人生は波瀾万丈という言葉があまりにも相応しいものに感じられます。
まとめ
- 溥儀は2歳で宣統帝として清朝の皇帝として即位
- 溥儀の伯父は西太后か袁世凱により暗殺されている?
- 溥儀は三度、皇帝となる
- 溥儀は満州事変の後に傀儡(かいらい)の皇帝としか就任する
- 溥儀は満州帝国唯一の皇帝
- 溥儀は清朝最後の皇帝(ラストエンペラー)
- 溥儀の結婚は5度、離婚は3度
- 中国国内や日本、欧米諸国の政治的な目論みに翻弄される
愛新覚羅溥儀は近代中国史の政治力学に翻弄された人物です。
本人の主体的な意志の結果というよりも、その身分を利用しようとする周囲の政治勢力の影響が大きな存在になります。
彼の人生を研究することは当時の各勢力の思惑や野心を明らかにしてくれるという研究成果が期待できるものです。
ラストエンペラーの人生は歴史研究の上でも大きな価値があるものになります。
コメントを残す