辛亥革命とは?背景や意義、指導者など解説

古代中国から幾度となく王朝が代わりながらも、延々と続いてきた「皇帝」という制度があります。

しかし、その2000年続いた制度にも終わりが訪れることになるのです。

今回は中国の歴史の大きな変換点である、辛亥革命(しんがいかくめい)をご紹介していきます。

辛亥革命の主人公とも呼べる、袁世凱(えんせいがい)と孫文(そんぶん)についても解説します。

辛亥革命が起きた背景

清がアヘン戦争に負ける

1840年~1842年に起きたアヘン戦争の結果、清は不平等条約を結ばされることになります。

その当時に清とイギリスのあいだに行われていた貿易は、イギリスにとって輸入が多すぎて赤字を生み出すものであったのです。

イギリスはアメリカ独立戦争との戦費が必要であり、清に売るための商品としてインドで栽培したアヘンを密輸出するという、とんでもない商売を行います。

こうして清国内にはアヘンが蔓延してしまい、大きな社会問題となっていったのです。

さらにはイギリスのアヘンを買い続けたため、清はそれまで順調だったイギリスとの貿易が逆転し、赤字となってしまったのです。

清はアヘンが国内に入ることを禁止しようとしましたが、それではイギリスが損をしてしまいます。

損をしたくないイギリスとのあいだに戦が起き、これがアヘン戦争と呼ばれる戦です。

このアヘン戦争に清は敗北してしまい、不平等条約を欧米列強と結ばされることになっていきます。

清が日清戦争にも負ける

19世紀末に混迷を極めていた清は、日本とのあいだに起きた日清戦争にも敗戦してしまいます。

欧米列強に続いて日本にまで負けてしまい、さらに混乱が深まるなか、その状況に乗じる形で北からロシアまで侵入して来ました。

清の領土は列強たちの半ば植民地化されてしまった状況になってしまい、清の民衆のあいだには大きな不満や困窮が生まれていったのです。

当時、西欧化を目指した技術革新の運動である「洋務運動(ようむうんどう)は、清の王朝内部で保守派との対立を招くことになり、頓挫してしまいます(しかし鉄道などの技術革新は実行されました)。

清の民衆たちのあいだには、清の王朝である満州族(女真族)に対する不満も広がっていきます。

知識人たちはフランスなどのように市民が武力で革命を起こして、市民が政治の中心になる「共和制」の樹立を目指すようになるのです。

清の各地で反乱が続発するような状態になり、欧米列強にますますつけ込まれることにもなります。

やがて日露戦争が勃発しましたが、清は静観することを決めたものの、この戦いの主戦場の一つは清の領土である満州地域でした。

清は主権を守ることが出来ない状態であり、完全に疲弊していたのです。

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辛亥革命前夜:四川暴動

国民の疲弊と不満から来る反乱が各地で続発するなかで、清は辛亥革命を引き起こすことになる選択をしてしまいます。

「幹線鉄道国有化(かんせんてつどうこくゆうか)という政策です。

これは中国全土を走る鉄道を国有化して、それを担保にして列強各国からお金を借りるという政策でした。

しかし、この鉄道は海外にいる華僑などの支援を受けた中国人たちが、列強から買い戻して手にしていた鉄道だったのです。

せっかく中国人の金で列強から買い戻した鉄道を、清王朝が自分のものにして、それを使って列強から借金をするという形になります。

買い戻した鉄道を列強に売り渡すことになり、植民地化がますます進んでしまうことと同義であり、これでは民衆の努力は水の泡です。

この政策は清王朝が力をつけてきた民衆たちの力を削ぐための政策でもありましたが、この政策には資本家や学生たちが猛烈に反対して、大きな暴動を起こすことになるのです。

この暴動を「四川暴動(しせんぼうどう)」と呼び、辛亥革命の引き金になります。

辛亥革命の動乱:袁世凱と孫文

孫文(出典:wikipedia)

武昌蜂起と中華民国の建国

四川暴動を鎮圧するために清は軍隊を派遣することになりましたが、この軍隊までもが反旗をひるがえします。

軍隊のなかの革命派が湖北省の武昌(ぶしょう/ウーチャン)において武装蜂起し、独立を宣言したのです。

これを「武昌蜂起(ぶしょうほうき)といい、この放棄をきっかけにして、各地で次々に独立が宣言されていきます。

この独立した各地域の代表者が集まり、アジア初の共和制国家である「中華民国」を建国することになるのです。

中華民国の代表となった人物が、臨時大総統である孫文(そんぶん)になります。

孫文はこの革命のテーマおよび中華民国の国是として、「三民主義」を提唱します。

三民主義は以下の通りです。

三民主義
  • 民族の独立:漢民族や満州人、モンゴル系など、各民族の融和を目指し、「中華民族」という価値観を創る。清を打倒する意味もある。

  • 民権の伸張:国民の権利の保障。ただし、個人的な人権よりも国家を作り上げる国民としての権利という意味。中華民国を設立することを目指す。

  • 民生の安定:土地所有の格差を解消する。国民生活の安定を目指す。

中華民国は大きな地域を支配するようになりましたが、中華民国が建国された当時はまだ清は滅びてはいなかったのです。

清はこの中華民国を打倒するために、大臣であり北洋軍閥の長であり、失脚状態にあった「袁世凱(えんせいがい)」を起用し、彼に中華民国の討伐を依頼します。

袁世凱が清を滅ぼす:辛亥革命

袁世凱(出典:wikipedia)

