宗教との出会いは、人の生き方を変えてくれることもあるものです。
とくに悩みや苦しみ、荒んだ生活を送っている人には、それが大きな転機となることもあります。
今回はアショーカ王という人物について、ご紹介していきます。
古代インドの王ですが、仏教との出会いが大きく人生を変えたとされている人物です。
そして、彼自身の人生が変わっただけでなく、アショーカ王は、古代の仏教における最大の庇護者にもなります。
では、そんなアショーカ王の物語を、ご紹介していきます。
アショーカ王の生い立ち
アショーカ王の祖父も有名
アショーカ王(紀元前304年~紀元前232年)は、多くの伝説を持つ人物です。
アショーカ王の祖父はマガタ国マウリヤ王朝の建国者である、チャンドラグプタになります。
チャンドラグプタの出自は明らかではありませんが、カースト制度最下層であるシュードラの出身とも、最上位バラモンに次ぐ二番目に良い階級であるクシャトリヤ出身ともされているのです。
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古代ギリシャのプルタルコスによれば、チャンドラグプタは挙兵して王国を築くよりも若い頃に、アレクサンドロス大王と出会い、マケドニア軍のインド横断をサポートしたともされています。
しかし、それが真実か伝説なのかは分かっていないのです。
どうあれチャンドラグプタは、古代インドに巨大帝国マウリヤ朝を築き上げた英雄的な王になります。
アショーカ王の父ビンドゥサーラ
チャンドラグプタの後を継いだのが、息子のビンドゥサーラです。
父親の重臣をそのまま継続して使い、父親の政策を基本的にはそのまま使っていたのではないのかと考えられています。
このビンドゥサーラの息子こそが、マウリヤ朝の三代目の王である、アショーカ王になるのです。
ビンドゥサーラには多くの子供たちがいたとされますが、仏教の伝説においては、ビンドゥサーラは息子であるアショーカ王のことを好んではいなかったとされています。
アショーカ王は父王に嫌われていた
ビンドゥサーラの治世の時代に、タクシラという町で反乱が発生します。
ビンドゥサーラは息子であるアショーカ王子に、軍隊も武器も与えぬまま、反乱を鎮圧してこいという命令を出したのです。
アショーカ王子の部下は狼狽しましたが、アショーカ王は
「もし私が王に相応しいほどの善根を持つのなら、軍と武器が現れる」
と部下に語ります。
すると、神々は大地を割り、その裂け目から軍と武器を出現させて、アショーカ王子に与えたのです。
これを聞いたタクシラの住民たちは、道を清めてアショーカ王子を大歓迎します。
「我々は、ビンドゥサーラ陛下にもアショーカ王子にも叛(そむ)いているのではありません。ただ悪しき大臣が我々に害を与えたために、これを討ったのみです」
こうしてアショーカ王子は同地の人々の尊敬を得て、タクシラの反乱を鎮圧したのです。
アショーカ王の戴冠
ビンドゥサーラ王が病に倒れたとき、アショーカ王子は王位継承を望みますが、ビンドゥサーラ王が後継者に指名したのはアショーカ王子ではなく長男のスシーマです。
アショーカは軍事行動を伴い、父の遺言による決定を覆すことにします。
兄スシーマを殺害し、また王位継承のライバルでもある他の異母兄弟たちを抹殺したとされているのです。
仏教の伝説においては、アショーカ王子は、スシーマを皮切りに、なんと99人もの兄弟たちを抹殺したされています。
ライバルを全員亡き者にすることで、アショーカ王子は王位を継承することになったのです。
アショーカ王の治世の始まりとカリンガ戦争
アショーカ王は500人の大臣を虐殺
兄弟殺しを敢行して、マウリヤ朝の三代目の王となったアショーカ王でしたが、この王位継承には問題が伴っていたのです。
元々、王位継承権の順位が低かったアショーカ王は、政治的な基盤が弱かったことになります。
