メソポタミア文明とは?意味や特徴、歴史を解説

人類最古の文明のひとつにメソポタミア文明があります。

最も有名な古代文明のひとつですが、それが具体的にはどのようなものであったのかは把握しにくいものです。

世界史でも必ず習いはするものの、多くのページを割く分野でもありません。

今回はそのメソポタミア文明についてご紹介していきます。

メソポタミア文明の歴史

メソポタミアの位置(出典:wikipedia)

メソポタミア文明とはどこにあったのか?

メソポタミア文明とはどこにあったのでしょうか?

現在の地図で言えばメソポタミア地方はイラクの一部になります。

メソポタミアはギリシャ語で「川のあいだの土地」という意味であり、「チグリス川とユーフラテス川のあいだの土地」のことになるのです。

メソポタミアには最古の文明の痕跡が残されており、それは紀元前4000年のころまでさかのぼることが可能であり旧石器時代にあたります。

「文字による記録」が残され始めるのは紀元前3000年ごろです。

なおメソポタミアは最も古くワインを作ったとされる地域の候補であり、7000年ほど前のワインの痕跡が考古学的な調査で見つかっています。

ワインの最古の痕跡は中国で見つかった9000年前のものですが、どちらがより古くからワインの製造を意図的に行っていたのかは分かりません。

最初のワイン製造はブドウではなく野生種のベリーを使っていたとも考えられています。

メソポタミア文明の発達:灌漑農業

メソポタミアという地域にどうして文明が発達していったのかは、その地形が関わっています。

この地域は乾燥地帯であり雨が降ることもあまりなく、砂漠や荒野が広がっている土地だったのです。

メソポタミア文明が発展するよりも古代においては、遊牧民族たちが旅をしながら暮らすか、細々と農地を耕すような地域でしかありませんでした。

しかし、メソポタミア文明は乾いた土地に川から水を引いて農地を耕す「灌漑(かんがい)」という方法を思いつきます。

こうしてチグリス川とユーフラテス川という莫大な水源を利用した農業がおこなわれるようになり、メソポタミア地域は発達して文明を作るようになっていくのです。

メソポタミア文明の発達:都市国家

灌漑農業により豊かな農地を手に入れたメソポタミア地方でしたが、メソポタミア地方の人々の全てが農業従事者であったわけではありません。

メソポタミアには遠くから旅をしてくる遊牧系の民族も多く、多様な民族が暮らしている土地だったのです。

チグリス川とユーフラテス川を移動手段にして、材木や石材の建築資材の乏しいこの土地に多くの商品を持ち込む民族もいれば、漁業を行う民族もいます。

多くの民族が行き交っていた古代のメソポタミアでは、自分たち以外は敵であることもあったのです。

また多民族国家であり多神教の土地でもあったため、それぞれの民族や宗教をグループ分けの根拠にして、小規模の都市国家の群れが誕生していくことになります。

不毛の乾燥地帯であることで交易を盛んに行う必要が生まれ、大きな川が近くにあったことがインフラとして大きな役目を果たしつつ、物資と民族の交流、そして多神教の形成を促していったのです。

長らくメソポタミア地方の主要語の一つとなるシュメール語を作ったシュメール人の文明や、古代史における有力な都市国家ウルやウルクなども、比較的に小規模に分かれた国家になります。

多民族性と人の行き来が多すぎるゆえに、他者との交流を過度に推奨することはなく、不可能なことでもあったのです。

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メソポタミア文明に王朝が出来る

シュメール人はメソポタミア地方の「南部人」であり、多くの都市国家を作っていた集団ですが、シュメール人との交流をしていたアッカド人というグループがいます。

アッカドについては旧約聖書にも登場する町の名前ですが、その場所は未だに不明です。

紀元前24世紀~23世紀ころにアッカドの王であるサルゴンが現れ、メソポタミアを含む広大な地域を支配します。

アッカド帝国は人類初の帝国とも呼ばれる国家であり、シュメール人が発展させていった文化の継承者でもあるのです。

またシュメールを征服したアッカド人は古代ユダヤ語を話していたともされますが、シュメール語は「聖なる言語」として使われ続けることになります。

アッカド語は最初のセム語ともされ、セム語とはユダヤ人系の言語を指し、わかりやすく言えば「アフリカ系アジア人の言葉」です。

北アフリカからアラビア半島および中東あたりのアジアの人々の言葉であり、このあたりに住んでいたのがユダヤ人やアラブ人やエジプト人になり、歴史的な交流があるため似たような言語を話し、それがセム語と呼ばれるものになります。

