江戸時代における鎖国政策などの印象が強く、また広大な領土を取り合いになるほどの国家間での衝突もなかったため、中世日本の外交や貿易政策の印象は薄いものがあります。
しかし、日本もアジアに属する国家であったため、周辺諸国との政治・経済面での交流も、当然ながら存在していたのです。
勘合貿易も、日本と中国とのあいだに行われていた貿易の一つになります。
今回は、そんな勘合貿易についてご紹介していきます。
また、朱印船貿易との違いについても解説します。
目次
勘合貿易の始まり
勘合貿易は日本と明とのあいだにおける貿易
室町幕府の三代将軍である足利義満は、明とのあいだの貿易が莫大な利益を上げるということを聞きつけ、明と貿易を開始することを望みます。
日本側とすれば、明から得られる経済的なメリットを求めていたのです。
また明からすれば、室町幕府と協力関係を築くメリットがあります。
「倭寇(前期倭寇)」と呼ばれる海賊集団に対する取り締まりです。
明成立後の混乱に乗じるようにして、中国の沿岸部は海賊行為の被害に悩まされています。
この「倭寇(前期倭寇)」は、北九州や瀬戸内海を本拠地として日本人を中心に結成されていた海賊組織だったのです。
明はこの倭寇への対策を、室町幕府に期待していたのです。
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勘合貿易が成立した背景は金と海賊
幕府を成り立たせるための予算を確保したい足利義満と、海賊問題を解決したい明は、お互いの目的を達成させるために、公式な貿易を始めます。
それが勘合貿易になるのです。
お互いの国家の正式な貿易船であることを証明した、「勘合符」と呼ばれるものが使用されたために、勘合貿易と呼ばれています。
この勘合符のシステムは、一枚の札を半分にしたようなもので、それぞれの国に、半分ずつ渡されることになるのです。
お互いが持っている札がピッタリと一致すれば、お互いが公式の貿易船であることを証明することになります。
こうして始まった勘合貿易のおかげで、元寇(前期)は滅び、室町幕府は貿易による利益を手に入れることになるのです。
勘合貿易に対する批判
双方の国家にメリットが大きいように見える勘合貿易ですが、日本側から批判されることもあります。
どういう批判なのかと言えば、勘合貿易を成り立たされる条件の一つに、冊封と朝貢というものがあったからです。
中国の皇帝に、周辺国家の王が貢物を捧げることを朝貢といい、その見返りとして皇帝から王の位を保障されることが冊封になります。
つまり、中国の覇権と貿易に従うことで、中国からの恩寵を受けるというシステムになります。
この冊封を受けなければ、元という異民族王朝を倒したばかりで民族主義に燃えていた初期の明は、公式の貿易の許可を与えなかったのです。
足利義満も朝貢し、日本国王の地位を明の皇帝から授けられ、勘合貿易を開始することにしたのです。
しかし、これは中国の皇帝に追随している姿勢と受け取られることもあったため、国内から批判が生じる場合もあったのです。
室町幕府内でも冊封関係については問題視されることがあり、4代将軍の足利義満は一時的に勘合貿易を停止します。
しかし、6代将軍足利義教の時代に勘合貿易は復活するのです。
なぜなら、勘合貿易は大きな利益を幕府にもたらしていたからです。
勘合貿易における輸入品
勘合貿易は対等の貿易ではなく日本側の圧倒的な有利
勘合貿易は対等の貿易ではなく、じつのところは日本側には大きなメリットがあったのです。
明からすれば、この貿易はホストとゲストの関係になります。
ホスト、つまり主催者である明は、朝貢する国をゲストとして扱うことになるのです。
中華思想からすれば、大人物は客人を徹底的にもてなすという考え方があります。
中華料理が大量なのも、客人が食べきれないほどの料理をふるまい、満足させなければ、主催者の恥となるからなのです。
食べきれないほどの料理を与え、お土産として料理を持たせるほど与えることこそが、中華思想流の「おもてなし」になります。
上記の発想は勘合貿易においても用いられており、日本の輸出した品物に対して、明らかに多すぎる量の輸入品を得ることが出来たのです。
この勘合貿易は、等価のトレードなどではなく、「日本からすれば圧倒的に有利なトレード」になります。
中国の皇帝としては、朝貢した国には大きなメリットを与えることで、自分たちの権力や権威を示すことにもなったのです。
朝貢のメリット
じつのところ朝貢はメリットも多くあるものであり、たとえば辺境の少数部族が、わずかでも朝貢していれば、その少数部族が侵略を受けたとき、皇帝が軍を派遣することがあります。
元の時代では、アイヌと矢羽根の貿易で争っていた部族との間に起きた紛争にも、少数部族が朝貢していたため、元は軍隊を派遣しアイヌとのあいだに紛争を起こしてもいるのです。
これは元寇よりも前の時代の衝突ですが、朝貢は経済のみならず、軍事的な同盟関係の基礎ともなっているため、皇帝と対立関係にない集団からすれば、実利は多大にあったことになります。