清王朝から中華民国を滅ぼす命令を受けた袁世凱でしたが、彼は孫文とのあいだに密約を結んでいました。

袁世凱は清を裏切り、宣統帝(溥儀)を退位させることを条件に、中華民国の「臨時大総統」の座を渡すという取引を孫文と交わしていたのです。

このまま袁世凱の軍と戦えば、中華民国は滅ぼされる公算が大きかったため、孫文は袁世凱との密約を受け入れることになります。

こうして袁世凱は孫文との密約を果たして、清王朝を裏切って滅ぼしてしまったのです。

袁世凱は宣統帝(溥儀)を退位させることで、2000年続いた中国の帝制に終わりをもたらしたのです。

袁世凱は密約のとおりに中華民国の臨時大総統となり、中華民国は中国全土を支配するようになったのです。

孫文から奪った地位に就いた袁世凱は、首都を南京から北京に変えます。

北京こそが袁世凱の本拠地であり、この遷都を皮切りにして袁世凱は独裁を強めていくことになるのです。

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袁世凱VS国民党:第二革命

袁世凱の独裁に対抗するために、「国民党」が結成されました。

1913年、袁世凱と国民党が軍事衝突を起こします。この結果、軍事力に勝った袁世凱は国民党を破り、国民党を解散させました。

勝利した袁世凱は独裁を合法化する法律を作り上げていき、権力を集中させていきます。

袁世凱が目指したのは中国の君主になることです。袁世凱は自らが廃したはずの君主制の復活、つまり自らが「皇帝」となることを目指していたのです。

もちろん、袁世凱のこういった動向に対して反発が生まれます。

袁世凱の帝政VS国内の軍部と革命派:第三革命

1915年、帝政を始めた袁世凱に対して、かつては袁世凱が掌握していた軍部が反発します。

君主制を廃して共和制を実現させた各地の革命派も、反帝政の姿勢をあらわにしたのです。

さらには中国国内だけでなく、中国国内に半植民地を持っている列強各国、イギリスやアメリカや日本なども反発します。

袁世凱と反・袁世凱のグループがぶつかり大きな内乱が生じてしまえば、中国国内が荒れてしまうからです。

そうなれば列強が中国国内に持つ利権が金を生み出さなくなるため、袁世凱の帝政に反対しました。

こうして国内外からの大きな反発を受けてしまった袁世凱は、皇帝となることを取り消し、それから数ヶ月後に病死します。

袁世凱の死後、民衆に政治的な決定権が戻ることが期待されていましたが、実際にはそうはなりません。

袁世凱の権力を継いだのは軍部です。

中国各地で「軍閥」という武力を持った組織が乱立するようになり、北京の権力掌握を目指して各地で激しく争うようになったのです。

辛亥革命の意義

革命が目指した目的と結果

アヘン戦争以後に疲弊していき、西欧列強や日本やロシアなどの半植民地と化していた中国内部で生まれた不満を背景となった革命になります。

帝制を打倒して、共和制国家を樹立すること、および中国を民衆主導の近代国家とすることが目的です。

民衆に力を与えるという意義のもとに起きた革命の一つでしたが、辛亥革命を完成させたのは清王朝の大臣である袁世凱(えんせいがい)でした。

民主革命を目指していた孫文から権力を奪い取ったことで、袁世凱は皇帝の道を目指すようになったのです。

袁世凱は第三革命の果てに失脚しましたが、中国は権力を巡って軍閥同士が衝突する状態へと突入していきます。

辛亥革命が日本に与えた影響?

君主制である日本は、革命派と清のあいだを取り持つことを望んでいましたが、革命派をイギリスが支持したことで辛亥革命は成立します。

清の滅亡の結果につけ込む形で、日本が中国大陸への介入をしやすくなり、領土的野心からなる中国への侵略は広がっていきます。

居留民の保護を名目にして軍を派遣し、1912年~1922年まで居座ることになるのです。

大陸進出の足がかりとして、日本は辛亥革命を利用していました。

やがて日本は宣統帝(溥儀)という駒を手に入れることになります。

革命当時は子供であった溥儀はその命を保証されていましたが、清帝国の復活を夢見た人物でもありました。

日本は自らの領土のように扱っていた満州に、満州国を作り上げて、その傀儡(かいらい/操り人形の意)の王として溥儀を皇帝することにします。

日本は中国への侵出を強めていき、満州事変をきっかけに日中戦争が勃発することになるのです。

まとめ

  • 辛亥革命は打倒君主制、共和制国家を目指した革命
  • 辛亥革命の指導者は孫文
  • 辛亥革命で清を滅亡させたのは袁世凱
  • 辛亥革命の背景は、列強に植民地化されたことへの民衆の怒り
  • 辛亥革命の結果、清は滅びて中華民国が中国全土を支配する
  • 袁世凱はやがて皇帝になろうとする
  • 袁世凱の死後は軍閥が乱立する状況になる
  • 辛亥革命を利用して、日本は大陸に侵出していた

辛亥革命は成功したとも失敗したとも言われる、評価が分かれる革命になります。

革命の結果に得られたものは清帝国を滅ぼしたことと、袁世凱の死後の混乱です。

アジア初の共和制国家の樹立は成し遂げましたが、民衆に権利がもたらされることはなく、中国の混乱と争乱はこれ以後もしばらく続くことになります。

日本のアジア支配にも利用され、満州国の建国や、日中戦争の遠因にもつながっていくことになるのです。

理想的な結果をもたらした革命とも言いがたいものがありますが、2000年続いた皇帝という制度を終わらせたという点では、画期的な革命ではあるのです。

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