中世の東アジアにおいては「倭寇(わこう)」と呼ばれる海賊が存在しています。
朝鮮半島や中国の沿岸部を略奪した残虐な海賊として有名です。
今回は海賊集団「倭寇」についてご紹介していきます。
彼らは何を目的として活動した集団であったのか、そのメンバー構成なども解説していきます。
目次
倭寇と呼ばれた海賊たち
倭寇という名前の意味
東アジアの海を暴れまわるその残虐な海賊たちは「倭寇(わこう)」と名付けられていましたが、そもそも「倭(わ)」とは「短躯な者」や「矮小」を示す言葉にあたり「日本人の蔑称」になります。
「寇(こう)」は「侵略」や「侵攻される」といった意味の言葉であり、日本国内で有名な使い方は「元寇」になります。
つまり倭寇とは「日本人による侵略」を示す意味になり、その構成要員や拠点に日本人や日本の土地を持つ海賊集団に対して使われたのです。
ひらたく言ってしまえば倭寇とは「日本人の海賊」になります。
倭寇はいつ活動していたのか?
倭寇の活動時期は前期と後期に分かれています。
- 前期倭寇:活動期間14世紀前半~15世紀、日本人が中心、朝鮮半島・中国沿岸部を中心に略奪。
- 後期倭寇:16世紀、浙江省・福建省地域の中国人などが中心でポルトガル人も混じる。日本人は10~20%ほど。中国大陸南岸・南洋方面を中心に略奪する。
前期倭寇は日本史でいえば鎌倉から室町幕府のあった時代の海賊になります。
後期倭寇は戦国時代になります。
前期倭寇(14世紀前半~15世紀)の活動
前期倭寇の理由には元寇の報復説がある?!
元寇(1274年と1281年)に対しての報復が倭寇のモチベーションの一つとなったという説があります。
実際には元寇以前にも(文章が残っているのは1223年の5月から)倭寇による海賊被害は発生していたため、仮に元寇への報復が動機の一つとなっていたとしても、それこそが根源的な理由とは言いにくいものになります。
利益や食料を求めての海賊行為が初期倭寇の主たる動機なのです。
前期倭寇は残虐な海賊としての様相が強い集団になります。
前期倭寇の本拠地の一つであった対馬などでは農作物の供給などが貧弱であったことから、中国や朝鮮半島の農村から食料を略奪した方が、自力で農業をするより効率的でもあったのです。
職業的な海賊集団であり、国際的な犯罪組織としての海賊そのものが前期倭寇になります。
前期倭寇の原因
日本は当時南北朝時代にあり国内内戦で疲弊した状況にあったため、九州や瀬戸内海の水軍などが海賊化しやすいという時代背景もあります。
九州北部にいた「菊池氏」や「松浦党」といった南朝側の勢力は、地理的に近かった朝鮮半島の高麗に向かい、そこで物資や食料を調達していたのです。
その結果、高麗の水路や地理に日本側の兵士たちが詳しくなっていくことになります。
やがては購入することよりも略奪することで入手しようとした集団が組織されることになるのです。
倭寇は食料や金品、ときには兵士を捕虜にとって人質にして金銭や物品を要求することもあれば、強奪対象が一般人であった場合も多々あります。
男女問わず人間をさらって来ては日本や琉球などで奴隷として売り買いすることでも倭寇は利益を得ていたのです。
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前期倭寇のメンバー
前期倭寇は海賊であり、基本的には正規の軍隊ではない犯罪組織であるため、公的な情報が多く残されている存在ではないのです。
前期倭寇を構成していたメンバーと推測される集団は以下の通りになります。
- 南朝側の正規軍:倭寇は規律があり船団の規模も数十から数百だったこと、重装備の武士が含まれていたことから、物資獲得のための日本国内の正規軍が参加していた可能性も考えられます。
この説を補強する証拠として北朝側の勢力が「倭寇と南朝勢力を同一視していた」こと、明からの倭寇鎮圧の要請を「南朝側が断った」ことなどが挙げられます。 - 生粋の海賊:日本国内、朝鮮半島、中国は国家や王朝が移り変わる動乱期であり、国防力や社会秩序が弱ってもいた時期になります。
