広大な外洋を旅するには造船の技術と、航海の知識が必要となります。
中世の時代には大型の帆船を作り、風を頼りに何千キロも海を渡っていたのです。
大型の帆船での航海と聞けば、イメージするのは大航海時代が多いかもしれません。
しかし中世の中国、明王朝の時代において大航海時代に先駆けて長大な航海を行った船団があります。
その船団を率いた人物が鄭和(ていわ)です。
今回は船団を率いて大航海を行った鄭和についてご紹介していきます。
目次
鄭和の人生
鄭和の一族
鄭和の本名は「馬三保」と言います。
なお漢姓において「馬」とはイスラム教の預言者ムハンマドの子孫を示す苗字です。
遠い血筋ではあるもののムハンマドに連なる名家であり、鄭和の父親や祖父たちはモンゴル人たちが作った元王朝に仕えた色目人政治家でした。
色目人とは元王朝が重用した「中央アジアおよび西アジア系民族」のことです。
元王朝では最上位の民族グループとして「モンゴル人」がいて、その次に元王朝に協力した「色目人」たちが支配階級になります。
元の時代では、本来の中国にいた漢民族たちは色目人の下に位置して、モンゴル人と色目人に支配されていたのです。
鄭和の一族は元王朝に仕えたイスラム教徒の色目人になります。
由緒正しいエリートだったのです。
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鄭和が宦官になる
幼い鄭和が暮らしていたのは雲南にある梁王国(元に連なる王国)でしたが、当時の中国はすでに明に王朝が変わっていたのです。
やがて明は梁王国を攻め滅ぼし、そのときに鄭和は捕虜となり去勢されたのちに一人の人物に奴隷=宦官(かんがん)として献上されます。
12才の少年が仕えることになった人物は、後に永楽帝となり、明の最大版図を築くことになる軍事的な野心家でした。
鄭和は軍人としても活躍し、永楽帝が甥っ子から帝位を奪い取る「靖南の変」で手柄を立てます。
その功績を評価されたことで、永楽帝は鄭和に宦官における最高職である「太監」の地位を授けたのです。
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鄭和が大船団を率いる背景
甥から帝位を奪った永楽帝は軍事的な天才であり、異民族への討伐などを積極的に行い国力を高めていきます。
さらに永楽帝は明代の特徴である「海禁令(海上貿易の禁止)」の流れを一時的に変えることを選んだのです。
明王朝の権力=自分の権力を誇示することを考えた永楽帝は、日本を始め周辺の諸国と朝貢貿易を開始します。
朝貢貿易とは周辺諸国が同盟の盟主・保護国として明王朝を認めて貢物を納めれば、軍事的な保護と政治的な正当性を保証してもえ、さらには相手国に有利なレートで明が貿易を行ってくれるというものです。
明の権威を示すための貿易(経済的には明は大損します)であり、帝位を奪った負い目のある永楽帝は、自身の権力と権威を強めようと考えていました。
多くの国家を明に従わせることで、儒教的な聖王(儒教では正しい治世をする王がいれば世界は平和に満ちます)であるように評価されたかったのです。
やがて朝貢貿易を充実させるために、永楽帝は南方に対して船団を派遣することを選びます。
当時はイスラム系の商人たちがアジアの海で力を持ち、また中央アジアなどのイスラム系国家との交流を永楽帝は望んていたため、イスラム教徒である鄭和にこの大船団を率いらせたのです。
宦官であり軍人であり自分の長らくの側近でもあった鄭和に、永楽帝は大きな外交遠征任務を与えることにしました。
なお永楽帝は帝位を戦争で奪い取った人物であるため、名門一族から構成される高級役人や上級軍人たちとのあいだに溝があったともされています。
そのため自身に近しく私的に使えるような地位である「宦官」たちを重用したのです。
永楽帝は軍事的な英雄でしたが、有力貴族たちとの関係は完全に良好ではありません。
宦官を重用せざるをえないほど、有力貴族たちを信用していなかったのです。
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鄭和の南海大遠征
こうして永楽帝の命により鄭和は大船団を率いて、南海を旅して多くの国々と接触することになります。
基本的には平和的な外交であり、相手国の経済的なメリットが極めて大きい朝貢貿易を行う訪問に戦闘が伴うことは稀だったのです。