勘合貿易で日本が得た輸入品:銅銭
勘合貿易のレートは、日本側に圧倒的に有利なものであり、輸出品の10~20倍相当の輸入品を手に入れることが可能というものになります。
日本が求めた輸入品には銅銭があるのです。
室町幕府では貨幣経済が発展して行く最中にあったため、通貨として使用するための銅銭を明から輸入することになります。
貨幣不足が慢性化していたため、銅銭の入手は日本の経済的なシステムの発展には必要なものだったのです。
勘合貿易で日本が得た銅銭は、明では流通していなかったもののため、勘合貿易のために明が専用に作ったものだともされています。
勘合貿易で日本が得た輸入品:生糸・織物・書物
仏教の経典なども輸入されたため、国内仏教の発展に貢献し、また絵画なども輸入されたことにより、諸々の文化の発展にもつながっていくことになります。
皇族・貴族などの作った公家文化から、武家社会的、そして民衆も活躍する室町文化の形成にも、勘合貿易は大きな影響を与えてもいるのです。
勘合貿易における日本側からの輸出品
硫黄、銅などの鉱物、刀剣や屏風、扇子などが輸出されています。
日本の銅からは銀を精製することが明では可能であったため、明からは重宝されたのです。
「銅にしては高いが、銀と思えば安い」という価値観から、日本の銅は高値で取引されていたことになります。
勘合貿易と朱印船貿易の違い
勘合貿易と朱印船貿易は時代が違う
勘合貿易は「室町幕府による貿易」であり、朱印船貿易は「戦国時代末期から主に江戸時代における貿易」になります。
勘合貿易の終焉は国際問題が原因
勘合貿易を行っていた室町幕府なのですが、応仁の乱などの国内紛争により、幕府は疲弊して力を失っていくことになります。
勘合貿易の主体も幕府の運営から離れ、有力商人たちやそれを影響下におさめる大名たちが中心となっていくのです。
貿易の拠点であった博多に勢力を持っていた大内氏や、同じく堺の細川氏などが勘合貿易を行うことになります。
大内氏と細川氏は、それぞれ独自に明へと使節を派遣し、勘合貿易を行っていましたが、やがては大内氏側が幕府に貢献したことから勘合貿易を一手に任せられることになります。
しかし、その結果、莫大な商業的利益を失うことになってしまう細川氏は、それに納得することが出来ず、公式な勘合符を持たないまま明に商船を派遣してしまったのです。
明には大内氏側の船が先に到着していましたが、細川氏側が貿易港の役人を買収したことから、細川氏側の船から先に取引が始まります。
それに激怒した大内氏側が、細川氏側の船を焼き払い乗員を殺傷したのです。
さらに明の役人までも殺害してしまったため、明との間の国際問題に発展します。
明が大内氏を受け入れることはなく、やがて大内氏も滅ぼされたため、公式に勘合貿易を行う機会も滅びたのです。
勘合貿易終了後も海外貿易は活性化
公式な取引こそ終わりを告げましたが、商人たちや海賊たち(後期倭寇/メンバーは主に中国人)などにより、非公式な海外貿易は活発化していきます。
民間貿易は、それまでの勘合貿易を超えるほどの取引量となっていったのです。
それまでの商品だけでなく、銃やキリスト教の宣教師や、西洋文明の品々まで流入することになります。
日本の戦国時代における、大量に銃を使う戦や、キリシタンの誕生などにもつながっていくのです。
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朱印船貿易により貿易を統制
貿易が活性化したものの、民間貿易であったため「統制が取れていない」という問題点もあったのです。
そのため、公的な明との貿易として、豊臣秀吉が朱印船貿易を始めます。
それまでの勘合が朱印状という札に代わり、これが新たに公式の貿易船の証明となったのです。
そして、朱印船貿易は徳川幕府にも受け継がれていき、鎖国政策において海外との貿易を行うための、貴重な選択肢となっていきます。
まとめ
- 勘合貿易は公式の日明貿易のことである
- 勘合貿易は室町幕府の財源確保と明の海賊対策が一致した背景を持つ
- 勘合貿易は日本側がもうかった
- 勘合貿易には批判もあった
- 勘合貿易で得た輸入品たちは日本の文化の発展に影響を与えた
- 勘合貿易はライバル大名の利権争いの果てに起きた国際問題が原因で終わる
- 勘合貿易は室町幕府の貿易
- 朱印船貿易は主に江戸時代の貿易
勘合貿易は中世日本の貿易政策の代表的なものの一つです。
その成り立ちに海賊問題や、幕府の財政や国内環境整備のための課題などがあります。
日本史とはいえ、国際的な歴史にも関わってくるため、とても興味深い貿易なのです。
各国の歴史や文化もつながっているものなので、関係国の歴史的な背景のつながりを考えてみるのも面白いものです。
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