古代ローマには英雄とされる人物が数多く誕生しています。
その中でも最大の英雄の一人がカエサルですが、彼は道半ばで暗殺されてしまいます。
マルクス・アントニウスはこの大英雄カエサルの有力な部下の一人であり、カエサル死後のローマにおける重要人物です。
今回は波乱に満ちたマルクス・アントニウスの人生をご紹介していきます。
目次
マルクス・アントニウスの前半生
マルクス・アントニウスは不良少年?
アントニウスの母親はカエサルの従姉妹になり、父親は法務官として地中海の海賊退治を行った人物です。
しかし父親は海賊退治に失敗してしまい、失意の内にクレタ島で死亡してしまいます。
やがてアントニウスの政敵となるキケロによれば、アントニウスの父親は「無能で腐敗した男」と評されていました。
父親を亡くしたアントニウスは、母親の再婚により貴族レントゥルスの義理の息子になります。
レントゥルスは腐敗した貴族であり、横領などで私腹を肥やしているような人物でしたが、それでも派手な金使いをしているために金に困る人物です。
またレントゥルスは国家転覆の陰謀に荷担した人物とされて、キケロの手により処刑されてしまいます。
アントニウスは政務に失敗して落ちぶれてしまった父親や、あまり善良とは言いがたい二番目の父親を相次いで亡くしたのです。
不幸な家庭環境に生まれ育ってしまったアントニウスは、兄弟や友人たちと一緒になって酒や女遊び、ギャンブルをして怠惰な少年時代を過ごします。
アントニウスは20才になる頃には大きな借金を抱えてしまい、借金取りから逃げるようにローマを離れて東にあるギリシャへと逃れたのです。
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兵役についたアントニウスがクレオパトラと出会う
ギリシャで学問を学び、やがて兵役についたアントニウスはエジプトに行くことになります。
アントニウスの上司は海賊退治でも名を馳せていた有力な政治家「ポンペイウス」です。
ポンペイウスは市民の反乱によって追放されていたエジプトの王「プトレマイオス12世」の要請を受けて、彼を再びエジプトの王にさせるための支援を行います。
ポンペイウスの命令によりアントニウスたちはエジプトへ軍事介入を実行しました。
アントニウスたちはエジプト軍を倒し、プトレマイオス12世を再びエジプト王の座に返り咲かせたのです。
その結果、ポンペイウス派のローマ軍が警備名目でエジプトに居座るようになり、エジプトへの政治的な介入を強めるようになったのです。
エジプトは表面上は王を戴く独立国のままでしたが、事実上、ポンペイウスの属国となってしまいます。
このエジプト遠征の最中にアントニウスは、プトレマイオス12世の娘と出会うことになったのです。
彼女の名はクレオパトラ7世、絶世の美女として知られる人物であり、やがてアントニウスの人生にとっても、クレオパトラ7世は最も重要な女性となります。
第一回三頭政治
アントニウスが東方の地で活動していた頃、ローマ本土では大きな政治的なイベントが起きていました。
共和制と元老院に反対する有力な政治家・軍人たちが密約を結び、結託することになります。
この密約を結んだ大物たちは「ポンペイウス」、不動産投資の成功によってローマ最大の金持ちとなった「クラッスス」、そして英雄「カエサル」の三人です。
彼らはライバル同士でしたが協力し合うことで、ローマの共和制と元老院という「共通の敵」と戦うことになり、この三者の協力関係によってローマは運営されることになります。
これが第一回三頭政治と呼ばれるものです。
クラッススの莫大な財力の支援を受けたカエサルは、クラッススとポンペイウスのために有利な法律を作り、クラッススやポンペイウスは、カエサルに領事を歴任させることにより、カエサルの権力を維持させることに協力します。
彼らはお互いの利益を得るために協力し合い、共和制ローマを牛耳ることになったのです。
アントニウスがカエサルの部下になる
軍人として活躍していったアントニウスは、やがてカエサルの部下となります。
彼らを取りもったのはカエサルの信奉者であり、アントニウスを評価していたパブリウス・クロディウス・プルチャーです。
彼はカエサルの妻がいる男子禁制の区画に女装して夜這いをかけようとして失敗したこともある政治家であり、神に背いたとして罰せられそうになりましたが、カエサルに擁護されたことで助かり、カエサルの忠実な信奉者となった人物です。
アントニウスはカエサルのもとで、その軍事的な才覚を十二分に発揮して、カエサルと信頼関係を築いていきます。
そのあいだにも軍事的な功績が欲しいクラッススが東のパルティア遠征に失敗して死亡し、三頭政治は崩壊するのです。
