蘇我馬子とは?聖徳太子から推古天皇との関係、子孫まで解説

飛鳥時代の貴族の中で最も力を持ったのが、蘇我氏です。
その蘇我氏の全盛期を築いたのが蘇我馬子(そがのうまこ)です。

敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、そして推古天皇の4人の天皇に支え何と54年もの間権勢を奮ったのです。

ここではその蘇我馬子の生涯を通して、推古天皇や聖徳太子との関係、子孫のことなどを解説します。

生まれと幼少期の情勢

蘇我馬子の生誕は551年ごろだと言われています。

父親は蘇我稲目(そがのいなめ)でした。
父・稲目が大臣の頃百済の王から当時の欽明天皇に仏像が贈られました。

これに稲目はぜひ祀るべきだと考えましたが、外国の神を祀るなどもってのほかと異議を唱えるものがいました。それは日本の神を祀る職にある物部尾輿(もののべのおこし)でした。

天皇は仕方なく仏像を稲目に預けました。
稲目は自宅を寺に作り変えて仏像を祀りました。

しかし、しばらくすると疫病が流行り多くの人が亡くなったので、物部尾輿ら排仏派は仏像のせいだといいました。

これには天皇も仕方なく物部らの意見を聞くほかなく、稲目の寺を焼き払い仏像を捨てさせました。

この件が元で蘇我氏と物部氏は対立するようになったのです。

一方、馬子は幼少期から学問や武術に優れておりすくすくと成長しました。

大臣(おおきみ)へ

馬子は敏達(びだつ)天皇が即位した572年に大臣(おおきみ)となりました。
大臣とは天皇を補佐する重要な役目であり、天皇に次ぐ権力を持っていました。

仏教をめぐるいさかい

584年百済から石像と仏像が入ってきました。馬子はこれをもらい受け、司馬達等(しばだっと)らに修行者を探させました。そして播磨国で高句麗人の恵便(えべん)という還俗者を見つけました。

馬子はこの恵便を師とし、司馬達等の娘を尼とし善信尼となし、さらにその弟子として禅蔵尼、恵善尼を得度させました。

馬子も仏法に帰依し、3人の尼を敬いました。

しかし翌年馬子は病気になりました。この頃疫病が流行っていたのです。
物部尾輿の息子、物部守屋(もののべのもりや)は排仏派だったので全てを仏教のせいにし、3人の尼を責め立て、仏像を海に投げ捨てるなどしました。

この後守屋も病気になったので、仏像を捨てた祟りだと言われました。
それでも馬子の病気はなかなか治らなかったので、敏達天皇に仏法を祀る許可をもらいました。

物部守屋との戦い

物部守屋(出典:ja.wikipedia.org)

その2ヶ月後敏達天皇は崩御するのでした。
敏達天皇の後は馬子の姉の堅塩媛(きたしひめ)の子である用明(ようめい)天皇が即位しました。

587年用明天皇は病になりやがて亡くなります。
物部守屋は用明天皇の異母弟の穴穂部皇子(あなほべのみこ)を皇位につけようとしました。しかし馬子が敏達天皇の后を奉じて穴穂部皇子を殺害しました。

馬子はこれまで何かと目障りだった守屋を滅ぼすことを決め挙兵しました。
物部氏は軍事に長けていたのでなかなか守屋を討つことができません。

そこでこの戦いで馬子側についていた14歳の聖徳太子が四天王の仏像を彫り戦勝祈願をしました。すると蘇我軍の放った矢が守屋を射抜きました。

馬子は勝利したのです。
聖徳太子はこの後四天王を祀る寺社を建てました。

崇峻天皇暗殺

587年馬子は崇峻天皇を即位させます。
しかし、政治の実権は馬子が握っていたため面白くなかった崇峻天皇は、馬子の命を狙います。それを知り馬子は逆に崇峻天皇暗殺を実行するのでした。

推古天皇と聖徳太子

推古天皇(出典:ja.wikipedia.org)

蘇我馬子は次に皇太后だった推古天皇を即位させました。
この時推古天皇は即位する代わりに聖徳太子を補佐役として皇太子とすることを条件としました。

推古天皇は馬子が力を持ちすぎていることに脅威を感じていたのです。
内心自分中心の政治がやりにくくなると考えた馬子でしたが、推古天皇に従うことにしました。

こうして592年推古天皇は女性として初めて天皇となったのです。
推古天皇は甥の聖徳太子を摂政として深く信頼を置いていました。

聖徳太子は603年「冠位十二階」を制定し翌年には「十七条憲法」を定めました。そして仏教を深く学び法隆寺や中宮寺を建てました。

そして外国にも目を向けており「遣隋使」を送り、隋から進んだ文化を取り入れました。

もちろん蘇我馬子も大臣ですから、聖徳太子に協力してこれらの偉業を実現させたのです。

620年には聖徳太子と共に「天皇記」や「国記」などを記しています。
二人は「二頭政治」を行ったことで有名です。

そんななか、622年聖徳太子は斑鳩宮で倒れこの世を去るのでした。享年49歳でした。

蘇我馬子の死

622年天皇中心の政治をしていた聖徳太子が亡くなると、その4年後蘇我馬子も亡くなりました。

死因ははっきりしていませんが、殺されたとかいう物騒なものではなく穏やかに亡くなったのではないかと思われています。

蘇我馬子の子孫

聖徳太子が亡くなると、実権を握ったのは馬子ではありませんでした。
前述の通り、太子の死後馬子も亡くなっています。

では誰が政治の実権を手に入れたのでしょう。

それは、馬子の子蘇我蝦夷(そがの えみし)でした。さらに蝦夷の子である蘇我入鹿は、太子一族を滅ぼし、自分が天皇であるかのような振る舞いをするようになったのです。

蘇我氏の最期

馬子の墓とされる石舞台(いしぶたい)古墳(出典:ja.wikipedia.org)

蘇我蝦夷親子の横暴が目に余った役人の中臣鎌足中大兄皇子(後の天智天皇)と協力して蘇我氏を滅ぼすことを決めます。

【関連記事】中大兄皇子(天智天皇)について:中臣鎌足との関係やどんな時代だったか解説

645年計画を練った二人は皇居で蘇我入鹿を殺害します。それを聞いた蘇我蝦夷はこれまでと屋敷に火をかけて自害しました。

長年天皇のそばで力を尽くしてきた蘇我氏も、その横暴さゆえに非業の最期を遂げることになったのでした。

その後中臣鎌足は中大兄皇子を助け政治を刷新しました。これを「大化の改新」と言います。これにより蘇我氏のような豪族の力は弱まり天皇中心の政治が行われるようになったのです。

まとめ

  • 蘇我稲目の息子として生まれる
  • 大臣になり権力を得る
  • 仏教を取り入れる
  • 物部守屋と争う
  • 崇峻天皇暗殺する
  • 推古天皇と聖徳太子と共に政治を行う
  • 馬子の亡き後の蘇我氏の滅亡

以上のように蘇我馬子について解説してきました。

蘇我馬子は仏教を日本に広めるきっかけとなった重要な人物です。

その馬子の墓が長年見つけられなかったのですが、奈良県明日香村にある石舞台古墳ではないかといわれています。

作られた時期が、6世紀から7世紀ごろで、馬子の庭園だったと言われるところから近いことから、ほぼ馬子の墓ではないかと思われています。

聖徳太子と共に日本の政治を行った蘇我馬子の生涯はさぞ権力に満ちていたものだったことでしょう。

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