鄭和は各国を訪れ、これまで明と外交の無かった南方の諸国と友好関係を築き、事実上の同盟に組み込んでいきます。
東南アジアの多くの国々が明に朝貢するようになり、建国間もないマラッカ王国などは朝貢を積極的に行うことで、周囲のライバル国家による侵攻を防ぐことにも使ったのです。
しかし時には船団が運んでいる財宝を狙って襲撃されることもありましたが、大量の兵士を船に乗せていた鄭和の船団は返り討ちにしています。
鄭和はそういった冒険の日々を繰り返しながら、多くの国々と外交を作り上げていったのです。
鄭和の航海の中断
永楽帝のために多くの外交的な功績を上げた鄭和でしたが、6度目の大遠征から帰国したときに永楽帝の死去を知ります。
皇帝は代替わりして政策が変更することになったのです。
永楽帝は度重なる軍事遠征を行い、また晩年には北京に都を移すなどの大きな公共事業を行っています。
その結果として明王朝の財政は苦しくなっていたのです。
そのため費用のかかる事業の多くが凍結されることになり、鄭和の大船団による航海も中止することになります。
鄭和は南京(旧首都)の守備隊長に任命され、南京にあった大報恩寺の修復などを行ったのです。
6年後、財政が回復した明は鄭和に最後の航海をするように要請します。
鄭和の最後の航海
鄭和は当時60才でしたが、過去6度の航海を行った実績を評価されての任命です。
およそ3年間に及ぶ旅であり、本隊から分かれた分遣隊は東アフリカにまで到達しています。
そして部下でありイスラム教徒である馬歓を、イスラム教の聖地であるメッカにまで派遣したのです。
メッカの巡礼を果たした馬歓と合流したのちに、鄭和の艦隊は本国へと帰還します。
最後の航海を終えてからすぐに鄭和は亡くなり、その墓は南京に葬られて600年近く経った現在でも「鄭和墓」として残されているのです。
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鄭和の艦隊の特徴
永楽帝の肝いり政策だった
永楽帝は鄭和の南海大遠征に並々ならぬ情熱を注いでいました。
その船団の規模は大型船62隻以上、補給用の小型船は数多くあり、乗組員数は2万7800人にも及ぶ大艦隊です。
どんな規模になるかと言えば、スペインの無敵艦隊アルマダの軍艦の数が130隻、総乗組員数が2万7000人なので、人員の面では無敵艦隊よりも多くなります。
毎回の航海が数年かかるため、その費用は国家予算を圧迫するのも当然です。
航海の結果として結ばれる朝貢貿易は、明王朝にとっては経済的な負担にもなります。
永楽帝は莫大な費用のかかる鄭和の航海を、存命中は6度も行わせることなったのです。
鄭和が帰還した直後には次の遠征艦隊が用意されているほどの熱の入れ方であり、国家の財政が傾くことにはなりましたが、明王朝と永楽帝の威光は中東社会にまで及びました。
何度か戦いに巻き込まれている
鄭和は兵力を持っていたため寄港した地域に軍事的な介入を行ったことがあります。
第一次航海では、ジャワ王朝の内戦に巻き込まれて死傷者を出し、賠償を請求しているのです。
またスマトラ島では華僑グループの争いに巻き込まれて艦隊を攻撃され、反撃して相手を捉えて南京(当時の首都)に送り斬首刑に処しています。
第三次航海ではセイロンの現地王が略奪しようと艦隊を攻撃、返り討ちにし、王の権威を失墜させて王朝が変わるきっかけまで作っているのです。
第四次航海ではサムドラ・パサイ王国においてクーデターに遭い亡命していた王を救援、反逆者を討伐して、王を王位に復帰させるなどの冒険を行っています。
基本的には巻き込まれて戦っているため、平和的な使節団ですが、軍事力があることと明に有利な外交協力を結ぶための集団であるため、軍事介入を行うこともあったのです。
鄭和はホルムズまで旅したが部下はアフリカに到達
鄭和自身はホルムズまで到達しました。
ホルムズとはホルムズ海峡にある貿易都市であり、ペルシャとインド、東アフリカをつなぐ貿易の拠点です。
ちなみにホルムズの語源は「ゾロアスター教」の主神である「アフラ・マズダー」であり、アフラ・マズダーが訛って「オルムズ」、そして「ホルムズ」と呼ばれるようになっていきます。
鄭和はこのホルムズにたどり着くとそこを拠点に選び、ホルムズから部下たちを分遣隊として東アフリカまで送ったり、最後の航海では同じイスラム教徒の馬歓(ばかん)をメッカまで送ったのです。
ホルムズ到達は第四次航海でのことでしたが(それ以後は第七次まで毎回寄港します)、これ以前、中国人商人たちの拠点はインドまででしたが、鄭和の遠征のおかげでホルムズにまで商業拠点が延長されることになります。