カエサル対ポンペイウスの状況になりましたが、アントニウスはその決戦でカエサル配下で最高の将軍として軍の一部を指揮します。
ポンペイウスはエジプトへと逃げ去ることになりましたが、プトレマイオス13世はカエサルの報復を恐れてポンペイウスを暗殺したのです。
こうしてアントニウスはカエサルの重臣としての地位を確たるものにし、カエサルはローマを単独で支配することになります。
カエサルがローマを離れたときは本土であるイタリアの政治をアントニウスが担当しましたが、粗暴な振る舞いも目立ち、上手く行きませんでした。
キケロはアントニウスのことを「肉体が頑丈なだけの無教養人」、「酒と売春婦とバカ騒ぎするだけが取り柄の、剣闘士並みの男」と酷評しています。
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アントニウスと三頭政治
カエサルの暗殺とオクタヴィアヌスの出現
ローマを支配したカエサルは共和制から君主制への変更を画策しますが、その最中に暗殺されてしまいます。
アントニウスはカエサルの未亡人からカエサルの相続人であり、カエサル一派の指導者としての支持を受け、政敵である共和派を追放します。
共和派を殺さなかった理由は、カエサルの支持者であるローマ市民がそれを望まなかったからであり、アントニウスは上司カエサルの仇と不戦協定を結ぶことになったのです。
権力を掌握してカエサルの後継者のような立場になったアントニウスでしたが、じつはカエサルが遺言で後継者として指名していた人物は、アントニウスではなかったのです。
カエサルは自分の姪の息子である18才のオクタヴィアヌス(後の初代ローマ皇帝アウグストゥス)を後継者と指名していました。
ローマ市民は粗暴なアントニウスよりも、「カエサルの後継者=カエサルの子」であるオクタヴィアヌスの方を愛するようになったのです。
オクタヴィアヌスは、アントニウスと対立していたキケロたち元老院派や、カエサルの退役軍人の支持を金で買うことで権力を強め、アントニウスは段々と追い込まれるようになります。
アントニウスはローマから離れて、同じくカエサルの部下であった「レピドゥス」と手を組み、元老院と戦うようになったのです。
帝政の実現を狙うオクタヴィアヌスは、アントニウスを倒して欲しい元老院の意志に反して、アントニウスとレピドゥスと手を組むことを選びます。
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第二回三頭政治
アントニウス、レピドゥス、オクタヴィアヌスによる第二回三頭政治が始まります。
「国家再建三人委員会」を結成した彼らは、カエサル暗殺犯を探し出すことにしたのです。
カエサルの暗殺者を元老院派と認定して、彼らを粛正します。
そのなかにはオクタヴィアヌスを支持し、アントニウスの父親と二番目の父親とアントニウス自身を酷評し続けた人物であるキケロも含まれていました。
オクタヴィアヌスはキケロに対する強い殺意があったのかは不明ですが、アントニウスには明確な殺意があり、キケロは処刑されることになるのです。
その後、マケドニアに逃げていた暗殺の実行犯であるブルトゥスとカッシウスに対して、アントニウスとオクタヴィアヌスの連合軍が勝利します(フィリッピの戦い)。
軍事的な才覚には劣るオクタヴィアヌスはこの戦いを、自分の部下であり軍才豊かな「アグリッパ」に指揮させていましたが、アントニウスはそのことも気に食わず、この勝利は自分の手柄だと主張するのです。
アントニウスがエジプトに
カエサルの仇討ちを終えたアントニウスたちは、それぞれが支配する領域を決めました。
その結果、アントニウスはエジプトなど東方の支配者となり、エジプトに向かいます。
そしてカエサルの愛人でもあったクレオパトラ7世と、その子供カエサリオン(後のプトレマイオス15世)と出会うことになるのです。
アントニウスはクレオパトラとのあいだに三人の子供を作ることになります。
アントニウスはギリシャなどに加えて、プトレマイオス朝エジプトを味方につけることに成功したのです。
しかし、オクタヴィアヌスはアントニウスに対して、「悪評を流しつづける」という作戦を行っていたため、アントニウスのローマでの評判はどんどん落ちていました。
軍事力を得たアントニウスは、ローマ領内にパルティア軍が侵攻して来たことを知るとその迎撃に向かいますが、ローマではアントニウスの妻と弟が武装蜂起したことにより、パルティアとの戦いを中断することになります。
アントニウスとパルティアの戦い
妻と弟の反乱が鎮圧された後、アントニウスは領土を失い、オクタヴィアヌスから彼の姉妹を妻にさせれます(政略結婚。後の皇帝たちの祖母)。