どの国も防備が手薄であったため海賊行為がしやすく、その結果として海賊集団の発生を許してしまう時代背景もあったのです。 - 日本人以外の前期倭寇:捕虜となった者が倭寇に参加することもあったようです。
基本的には海賊=犯罪集団であったため利益のために参加する人種は問わなかったとも考えられています。 - モンゴル系も参加:モンゴル系の人物たちが参加していた可能性も指摘されています。
阿只抜都などが千を超える馬を有していたため、九州の軍でもそれを用意することは困難になります。
当時の朝鮮半島は、元の馬の「産馬国」でもあり、モンゴル系の住民も多く住んでいる土地でもあります。
前期倭寇と李成桂
高麗の軍人であり後の李氏朝鮮の初代国王に李成桂(りせいけい/イソンゲ)は、1380年に「阿只抜都(あきばつ)」と呼ばれる倭寇のリーダーと戦うことになります。
500隻からなる船団で朝鮮半島に乗り込んだ倭寇でしたが、高麗水軍の火砲で船を失ってしまうのです。
退路を失った倭国の軍勢は「千数百頭の馬」を使い、朝鮮半島各地を暴れ回るようになります。
どう猛な首領として知られていた阿只抜都は当時15~16才の美少年であり、彼に率いられた倭寇は高麗の軍隊と各地に大きな損害を与えるのです。
李成桂はこの倭寇軍との戦いに趣き、自らも重傷を負いながらも阿只抜都を倒して倭寇軍に勝利します。
元々、武勲の多かった李成桂ですが、このときの戦いでさらに名を挙げていき、やがてはクーデターにより自分の国家(李氏朝鮮)を打ち立てることになるのです。
前期倭寇の首領のひとり「阿只抜都(あきばつ)」
500隻の船に千数百頭の馬と軍勢を16才の美少年が率いていたことは驚くべき事実になります。
阿只抜都(あきばつ)は高麗軍側からの呼び名であり、自称した名前ではなく韓国語の「子供/アギ」とモンゴル語の「勇者/バートル」からの造語ではないかという説もあるのです。
千数百頭の馬(戦国時代の武田信玄の騎馬隊の数にも相当する数)の出所は、元の産馬地であった済州島のモンゴル系住民による協力なのではないかという説もあります。
モンゴル人王朝である元が滅びたことにより、モンゴル系住民の立場は高麗内では良いものではなかったため反乱して倭寇と協力したのではないかという説です。
年若い長は末弟を兄たちが支えて長に推すというモンゴル系や東アジア北部の民族の伝統でもあるため、若い阿只抜都はモンゴル系であった可能性も否定は出来ないものになります。
モンゴル系済州島人、九州の武士、高麗人、琉球人など、阿只抜都の出自には様々な説があり特定することはできていないままなのです。
前期倭寇への対策
- 明からの倭寇鎮圧要請:日本の朝廷や室町幕府に海賊である倭寇の鎮圧を要請しています。明との貿易を望む足利義満により倭寇鎮圧が行われ、「勘合貿易」が始まります。
- 李氏朝鮮による対馬侵攻:倭寇による襲撃の損害への報復として、対馬の倭寇制圧に李氏朝鮮は軍隊を派遣し倭寇を攻撃、捕虜を解放します。
しかし日本側からの援軍の到着などもあり李氏朝鮮側は撤退することになります。とはいえ倭寇側のダメージも大きく、この前後の海賊対策の結果もあり倭寇は勢力を弱めていきます。 - 懐柔策:倭寇のメンバーに対して役職を与えることで勢力を管理しようともしています、いわゆる引き抜き工作などを行っていたのです。
- 公式貿易の徹底:室町幕府による鎮圧、勘合貿易や、李氏朝鮮における貿易の管理が厳格化されていきます。
最終的には日本、中国、朝鮮により倭寇対策は実行されるようになり、前期倭寇は衰退して消滅することになるのです。
後期倭寇(16世紀の海賊)
後期倭寇が現れる
16世紀になると後期倭寇と呼ばれる海賊集団が東シナ海を荒らし回るようになります。
彼らは前期倭寇と比べて幾つかの特徴を持っており、後期倭寇は日本人中心ではなく、主に中国人から構成された集団になるのです。
後期倭寇の出現には明が行っていた私貿易の禁止令である「解禁政策」に反対する中国人商人や、対馬を介しての李氏朝鮮との公的な貿易から占め出されてしまった日本人商人たちが関わります(対馬が貿易ルートを占有したため、対馬勢力以外は貿易が出来なかった)。