今では自分の部下となった大臣たち、マウリヤ朝の政治的な有力者たちは、アショーカ王のことを軽んじるようになったのです。
「自分たちのおかげで、アショーカ王子は王になれたのだ」
という考え方をしています。
しかし、アショーカ王は軍事的な天才であり、戦いには非凡な才能を持つ覇王です。
アショーカ王は自分を軽んじるようになった大臣たち500人を殺害したと伝えられています。
アショーカ王とカリンガ戦争
政敵を謀殺し尽くし、アショーカ王の治世が始まります。
アショーカ王が狙ったのはライバルである大国カリンガとの決着です。
大国であるカリンガは、祖父チャンドラグプタも父親ビンドゥサーラも征服することができなかったまま、マウリヤ朝に抵抗をつづけています。
アショーカ王は、このカリンガの攻略に乗り出し、時にマウリヤ朝の軍も敗走するような激戦を繰り広げたのです。
カリンガ戦争の結末
カリンガ戦争の結果は、アショーカ王率いるマガタ国マウリヤ朝の勝利になります。
15万人の捕虜をアショーカ王は得て、そのうちの10万人を殺したのです。
戦争の最中では、その数倍の数の人や動物たちの命が失われていたとも伝わり、このとき犠牲になった人々のなかには司祭階級であったバラモン、そして仏教やジャイナ教の僧侶たちも多く含まれていたのです。
宗教的な指導者たちを失い、膨大な数の難民が発生して混乱する世の中を目の当たりにして、アショーカ王は大きな衝撃を受け、自身の行いを悔いるようになります。
アショーカ王はカリンガ戦争以後は慈悲深くなる
カリンガ戦争以後、アショーカ王の政治は、大きく変わったとされています。
軍事的な遠征に対して消極的になり、支配したカリンガの土地には温情をもって政を行うようになったのです。
カリンガ戦争を後悔したアショーカ王は、より仏教に敬虔な人物となり、釈迦の生誕地などの仏教の聖地を巡るようになり、「法(ダルマ)による統治」を目指すようになります。
慈悲深くなったアショーカ王の治世
アショーカ王は「仏教的な価値観/ダルマ」にもとづく治世を行う
聖地を巡るようになり仏教に帰依して慈悲深さを得たアショーカ王は、釈迦の骨である仏舎利を祀る8万4000本の塔を建てたともいわれます。
もちろん、実際にそれだけの数を建ててはおらず、多くの塔を建てたという意味です。
インドの仏塔の多くには、アショーカ王が建てさせた塔が多く残っています。
アショーカ王碑文を領土のあちこちに設置
アショーカ王は仏教の法(ダルマ)による理想の治世の在り方を記した碑文、アショーカ王碑文を広大な領土の各地に設置していきます。
このアショーカ王碑文の内容には、自分の子孫が再び大きな過ちを繰り返さないようにと、岩や石柱にアショーカ王の価値観や命令などを刻んだものです。
内容としては多岐に及びます。
アショーカ王碑文の内容
- アショーカ王が仏教に帰依していることの信仰告白
- カリンガ戦争での膨大な死者を出してしまったことの悔恨
- 殺生をしないという誓い
- 肉食の段階的な禁止
- 王宮内の厨房で調理される動物の量を制限する
- 動物を殺さないようにする
- 薬草を備蓄することの推奨
- 植樹の推奨
- 父親や母親を敬う
- 年長者を敬う
- 教師や僧侶などを敬う
- 真実を語り、嘘偽りを語るべからず
- 仏教以外の宗教も非難してはならない
- 仏教だけでなく他教も含めて、僧や寺などに物品を寄進したことの記述
- 聖地巡礼したことを記す
- 仏教集団の分裂を禁じる
仏教の倫理感であるダルマ(法)を描きつつ、自分の治世の方向性や宗教への献身などを記しているのがアショーカ王碑文になります。
アショーカ王は暴君として過ごした半生から、カリンガ戦争での後悔と、仏教への帰依によって変わり、慈悲深い仏教の守護者となったわけです。