アッカド人はユダヤ人ですが、アッカド語は様々な言葉のハイブリッドであると考えられているのです。

アッカド帝国はダムなどを建設して灌漑農業を完成させていきます。

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ウルの第三王朝

ウルのジッグラト(出典:wikipedia)

都市国家ウルがアッカド帝国から覇権を奪い取り、メソポタミアを征服します。

ウルはアッカド以前にも有力な都市国家であり、かつて支配力が高かった時代のことを第一王朝と呼んでいるのです。

第二王朝はどうしたかというと、どうやら「存在しなかった」とされています。

第三王朝時代はユダヤ人のアッカド語が有力な話し言葉として用いられる一方で、シュメール語は神殿や公文書で用いられつづけているのです。

第三王朝の時代に、後のハンムラビ法典に類似する最初期の法典「ウルナンム法典」が作られています。

これはハンムラビ法典の3世紀前の法典です。

シュメール系の文化としてもメソポタミア地方の隆盛としてもこの第三王朝がピークであり、シュメール直系のメソポタミア支配は第三王朝と共に滅びますが、シュメール人が作った文化や宗教、法律などはその後にメソポタミアの支配者となる民族も継承していきます。

アッシリアとバビロニアの時代

ウルが滅ぼされたのちにアッシリアがメソポタミア南部で台頭します。

アッシリアはどういった起源を持つ集団なのかは謎に包まれていますが、古代の王たちはテントに住んでいたということから、遊牧民であり襲撃者であったのだろうと考えられています。

またウルを滅ぼした民族のなかから一部が独立して、バビロニアという小国がメソポタミアに生まれましたが、古くからの有力都市に比べると脆弱な国でした。

しかしハンムラビ王が生まれると一代のうちにメソポタミアを支配する大国にバビロニアを成長させます。

ところが、ハンムラビ王の死後にバビロニアは大きく衰退するのです。

アッシリアとバビロニアは覇権を巡り、それに現代のトルコ=アナトリアのヒッタイトが覇権争いに参加し、それぞれの国家や民族が入り乱れての戦いになります。

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アケメネス朝ペルシアとメソポタミア文化の終焉

ライバル国家同士であるアッシリアとバビロニアは共に覇権を取り合いながらも存続し、最終的にはどちらもアケメネス朝ペルシャの支配下におかれます。

アケメネス朝ペルシャはやがてギリシャの覇者であるアレサンダー大王の攻撃を受け、メソポタミアの地域はギリシャ勢力に支配されることになるのです。

騎馬民族国家であるパルティアが台頭してくると、パルティアの影響下におかれつつも日常的な内戦状態にメソポタミアは陥ります。

やがてメソポタミア地方はローマ帝国に支配されるようになり、西部はローマ・キリスト教文化の影響下に入りますが、7世紀にはイスラム教徒がメソポタミアを含む地域を制圧することで、イスラム文化圏の一部となったのです。

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メソポタミアの歴史の傾向

多民族の入り乱れる地域であったため、古代の都市国家時代から現代にいたるまで安定した統治が行いにくい地域になります。

メソポタミアはペルシャやエジプトやギリシャ、ローマの影響を外部から受け続けながらも、メソポタミア地域内部でもバビロニアやアッシリアなどが覇権を巡って対立したわけです。

