大黒屋光太夫とは?その生涯やロシア行きの経緯について解説

日本がまだ鎖国をしていた時代に、外国へ行き帰ってきた人の中ではジョン万次郎が有名ですね。

彼はアメリカへと渡りましたが、その約半世紀前にロシアに渡った人がいたことをご存知でしょうか。

それが大黒屋光太夫(だいこくや こうだゆう)という人物です。

鎖国時代だから自分から外国へ渡ることは罪となりますからまずありえませんね。それではなぜ大黒屋光太夫はロシアに渡ることになったのでしょうか。

ここではその大黒屋光太夫の生涯とともに、ロシアに行った経緯など詳しく解説していきましょう。

光太夫の出生と家族

1751年光太夫は伊勢亀山藩領南若松村(三重県鈴鹿市)の船宿を営む亀屋四郎治家で誕生しました。

光太夫には兄次兵衞と姉の国、いのがいました。
光太夫は次男で幼名を兵蔵といいます。

母は酒造や木綿商を営む清五郎家の娘でした。
光太夫の父は彼の幼少期に亡くなります。四郎治家は姉の国に婿養子を迎え家督を継がせました。

兄の次兵衛は江戸本船町の米問屋である白子屋清右衛門家へ奉公をし、光太夫も母の実家清五郎家の江戸出店で奉公を始めました。

光太夫、船頭へ

1778年亀屋分家の四郎兵衛家当主が亡くなります。
そこで光太夫が養子に迎えられることになりました。そして伊勢に戻った光太夫は亀屋四郎兵衛と改名します。

伊勢では姉のいのの嫁ぎ先の廻船問屋一味諌左衛門の沖船頭小平次(沖船頭大黒屋彦太郎)に雇われ船頭となりました。

そして1780年沖船頭に取り立てられ、この時初めて大黒屋光太夫を名乗ったのです。

ロシアへ漂流

アムチトカ島へ

1783年光太夫は船員15名と紀州藩から伴った農民1名の総勢17名で、神昌丸で紀州藩の囲米を積み、伊勢白子の浦から江戸へ向けて出航しました。

しかし、途中の駿河沖で暴風にあいます。一行はそのまま約7ヶ月も漂流したのでした。

やっとの事でたどり着いた先は、アリョーシャン列島の1つであるアムチトカ島でした。そこで光太夫一行は、原住民のアレウト人やロシア人と共に生活するうちにロシア語を覚えたのです。

4年後に光太夫一行とロシア人は自分たちが有り合わせの材料で作った船で島を出ます。

なぜロシア人たちは4年も島にいたのでしょう。
それは彼らを迎えに行った船が難破し、漂流民が逆に増えてしまったのでした。

ここで光太夫が指揮をとりその難破船の材料を使い船を作り、やっと島を脱出できたのでした。

ラクスマンとの出会い

アムチトカ島を脱出した一行は、カムチャッカ、オホーツク、ヤクーツクを経由して1789年にイルクーツクに到着しました。

途中カムチャッカでは、フランス人の探検家ジャン=バティスト・バルテルミー・ド・レセップスに会いました。後にレセップスが書いた旅行記に光太夫のことが記述されています。

イルクーツクで光太夫は日本に興味を持っていた博物学者のキリル・ラクスマンと出会います。彼はスウェーデン系のフィンランド出身の学者でした。

ラクスマンは光太夫の境遇に同情し、何とか帰国させたいと思うのでした。
また、一方で光太夫から日本についていろいろな情報を得ることもできました。

エカテリーナ2世への嘆願

ラクスマンと光太夫は何度も帰国を願う嘆願書をイルクーツク総督府に提出しましたが、光太夫たちをロシアに帰化させようと考えた総督府は許してはくれませんでした。

1791年ラクスマンは光太夫と直接エカテリーナ2世に帰国のお願いをするべくサンクトペテルブルクに向けて出発しました。

ペテルブルクへ到着後ラクスマンは腸チフスに罹ってしまい、光太夫が献身的に介護しました。その甲斐あってかラクスマンは無事回復したのでした。

この頃エカテリーナ2世はツァールスコエ・セローに行幸していたため、光太夫とラクスマンは女帝の後を追いかけました。

そしてついに女帝に謁見が許され帰国を許してもらえることに成功したのでした。

ラクスマンとの別れ

1792年ラクスマンと光太夫一行はオホーツクに到着しました。そこで光太夫はラクスマンと別れの時を迎えたのでした。2人の間には国を超えた深い友情が芽生えていました。

次はラクスマンが日本に行くことを約束しての別れでした。しかし、ラクスマンは1796年シベリアで亡くなりこの別れが本当に最後となったのでした。

帰国

日本へは使節としてラクスマンの次男アダムが付き添いました。
漂流から10年後の帰国でした。

光太夫たち17名のうち、アムチトカ島到着前に1名病死し、11名はアムチトカ島やロシアで死亡、正教に改宗しイルクーツクに残ったものが2名いたため、帰国の途についたのは、光太夫と磯吉、小市の3名だけでした。

帰国後の光太夫の生活

光太夫は時の将軍徳川家斉の前で、ロシアのことを色々と聞かれました。その記録は桂川甫周が「漂民御覧之記」としてまとめています。

また桂川甫周は「北槎聞略」(ほくさぶんりゃく)も編纂しています。
海外のことを広く知る光太夫の豊富な見聞が、蘭学の発展に大いに役立ったのでした。

光太夫と磯吉は江戸小石川の薬草園に住まうことになり、そこで生涯を過ごしました。

光太夫はここで妻を持ち、故郷の伊勢にも1度里帰りをしてしています。
1795年には大槻玄沢が実施したオランダ正月を祝う会に招待され、桂川甫周などの多くの知識人と交流を深めています。

一説には帰国後の光太夫は軟禁状態で監視されていたとあります。確かに外国へ行った者がどのような思想を受けて帰ってきたのか幕府に不安もあったことでしょう。

ですから薬草園に住まわせて、半ば監視はされていたのだと考えられますが、実際には上記したように自由な生活も送っていたようですし、その監視も重罪人を見張るようなものではなかったと思われます。

そして1828年光太夫は冒険と波乱に満ちたこの世を去りました。

まとめ

帰国した光太夫には気がかりなことがありました。それは沖船頭にしてくれた諫右衛門へ詫びることでした。そして伊勢を出航してから20年目にしてやっと頭を下げて詫びたのでした。

これでやっと旅は終わったのですね。

江戸へ積荷を運ぶはずの航海がとんでもないものになってしまった光太夫でしたが、現地でのラクスマンとの友情や女帝との謁見など、ある意味では充実していた冒険と思えるのは筆者の勘違いでしょうか。

光太夫が伊勢を出て2年後、死んだものと思われていたため、三重県鈴鹿市には砂岩の供養碑が立てられていました。現在は市の文化財となっています。

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