なおアショーカ王碑文は現存するインドの考古学資料として、古く滅びた文字の解読にも使われたり、当時の仏教などの特色を見つけられる、宗教研究の材料としても重要視されています。
アショーカ王の他の仕事
仏教をヘレニズム文化圏やスリランカまで伝えようともします。
中央アジアへの仏教伝来、そしてインド内での仏教勢力の急速な成長は、アショーカ王の庇護が大きいと考えられているのです。
また、釈迦誕生から百年以上の時間が経過していたため、各宗派での考え方の違いや、参考にする聖典などに違いが出始めていたのです。
そのため、アショーカ王は「第三回仏典結集」を主催し、仏教の聖典や信仰体系の整備がなされていきます。
しかし、仏典結集という会議において、仏教徒内での信仰に対するスタンスの違いも浮き彫りになっていくのです。
釈迦のオリジナルの仏教を守ろうとする長老派は上座部仏教となり、より民衆受けの良い世俗的な救済を掲げた集団は、大乗仏教へと分裂していくことになります。
アショーカ王は仏教集団の分裂の阻止を望みましたが、皮肉なことにアショーカ王自身の仏教への貢献で分裂が加速することにもなってしまうのです。
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アショーカ王の伝説と真実
アショーカ王の伝説は仏教徒に脚色されている
伝説的な仏教の守護者となったアショーカ王は、仏教徒からすれば最高の宣伝要員でもあったのです。
仏教が伝える彼の人生には、多くの誇張が含まれているとも言われています。
99人の兄弟を全員殺害する
アショーカ王の兄弟のうち何人かは生き残っており、その兄弟たちを要職につけているため、兄弟の全員を殺害したわけではないのです。
仏教の守護者
仏教に帰依しているのは事実であるものの、初期はそれほど傾倒していなかったのです。
なお、アショーカ王は他の宗教、バラモン教やジャイナ教、アージーヴィカ教なども保護しています。
アショーカ王の治世で国が弱体化
アショーカ王のダルマにもとづく治世は、マガタ国マウリヤ朝を衰退させることにもつながっていきます。
アショーカ王が存命のうちは最大の領土と繁栄を築き、それを維持していたのですが、アショーカ王の死後はマウリヤ朝は分裂し、滅び去る運命が待ち受けていたのです。
マウリヤ朝の三代までの王は重要視する宗教が異なる
チャンドラグプタはジャイナ教を最も大切にしており、自身もジャイナ教徒です。
ビンドゥサーラはアージーヴィカ教徒になります。
アショーカ王は仏教徒です。
マウリヤ朝の王たちは、それぞれ宗教が異なり、支持基盤となる集団も別であったことになります。
これもまたマウリヤ朝の短命さを決定づけている可能性がある真実なのです。
重視する宗教の違いにより、戦乱が起きることは歴史の一般的な傾向になります。
まとめ
- アショーカ王は王位継承の戦いで兄弟を殺害
- アショーカ王はカリンガ戦争で勝者となりマウリヤ朝を最盛期に導く
- アショーカ王はカリンガ戦争の被害の大きさを後悔
- アショーカ王は仏教に帰依し、ダルマの理論で国の統治を目指す
- アショーカ王碑文は、領土の各地にある
- アショーカ王は仏教の守護者
- アショーカ王の統治下で仏教は栄えるが国は後に分裂
- アショーカ王は他の宗教も保護する
仏教に帰依して慈悲を得たとされるアショーカ王は、仏教に帰依する前の半生をより暴力的に描写される傾向があるようです。
伝説は宗教の宣伝としても使われるため、仏教の伝説がつたえるアショーカ王の行いは過大な修正が加えられていると考えるのが自然な発想になります。
とはいえ、アショーカ王が仏教の発展に大きく貢献したのも、戦争で英雄となったのも、その被害を後悔したことも、治世の果てに国が分裂したことも、全ては歴史的な真実なのです。
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