にぎり寿司などではネタの下にある酢飯のかたまりを「銀シャリ」とも言います。
シャリという言葉は一般的にその他の機会であまり耳にすることのない、聞き慣れないものですが、そもそもの由来は仏教用語になります。
今回は舎利(しゃり)についてご紹介していきます。
本来の用語ではどういった意味があったのか、そして舎利にまつわる様々なエピソードなども解説していきます。
目次
舎利とは具体的には何なのか?
舎利が持つ本来の意味
そもそも舎利(しゃり)とは古代インドの言葉、「シャリーラ」のことになります。
シャリーラとは「遺骨」、「死体」、「肉体」、「構成するもの」などの意味を持った言葉です。
舎利という漢字が使われていることには深い意味はなく、シャリという「言葉/音」を表現するのに使い勝手が良かったからになります。
仏舎利/宗教用語としての舎利
日本の仏教用語としての「舎利」は「開祖である釈迦の遺骨」のことを示しています。
とくに釈迦の遺骨であることを強調したい場合には、「仏舎利」と表記します。
仏舎利の仏=釈迦の遺骨である、という意味です。
かつて釈迦の遺骨は多くの信者や弟子、そして王侯貴族などに配られました。
それぞれの遺骨はほんの小さなものでしたが、遺骨の一欠片ずつにお墓が建てられたのです。
この仏舎利=釈迦の遺骨が収められた墓は石造りの塔の形をしたものになり、ストゥーパと呼びます。
ストゥーパは日本では「卒塔婆(そとば)」のモデルとしても有名です。
ストゥーパは古代インド全域に8万以上もつくられたと伝わります。
舎利=仏舎利は釈迦の遺骨であり、卒塔婆は釈迦の墓をモチーフにしたものになります。
なお卒塔婆は死者の冥福を祈るものであり、そのため死ねば皆が仏になれるという宗派である浄土真宗では使われていません。
銀舎利(銀シャリ)の語源
寿司用語では握った酢飯のことを「シャリ」や「銀シャリ」とも言います。
このシャリも語源は舎利にあたります。
古代インドでは米粒のことを「シャーリ」とも呼んでいました。
そのため日本の仏教僧たちは、ご飯のことに舎利という別名をつけて呼ぶこともあったのです。
あくまでも仏教僧の中で使われていた言葉でしたが、江戸時代の頃には一般にも普及していきます。
釈迦の遺骨と米がどちらも舎利と呼ばれる理由
遺骨と米のどちらも舎利と呼ばれることには違和感を覚えるはずです。
これについては、有力視される説が二つあります。
一つ目は、シャリーラとシャーリが言葉としてあまりにも「似ている」ため、仏教が中国を経由して日本に伝わる過程で、「混同されるように使われ始めた」という説です。
日本に伝わったときから、すでにシャリーラとシャーリは混同されていたのかもしれない、という説になります。
二つ目は、仏舎利=釈迦の遺骨を見た僧侶が、その遺骨の小ささを米粒に例えて表現したことがきっかけという説になります。
釈迦の遺骨である仏舎利はストゥーパに納骨されましたが、ストゥーパは8万あるとも言われ、その一つ一つに収められている遺骨はとても小さなものになります。
また仏舎利には多くの「模造品(宗教上のシンボルとして作られたもので、当然ながら釈迦のオリジナルの遺骨は入っていない)」が作られていますが、これも分割された遺骨にちなみ小さな水晶の欠片などになります。
オリジナルにせよ模造品にせよ、釈迦の遺骨=仏舎利は「とても小さなもの」です。
そのため、仏舎利=小さな遺骨を見た僧侶が、「まるで米粒のようだ」と感想を残したことで、舎利=小さな遺骨=米粒のようなものとなり、やがて米の隠語として使われるようになったという説です。
銀舎利(銀シャリ)の由来
江戸時代の頃には舎利=米という隠語が一般にも広まっていましたが、白米のことを示す「銀シャリ」が使われるようになったのは第二次世界大戦の最中になります。
物資不足であった当時の日本では、米には麦などの「米以外のもの」を混ぜて販売することもありました。
そのため米100%であるご飯を示す言葉が生まれ、それが「銀シャリ」です。
つややかな光沢のある白米を、貧困と物資不足の最中にあった当時の日本人は羨望を込めて「銀」に例え、銀シャリと呼び始めたのです。
舎利と似ている「砂利」の由来
舎利は仏教用語として伝わり、米の隠語や白米100%のご飯の隠語として一般にも使われるようになっていきました。
仏教用語は日本語に浸透していきましたが、舎利とよく似た言葉である砂利(じゃり)とは関係がありません。
砂利の語源は細石(さざれいし)とされています。
さざれ⇒ざれ⇒ざり⇒「じゃり」と転じていったものです。
砂利とは小さな石の集まりになりますが、劇場用語でも子供の蔑称として「ジャリ」という言葉が使われています。
丸刈りが主流だった時代に子供の観客の集団を劇場の上から見ると、まるで小石が集まった砂利のように見えたことから、子供たちの蔑称としても「ジャリ」が使われたのです。
また「シャリ」と「骨」で連想する言葉には「しゃれこうべ」があるかもしれません。
しゃれこうべは「頭の骨」を指す言葉ですが、これも舎利とは関係がないものです。
しゃれこうべの語源は、さらし首です。
昔は処刑された人の頭部を見世物としてさらしていましたが、さらし=しゃれ、首=こうべ(頭/こうべを垂れる)、その二つが合わさったものが、しゃれこうべです。
ウィリアム・ペッペの見つけた舎利
1898年に釈迦の骨が見つかる?