様々な国家や民族、文化や宗教が混在していった地域であり、文明と経済の中心地であり高度な発展を遂げる一方で、世界帝国のような国家までは作れませんでした。

メソポタミアの文化的な特徴

メソポタミアの灌漑農法

メソポタミア地域を大きく発展させたのが灌漑農法でしたが、これには大きな弊害が生まれます。

灌漑農法は乾燥した砂漠のような地域で行うと塩害を生むからです。

塩害とは肥料や使用した水に含まれている塩分により、農作地で徐々に塩分が蓄積していくトラブルになります(塩分が農地にたまると農作物が育たない)。

雨が降らない地域では農業により地表にたまった塩分が雨で流されてクリアな状況には戻らないのです。

数千年単位で行われてきた灌漑農業の結果、メソポタミア地域は大きな塩害に見舞われるようになり農作物の収穫が難しくなって、それが没落した原因の一つとなっています。

灌漑に頼るメソポタミアの発展は、人口の増加と時間の経過にはそもそも耐えられない仕様であったのです。

またチグリス川とユーフラテス川という大河に近しいため、これらが氾濫したときには破滅的な被害を受けます。

それらの洪水の伝承が、聖書の「ノアの大洪水」などのもとになったと考えられているのです。

大河の氾濫に呑み込まれれば、都市国家ごと消滅することもあり得ます。

また農業的な限界や災害に弱い作りであるため、飢饉などのトラブルのさいには中央の王さまから権威が削がれてしまうのです。

トラブルに対応できない中央政府=王朝を見限り、自分たちでトラブル解決に乗り出す意志を各都市が持っていたため、中央政府=王朝が長続きしない理由もあります。

メソポタミアの発明品

メソポタミアでは車輪が用いられる、最古の文字として知られる楔形文字(くさびがたもじ)が作られる、銀行やローンが作られる、法律が作られる、最古の計画的な酒造が行われるなどの画期的な発明が数多く生まれています。

メソポタミアで使用された60進法は現在でも世界中の全ての人々が使用している発明です。

一時間が60分という定義なのも、メソポタミアで使われた60進法の名残になります。

メソポタミアの哲学と宗教への影響

メソポタミアは古代ユダヤ人が住んでいた地域であり、旧約聖書にはメソポタミア地方の主要な都市国家が登場しています。

「バビロンの捕囚」などもユダヤ人の有名な歴史的イベントの一つです。

またメソポタミア地方で生まれたアラム語はユダヤ人の言葉として聖書の記述にも使われています。

「洪水の伝承」は「ノアの大洪水」となり、メソポタミアで使用されていた言葉は聖書を書くための言葉や言語にもなっているのです。

古代のメソポタミアでは高い聖塔ジッグラトを作り、その頂上部に神への神殿を作っていましたが、このジッグラトは「バベルの塔」の原形となったとも考えられています。

またメソポタミアの哲学は「一対一の対話形式」で叙述されたものがあり、現実に起きる悲劇的な出来事の原因を「人間では考えの及ばない超越的な神の意志」であると考えました。

旧約聖書の書き方とメソポタミアの哲学や、いわゆることわざなどには多くの類似点があります。

旧約聖書の神は残酷な側面を持つ神でもあり、それはメソポタミア哲学の神々に対する悲観的な考えと似たところが多いものなのです。

メソポタミアの歴史と文化の一部は、そこに住んでいたユダヤ人たちの手により「旧約聖書」やユダヤ教へとまとめ上げられていきます。

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まとめ

  • メソポタミアは川と川のあいだの土地という古いギリシャ語
  • メソポタミア地域はチグリス川とユーフラテス川のあいだ
  • メソポタミアは灌漑農業を使うことで発展した
  • メソポタミアは多くの民族と多神教がある都市国家地域
  • メソポタミアの都市国家は灌漑農業に頼るせいで発展に限界があった
  • メソポタミアでは多くの都市国家が覇権を巡って争った
  • メソポタミアには旧約聖書にまつわる地名が多くある
  • メソポタミアでは60進法、車輪の発明、文字の発明、法律の発明、酒造の発明などが起きた
  • メソポタミアはペルシャ、ギリシャ、ローマ、イスラム勢力に制圧されていった
  • メソポタミアは衰退したが文明の作り出した発明は世界中で使われ続けている

ドイツで見つかった8000年前の人骨からは、メソポタミア地方の人々に共通してみられる遺伝子が発見されたこともあります。

メソポタミアの地域から生まれた多くの技術の恩恵は、多くの国や民族に伝わっていたのです。

歴史の記述が始まる前の時代であっても、人間は交流と技術の開発を続けています。

メソポタミアの一民族であるユダヤ人が作ったユダヤ教は、やがてキリスト教もイスラム教も生み出すことになるのです。

メソポタミア文明の影響は、目に見える形でも、おそらく目に見えない形でも人類に多大な影響を与えています。

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