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鄭和艦隊は伝説の「麒麟」を手に入れた
中国神話における最高の霊獣が「麒麟(キリン)」になり、儒教的な考えでは聖王がいるときに姿を現すとされています。
鄭和がプレゼントされたその生き物はソマリ語で「ゲリ」、「長首の草食獣」と呼ばれる生き物であり、「ゲリ」という言葉が「キリン」に聞こえたのです。
私たちが今でも「キリン」のことを「麒麟」と同じ言葉で呼ぶのは、鄭和がホルムズで手に入れたキリンを永楽帝に献上したからになります。
甥から帝位を奪い取った負い目がある永楽帝からすると、聖王の証である麒麟を得ることは自尊心を大いに満たしてくれるプレゼントとして喜ばれたのです。
鄭和艦隊はキリン以外にもダチョウやシマウマ、ライオンやヒョウなども手に入れて本国に運んでいます。
なおキリンを運ぶ時は船の甲板に穴をつくって、そこから外部に突き出した形で運んでいたのです。
ちなみに現在の中国語でキリンのことは「長頸鹿(長首鹿)」と書かれています。
また日本にキリンが上陸するのは1907年になり、ドイツの動物園から8000円(現代の価値では1億6000万円)で購入したものです。
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鄭和とコロンブスの比較
鄭和は新航路の開拓者ではない
鄭和とコロンブスの大きな違いは、未踏の地域に鄭和が到達しているわけではないことです。
鄭和が到達した南の海の諸国も中東やアフリカも、すでにイスラム系の商人や中国商人たちが開拓している地域になります。
コロンブスのように未踏の地域を発見したわけではなく、その航海は未知への航路の探索ではなく外交使節の派遣です。
コロンブスは商業のための植民地を探していただけであり、外交目的の旅ではありません。
鄭和の航海はコロンブスの航海よりも、はるかに安全であるものでもあり、そもそもジャンルが異なる挑戦だったのです。
鄭和は中国勢力未踏の地域に達したわけでもない
じつは明よりもはるか古代の王朝である「唐」の時代の硬貨が、東アフリカでも出土しているため、鄭和の訪れた地域のはるか先まで古代中国の商業的な力は及んでいたのです。
シルクロードなどを通り、古代の中国王朝の商人や商品・通貨はアフリカにまで到達しています。
ヨーロッパ人で初めてアメリカ大陸に到達したコロンブスとの違いかもしれません。
鄭和の死後に航路は廃れる
鄭和の死後は大航海が行われず、明は儒教的な精神から商業に対して消極的になります。
商業活動そのものが儒教ではネガティブな評価を受けるためです。
また朝貢貿易そもののも大船団を派遣することも大きな経済的な負担となるため、明の財政を圧迫してしまうからでもあります。
明が貿易に消極的になったのちに、せっかく鄭和が開拓した航路はイスラム勢力に取って代われるようになり、明が使うことは少なくなったのです。
コロンブスのアメリカ大陸航路はその後も西欧諸国が有効な侵略と奴隷貿易、植民地獲得のための航路として使い続けることになるため、大きな違いの一つになります。
まとめ
- 鄭和はイスラム教徒で色目人
- 鄭和の一族は元王朝に仕えていた
- 鄭和の本名は馬三保
- 中国の姓で「馬」はムハンマドの末裔
- 鄭和は永楽帝の宦官
- 鄭和は戦争でも功績を立てている
- 永楽帝は帝位を奪い取ったためスタッフ不足であり、宦官を重用した
- 永楽帝は権威を確保するために鄭和に大航海をさせた
- 鄭和の航海の目的は外交
- 鄭和の航海は基本的に平和だったが時おり軍事的な紛争に巻き込まれた
- 鄭和はホルムズまで到達し、その部下は東アフリカにまで行った
- 鄭和の部下はメッカに行った
- 鄭和は「麒麟」を中国に持ち帰った
- 鄭和とコロンブスには違いが多い
鄭和は七度の大航海の果てに、多くの功績をあげます。
各国との外交を結び、ときに敵とも戦うという興味深い人生を送った英雄です。
漢民族でない色目人であり、宦官という事実上の奴隷から政治的な駆け引きではなく、あくまでも現場での功績で英雄となったという魅力もあります。
鄭和の人生は波乱と冒険に満ちた、偉大な冒険家だったのです。
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