1898年、北インドにある古墳からイギリス人の駐在官であったウィリアム・ペッペが巨大な石棺を発見します。
その石棺を開けてみると、1000点を超える金銀財宝と高価な装身具、そして灰と骨片が見つかります。
ウィリアム・ペッペの調査によれば、それは釈迦とその一族の墓であると分かりました。
19世紀の当時、ヨーロッパで釈迦は「架空の存在」であると考えられていたのです。
太陽神などがモチーフとなった存在なのだと予想され、実際にいた人物とは思われていませんでした。
しかし、この発見により釈迦の実在には信憑性が与えられるようになったのです。
本当に釈迦の遺骨だったのか?
ウィリアム・ペッペの発見により、釈迦の実在がヨーロッパでも認められるようになりましたが、この石棺に残されていたブラーフミン文字の解読には他説もあります。
「釈迦の遺骨」ではなく、「釈迦の親族の遺骨」であるという説もあるわけです。
真実はどちらなのかは分かりませんが、釈迦の一族の存在は証明され、釈迦がその時代に実在した宗教家であることを示す発見には違いありません。
釈迦の骨か親族の骨なのかにまつわる疑念が生まれ、そして未だに決着がついていない理由はあります。
釈迦の遺骨が安置されて、なおかつ釈迦の親族ゆかりの土地である「カピラバッツ」という土地の所在が分からないからです(他の聖地は場所が特定できている)。
ウィリアム・ペッペの発見した遺骨が本物であれば、その発掘地こそが「カピラバッツ」なのかもしれません。
しかし、そこから近しい場所にも有力な「カピラバッツ」の候補地があります。
釈迦に由来する聖地で「カピラバッツ」のみ現在でも特定には至っていないのです。
カピラバッツの場所を示す文献が、インドにも残されていなからになります。
釈迦の一族は釈迦が生きているあいだに他国に滅ぼされて、その一族の多くが殺されているため、釈迦の一族にゆかりのある土地がどこまでなのかを特定することは難しいのです。
ペッペが発掘した遺跡はカピラバッツだったのか、それとも異なる遺跡だったのか、その結論をつけることは出来ていません。
またインド側による再調査では、1972年にペッペの発掘した遺跡を再調査すると、それよりも地下から石鹸石の小さな壺が発見され、それから黒く焦げた骨が見つかったという報告もあります。
インド側はこれこそがオリジナルの釈迦の遺骨であり、ペッペの発見したそれは模造品であるという主張もしています。
釈迦の遺骨=真舎利は日本にもある
「釈迦のオリジナルの遺骨」という意味で、「真舎利(しんしゃり)」という言葉もあります。
上記のように様々な説があるもののウィリアム・ペッペによって発見された釈迦の遺骨は、宗教上、重要な聖遺物になります。
多くの国がそれを求めて動き出すことになり、ペッペが見つけた遺骨は20世紀初頭には仏教に関連する国々に分配されることになりました。
その骨の一つがタイ王家を経て、日本にも伝わっています。
多くの宗派が取り合うことにより想定される宗教紛争を防ぐために、どの宗派にも属さないという立場の寺を作って祀ることにしました。
「覚王山日泰寺(かくおうざんにったいじ)」は愛知県名古屋にある寺であり、ウィリアム・ペッペの発見した遺骨が現在も安置されています。
王様と真舎利
釈迦の遺骨を日本国民に寄贈してくれたタイ王国(当時はシャム王国)のラーマ5世は、タイを近代化させた名君とも知られています。
小説・映画、ミュージカルなどで「王様と私/アンナとシャム王」を知っている方にも、ラーマ5世は有名です。
