琉球王国の歴史:グスクや最後の王、子孫、貿易まで解説

東シナ海に浮かぶ150以上の島からなり、美しい海や自然を持つ沖縄県。日本でありながらどこか異国情緒を掻き立てるそこは、昔「琉球王国」と呼ばれる王国が栄えた場所でした。
正式には「琉球國」といいますがここでは「琉球王国」と呼ぶことにします。

これから日本とも違う一つの独立した王国であった琉球王国の歴史を見ながら、伝統的な遺構であるグスクや貿易、王朝最後の王やその子孫の事まで解説していきたいと思います。

琉球王国の歴史

三山統一と第一尚氏王統

1429年尚巴志(しょう・はし)は、争う北山、中山、南山の3つの国を統一し琉球王国を作ります。そして首里(現在の那覇市)にあった首里城を大改修して琉球王国の城として作りました。

第一尚氏は大和(日本)や明(中国)、李朝(朝鮮半島)との貿易の上に、ジャワやマラッカなどとも手広く交易をしてとても栄えていました。

その一方で第一尚氏の権力は不安定でした。三山統一後も、地方の按司(あじ)や豪族の力が強く、王朝安泰の中央集権化には及ばなかったのです。

その上第6代の尚泰久王は自らの重臣 金丸(尚円王)のクーデターによって後継者である尚徳王の政権をうばわれることになったのです。

第二尚氏王統

尚徳王の薨去後、金丸(尚円王)が王位を継承しました。ここに第二尚氏王統が誕生したのです。
尚円王は重臣たちの推挙によって王位に就いたと言っていますが、尚徳王の世子は暗殺されており、彼のクーデターによるものだったと考えられています。

第3代国王の尚真王の頃、地方の按司(王族の次に位するもの)を首里へ呼び中央集権化に成功しました。

この第二尚氏王統の時代に、石垣島や与那国島、先島諸島まで統治し、1571年には奄美群島北部まで征服していきました。

第二尚氏王統は19代続きましたが、1879年に政府により廃藩置県が行われ琉球藩はなくなり沖縄県の設置がなされました。ここで450年続いた琉球王国は終わりを告げたのでした。

薩摩の侵攻

豊臣秀吉の死後、朝鮮出兵の戦後処理のため、明や朝鮮と日本は講和交渉をしようとしましたが、明や朝鮮は日本に対して警戒心を緩めませんでした。

そこで徳川家康はその交渉を琉球王国にしてもらおうと考えました。しかし、これに同意すれば琉球王国が日本に属したことになります。ですから琉球側は拒否し続けました。業を煮やした家康は、琉球王国を支配下とするべく、薩摩藩の島寿氏に琉球討伐を命じたのでした。

1609年薩摩藩の島津氏は3000名の兵を率いて沖縄本島へ上陸し、首里城まで進軍しました。
琉球軍は島津より多い4000名で応戦しましたが破れてしまい、尚寧王は島津と和議を結び首里城は開城したのでした。
これ以後琉球王国は薩摩藩の付庸国となり、税を納めることになったのでした。

一方で、明から清に変わった中国とも、薩摩藩と同様に付き合いながら琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持し続けたのでした。

黒船来航

1853年5月黒船が那覇にやってきました。
アメリカ海軍のマシュー・ペリーが開港を求めて首里城を訪れたのです。

黒船は翌年にも来航し琉米修好条約を締結し那覇は開港しました。この時琉球が開港に承知しなければアメリカは琉球を占領するつもりでしたから、琉球としては仕方なく承知したのでだと思われます。

これを機に1855年には琉仏修好条約、1859年には琉蘭修好条約と次々と締結されていったのでした。

琉球から沖縄へ

1871年明治政府は廃藩置県で琉球王国を鹿児島県の管轄とします。しかし、翌年琉球藩を作り琉球国王の尚泰王を琉球藩王とみなし公爵の位を与えました。

明治政府は明治の年号を使い、藩王自身が上京すること、さらに清国との関係を断つことを尚泰公爵に迫りましたが、公爵はそれに従いませんでした。

そのため1879年首里城で廃藩置県を言い渡し、首里城を明け渡すように命令しました。そして4月琉球藩は廃止され、沖縄県が生まれたのでした。

これらの一連の施策を琉球処分と呼びます。
約450年続いた琉球王国の終わりでした。

グスクについて

グスクとは、首里城のようなお城のようなもののことですが、日本の城とは全くの別物です。
沖縄や奄美群島から八重山諸島にかけて多数存在するグスク時代の遺構があります。
その作りは土作りのものから石垣作りのグスクへと変化していきました。

グスクには住居と共に、祈りを捧げる場所が必ずありました。それは「御嶽」と呼ばれるもので、現代でもその場所でお祈りをしている人もいます。

今でも世界遺産にも登録された今帰仁城跡(なきじんじょうあと)や首里城跡など多数のグスクが残っており、我々も琉球王朝の歴史を垣間見ることができます。

琉球貿易

琉球は東アジアの貿易の拠点としてとても繁栄していました。
その上、明国や東南アジア、日本、朝鮮を結ぶ中継貿易へと発展し、より繁栄を極めたのでした。

しかし、ヨーロッパ諸国の大航海時代に突入すると次第にその繁栄に陰を落とすこととなります。さらに1609年の薩摩藩の征服によって琉球貿易は衰えをみせたのでした。

最後の王とその子孫

450年もの間続いた琉球王国の最後の王となったのは、第二尚氏王統代19代目の尚泰王です。彼は7男11女の子供を持ちました。

琉球なきあと東京へと移住し華族となった尚泰王とその家族でしたが、彼が亡くなると、長男は東京で跡を継ぎ、次男と四男は沖縄へ戻りました。

ですから琉球王国の子孫は東京にいた長男の系統と、沖縄に戻った次男、四男の系統とに分かれて引き継がれているようです。

女優の比嘉愛未さんも琉球王国の末裔だと祖母に聞かされ驚いたと言っています。

まとめ

琉球王国の歴史や文化について解説してきましたがいかがでしたか。
約450年続いた琉球王国は時代の流れと共に、沖縄県へと姿を変えていきました。

しかし、首里城を代表とするグスクなどの独特の文化は今の我々も見ることができます。
日本の戦国時代や江戸時代とは違った琉球王国の時代に心を馳せてみるのも一興かもしれません。

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