略奪だけではなく国際ルール外の「違法な貿易」を目的として結成されたのが、後期倭寇の特徴の一つとなるのです。
後期倭寇の著名なメンバー:王直
塩商人として失敗した中国人(現在の安徽省黄山市出身)の王直は、やがて後期倭寇の一員となり海賊活動を開始します。
倭寇として名をあげた王直は五島列島(長崎県)を拠点として勢力を拡大し、彼の船が乗せていたポルトガル人によって日本に「銃」が伝えられたとも言われています。
また王直の船がイエズス会のフランシスコ・ザビエルを運んだのではないか、という説も存在するのです。
フランシスコ・ザビエルを日本に運んだ倭寇の船は「阿王号」とされていて、「王」は王直の名字でもあるからです。
実際に王直の関わる船であったのかについては不明な点もありますが、ザビエルを運んだのは「倭寇船」であったことは事実になります。
後期倭寇は「商人」としての側面もある
後期倭寇は残虐な略奪者であると共に、非公式の商人や人材物資両面においての運び屋であったのです。
日本国内の諸大名は密貿易のルートとして倭寇を使い、その結果として日本国内にさまざまな渡来の品が伝わってくるようになります。
鉄砲、キリスト教、そして大航海時代に入り世界中に広まっていた西欧諸国の道具や学問、美術品などが伝わることになるのです。
倭寇による国際的な密貿易ルートから得られたものは、日本の文明の水準を大きく向上させることにつながります。
後期倭寇への対策:北虜南倭(ほくりょなんわ)
日本の大名や豪商などと手を組み密貿易で大きな利益を提供していた後期倭寇たちですが、もちろん国際法の上では犯罪者集団です。
残虐な強盗殺人集団である海賊という本質も有しているため、多くの死傷者を出し中国や朝鮮半島への襲撃を行っていきます。
この時期、中国の明朝は「北虜南倭(ほくりょなんわ)」という辺境の危機問題に晒されていたのです。
「北虜」とはモンゴル人勢力による北部への攻撃であり、「南倭」とは南の沿岸部を襲撃していた後期倭寇による被害になります。
明は「胡宗憲(こそうけん)」「戚継光(せきけいこう)」「朱紈(しゅがん)」「兪大猷(ゆたいゆう)」などの軍人たちの活躍により、北虜南倭の危機を沈静化していきます。
また王直などの倭寇の首領たちが逮捕・処刑されていくのと並行して海禁政策は緩和されていき、明では貿易が開かれるようになるのです。
つまりは密貿易のメリットが減っていく状況となり、倭寇は減少していきます。
後期倭寇への対策:倭寇取締令
日本でも戦国時代の争乱が収まり治安が回復するにつれて倭寇の取り締まりも強化されていきます。
密貿易を禁じて公の貿易が独占することで多大な利益を得られることになるからです。
「朱印船貿易」を計画した豊臣秀吉は1588年に倭寇を取り締まるための「海賊取締令/海賊停止令」を刀狩令と同時に行います。
朱印船による明との貿易は徳川幕府も継承することになるため倭寇への取り締まりは強化された状態が保たれます。
なお豊臣秀吉の朝鮮出兵は朝鮮側からすれば「倭寇=日本人による侵略」という文字通りの侵略行為であったことから、これもまた倭寇と呼ばれているのです。
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まとめ
- 倭寇は日本人の海賊
- 前期倭寇は日本人中心で略奪がメイン
- 後期倭寇は中国人中心で略奪以外にも密貿易で稼ぐ
- 前期倭寇は国際的な対策が奏功して消滅
- 後期倭寇は密貿易のメリットが消えて消滅
- 倭寇は日本、中国、朝鮮半島の情勢不安につけ込む形で成長
- 後期倭寇は日本に大きな影響を与える
謎の多い海賊集団倭寇は、東アジアの国際的な情勢から発生した集団でもあります。
倭寇を知ることで東アジアそれぞれの歴史をリンクして楽しめるようにもなっていきます。
日本史において国際的な歴史観という視点を得られる、貴重な存在でもあるのです。
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