ラーマ5世は家庭教師アンナの影響で西洋化を志したともされています(小説や映画ではアンクルトムの小屋を読んで、奴隷解放を目指すことになりますが、あれはフィクションです)。
ラーマ5世は奴隷解放を行い、義務教育を導入し、海外留学を推奨し、反乱に備えて近代化軍を整備しました。
近代化に成功したことにより、イギリスやフランスのあからさまな侵略を防ぎました(文明が遅れているから自分たちが新しい文化を伝えるという建前の侵略を、近代化により防いだ)。
改革の結果、タイ王国は他国からの侵略を防ぎ、列強に植民地化されるという危機を防ぎましたが、後に軍国化してしまい民主化が遅れることにもつながっていきます。
タイ王国を近代化させたラーマ5世は、真舎利寄付の縁から覚王山日泰寺にも祀られています。
能の「舎利」
「舎利」の内容
能の世界には舎利をテーマにした演目があります。
そのタイトルは「舎利」です。
- 旅の僧が舎利(劇では釈迦のオリジナルの骨)が祀られている寺を訪れて、寺にある舎利を見せてもらう。
- 舎利を拝んでいると、寺の近所に住むという男が現れて、僧たちと共に舎利に祈りを捧げていた。
- 空が曇り、男は正体を明かす。男の正体は悪疾鬼で、大昔に釈迦の骨を盗んだことがある鬼だった。
- 釈迦の骨を再び盗み、天へと走って逃げる悪疾鬼、僧たちは昔、悪疾鬼から釈迦の骨を取り返した守護神・「韋駄天(いだてん)」に祈りを捧げる。
- 韋駄天が現れて悪疾鬼を追いかけ回して、追い詰め棒で打ちのめし、釈迦の骨を取り戻す。
- 釈迦の骨は寺に戻されて、悪疾鬼は戦いの疲れで力尽きて消え去っていった。
「舎利」で使われる能面の種類
韋駄天(いだてん):「天神」の面が使われる。天神は菅原道真(受験の神さま。太宰府で有名、学問と雷の神)のことであり、左遷されて失意のままに憤死した菅原道真の「憤怒の相」を現すもの。
悪疾鬼(あくしつき):「顰(しかみ)」の面。しかめっ面や、顔をしかめる等の「しかめる」に由来する面。悪さをする「鬼」の面として多用される。
正体を現す前の男:「怪士(あやし)」の面。武将の怨霊や海の幽霊を現す面。
能は能面によって大まかな役割を、その衣装によって細かな設定を表現してもいます。
韋駄天=菅原道真ではなく、憤怒の相と神威を現すために「天神」を選び、仏教の守護神である韋駄天に使っています。
まとめ
- 舎利とは遺骨のことを指す古いインドの言葉
- 仏舎利とは釈迦の遺骨を示す
- 舎利と砂利は関係がない
- 舎利(シャリ)とは仏教僧が使っていた米の隠語だが、江戸時代に庶民にも広まる
- 銀シャリが広まったのは第二次世界大戦の最中の貧困の時代
- 本物の釈迦の骨とされる「真舎利」がウィリアム・ペッペに発掘される
- 釈迦はペッペの発見以前は西欧では実在していない人物と考えられていた
- ペッペの発掘した真舎利が本物かどうかには諸説がある
- ペッペの真舎利はタイ王家経由で日本にも伝わる
- 釈迦の遺骨を日本国民にプレゼントしてくれたラーマ5世はタイを近代化させた名君
- 能にも舎利という演目がある
舎利は宗教用語の範囲に収まらず、日本では米や酢飯の隠語ともなり、演劇のテーマにもされるほど尊ばれています。
真贋の程はともかく釈迦の真の遺骨とされる真舎利も国内の寺にあるため、興味がある方は参拝しに行くことも難しくありません。
釈迦の骨は古代インドにおいても、近代史においても大きな外交力・政治力を持っていたことも分かります。
古代でも近代でも、釈迦は骨の一欠片まで影響力を持つ偉大な宗教家だったのです。
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