アントニウスは東方でパルティアとの戦いを続けることになりますが、オクタヴィアヌスは援軍を前もって約束していた数の10分の1ほどしか送ってこなかったのです。
アントニウスのパルティア遠征は何度かの勝利の後で結果的に失敗することになりますが、エジプトからの財政支援で東方の軍事力を維持することは可能だったのです。
やがてオクタヴィアヌスが三頭政治からレピドゥスを排除し、アントニウスがクレオパトラの子供たちに「ローマ帝国の東部を分割して継承する」ことを宣言したことで、第二回三頭政治の同盟関係は終焉を迎えます。
ローマの東方世界ではクレオパトラがその魅力と政治的手腕を使い、アントニウスを操ることで多くの領地を手に入れようともしていたわけです。
クレオパトラはローマからも、アントニウスの強い影響下にあったユダヤ王「ヘロデ(新約聖書の悪王としても有名)」からも反感を買う存在でもありました。
東方各国の王たちからすれば、クレオパトラ7世はアントニウスを使い自国の領土を奪い取るような存在であったわけです。
クレオパトラのそういった振る舞いもあり、アントニウスへの協力者が東方世界でも減りつつありました。
マルクス・アントニウスの死
アクティウムの海戦
アントニウスとオクタヴィアヌスの対決が始まります。
アントニウスとクレオパトラの軍とオクタヴィアヌスの軍が海戦で衝突しました(アクティウムの海戦)。
軍船の数では勝っていたはずのアントニウスの軍ですが、オクタヴィアヌスの軍を指揮していたアグリッパにより劣勢に立たされます。
クレオパトラはその情勢を不利と判断したのか撤退してしまい、アントニウスもそれを追いかけるようにしてエジプトへと戻ります。
アントニウスとクレオパトラの死
アントニウスの敗北を知ったことで、東方の各勢力もオクタヴィアヌスに寝返り、そのためオクタヴィアヌスはエジプトまでスムーズに進軍することが出来ました。
追い詰められたアントニウスは、妻であるクレオパトラが自殺したという誤報を聞くと、自ら死を選びます。
しかし、それは誤報であったため、アントニウスはクレオパトラの命令で彼女のもとへと連れて行かれ、その腕の中で息絶えたのだと伝わっています。
クレオパトラもそれから十日後に蛇の毒で自殺しました。
クレオパトラとカエサルの血を引いていると称されたカエサリオンも、オクタヴィアヌスに殺されてしまい、プトレマイオス朝エジプトは終焉を迎えることになります。
オクタヴィアヌスはこうしてローマの百年続いた内戦を勝ち抜いた最終的な王者となり、やがて初代ローマ皇帝アウグストゥスとなるのです。
なおオクタヴィアヌスはクレオパトラの生前からの望みを聞き入れ、彼女をアントニウスの墓に共に埋葬しました。
アントニウスとクレオパトラの物語は、シェイクスピアによっても戯曲『アントニーとクレオパトラ』として綴られています。
アントニウスの子孫
アントニウスの子孫にはローマ皇帝も輩出されています。
アントニウスとアウグストゥス(オクタヴィアヌス)の姉の子、小アントニアからは後の英雄ゲルマニクス、第四代ローマ皇帝クラウディウスが誕生しています。
ゲルマニクスの息子には、第三代ローマ皇帝カリグラが生まれます。
ゲルマニクスの娘には、第五代ローマ皇帝ネロを生むことになる小アグリッピナがいるのです。
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まとめ
- アントニウスは不良少年
- アントニウスはキケロと仲が悪い
- アントニウスには軍才が豊か
- アントニウスはカエサルの部下
- アントニウスはカエサルの継承者にはなれなかった
- アントニウスとオクタヴィアヌスはライバル
- アントニウスはパルティアと戦う
- アントニウスはクレオパトラとのあいだに子供を三人作る
- アントニウスとクレオパトラは同じ墓に眠る
- アントニウスの子孫には皇帝が三代連続で誕生する
不毛な少年時代を過ごし、知識人としてではなく軍人として大成したことがアントニウスの特徴かもしれません。
借金癖や女癖の悪さに粗暴さと破天荒すぎて、暗殺と陰謀が渦巻くローマの政治を制する慎重さには欠いた人物のようにも感じられます。
もしもローマ市民に愛される要素があと一つでもあれば天下を取れたか、あるいは暗殺されていた可能性もあるように感じます。
どうあれカエサルが作った共和制廃止の路線は、アントニウスとオクタヴィアヌスにより帝政ローマ誕生へとつながって行くのです。
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