人生の苦しみからの解放を目指す仏教において、その方法論は宗派によって多少の違いがあります。
しかし、仏教において人生に苦しみが生まれる理由は明らかなのです。
それは煩悩というものが原因とされています。
今回は、仏教においての煩悩というものはどんなものなのかをご紹介いたします。
また煩悩の前向きな使い方なども解説していきます。
目次
煩悩とはどんな感情なのか
煩悩とは人の欲望や執着
煩悩とは分かりやすくいえば欲望や執着になります。
金が欲しい、名誉が欲しい、眠りたい、お腹が空いたからご飯が欲しいなど、人の欲求は煩悩に根差しているものになるのです。
あるいは死にたくない、老いるのが嫌だと感じるのも、煩悩になります。
およその精神活動に随伴する、心身を乱してしまう心理的な作用を煩悩と呼び、基本的には人の心はこの煩悩で埋め尽くされているのです。
煩悩の数は108
一般的に煩悩の数は108あるとされています。
除夜の鐘で108回ほど鐘をつくのは、煩悩の数であり、それを清めるために鳴らしているのです。
煩悩の数の由来は諸説ある
煩悩の数が108とされる理由には諸説あります。
その一つは、感覚、執着、純度、時間をかけたものがあるのです。
人に感覚という外部情報を与える五感+自分の精神/意識で、六根という考えがあります。
※六根は、眼、耳、鼻、舌、身、意(心)で現されており、それぞれ視覚、聴覚、嗅覚、味覚、暑い寒い痛い重いなどの身体感覚、精神活動により、感覚が生まれているいう意味になります。
この六根に「執着」を生む、好・悪・平(好き、嫌い、どちらでもない)と、ものごとの「純度」である浄・染(きれい、汚い)、そして、「時間」=過去・現在・未来の数をかけたものが煩悩とされています。
感覚(六根)×執着×純度×時間=108の煩悩
6×3×2×3=108
と、なるわけです。
つまり、およそあらゆる心理状態が、煩悩の由来となります。
臭い×好き×きれい×過去で、好きな花の臭いを嗅いだときに思い出された美しく楽しい記憶でさえも、それが人の心理の平穏を乱すこともあるのです。
素敵な記憶に囚われ、現状を主観的に判断する執着心を発揮してしまうこともあるわけで、それさえも煩悩なのだと呼べます。
煩悩の数が108なのは四苦八苦が由来説
また、煩悩の数が108な理由は、四苦八苦が由来となるという説もあります。
四苦八苦とは、これは語呂合わせ的に4×9+8×9=108という説です。
四苦とは、生老病死の根本的な苦しみになります。
八苦とは、その四苦に、「愛別離苦」(愛する人とも別れる時が来る)、「怨憎会苦」(嫌いな人と出会う)、「求不得苦」(求めても手に入らないものがある)、「五蘊盛苦」(ごうんじょうく/心身が思うがままにならない)が加わったものになります。
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煩悩はたくさんある
煩悩は108あると言われているのですが、108の意味は「たくさんある」、「克服しがたいほど根源的」という意味での使われ方が正しいようです。
分類するための属性を加えることにより、掛け算的に増えていきますので、多く計算した場合は8400になる場合もあります。
また、少ない場合は根源的な煩悩に絞っているため、3つになることもあるのです。
次は、その根源的な煩悩についてご紹介いたします。
三毒と呼ばれる根源的な煩悩
煩悩の三毒とは貪・瞋・癡(とん・じん・ち)
悪業の全てはこれから起きているとされるのが、最も根本的な煩悩である三毒になります。
- 貪(とん)とは、貪欲、必要以上に求める欲望。
- 瞋(じん)とは、怒りの感情。
- 癡(ち)とは、愚痴(愚癡)、真理に対する無知、根源的な意味での愚かさ。
人の悪行の全ては、これらに根差しているわけです。
煩悩の三毒は基本的に消せない
そして、それらの根源的な煩悩は消すことが出来ないともされています。
怒りの感情が無いのは、怒りや憎しみを抱く者がとなりにいないからであり、もしも、いれば怒りを持つのが人間の本性です。
根源的な叡智は人ではなく、仏教から得られるため教えなくしては愚かさを持つのが人の本性になります。
欲望を否定することは不可能なことになるわけです。
そのため人は大なり小なり三毒を抱えながら生きるため、仏教の修行としては、三毒を反省するという形がら入るのが一つの基礎となります。
煩悩はそもそも悪とも断じがたい?
煩悩は仏教的には消せない
基本的に仏教では、煩悩を人間が克服することは不可能という考えになっています。
悟りを修行で開くことは、とても難しく、人の本性は変えがたいものです。
しかし開祖である釈迦(釈尊、仏陀)も「中道」を説くように、煩悩を完全に拒絶しなくても人は生きていけます。
あまり深く解脱や成仏に囚われるのも、また煩悩と呼べるものかもしれないのです。
煩悩即菩提 〜煩悩を活用する哲学〜
大乗仏教としての考え方に、煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)という言葉があります。
これは、そもそも煩悩がなければ、苦しみも生まれず、菩提(悟り)を開こうとする努力も生じない、つまり煩悩があればこそ菩提(悟り)を目指す心も生まれているのだということです。
日蓮の『御義口伝(おんぎくでん)』の一節には、
「煩悩の薪(たきぎ)を焼いて菩提の慧火(えか)現前するなり」
とあります。
煩悩を消そうとするのではなく燃料(薪)とすることで、菩提(悟り)を得ることができるということです。
仏教では煩悩を全面的に肯定しているわけではありませんが、この一節では煩悩の存在をポジティブに捉えているのです。
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煩悩の有益な活用
煩悩はそもそも人の根源的な欲求であり、現実的には世の中を動かす原動力でもあります。
欲にまみれるのは正しい行いではないかもしれませんが、煩悩はモチベーションという意味では人をポジティブにも動かす力なのです。
より豊かになりたいという煩悩は、人生に成功を招く可能性もあります。
煩悩は現実的には、人間にとって大きなエネルギーでもあるのです。
そういった梵棒は、ある意味では「良い煩悩」と呼べるかもしれないものになります。
世の中を現実的に作り上げているのは、どうあれ欲望なのです。
しかし、この拒絶しがたい煩悩のエネルギーを人生に有益に使うことには、注意点もあります。
煩悩が招く危険性を認識する
仏教においては欲望を持つことは容認されていますが、欲望への執着心の強さや、欲望そのものの過大さは否定されています。
煩悩は人の活動のエネルギーですが、過剰・過大な欲になれば、視野を狭めることにもなるのです。
欲しいもののために努力し、労働をして、それを得ることは健全な範囲になります。
しかし、欲しいもののために手段を選ばず、窃盗や詐欺などを働くこともあるわけです。
煩悩はエネルギーですが、それに囚われ過ぎては正常な行動を逸脱して、自分や周辺に危険を及ぼすものにもなりえるのです。
これらは確実に「悪い煩悩」と呼べるものと言えます。
バランス良く煩悩と付き合うのが現実的
過剰に傾倒することなく、欲望と行動、そして法律や倫理などの社会規範と照らし合わせながら、自分の行動を客観的に考えるべきなのです。
欲望は行動の始まりとしては、悪いことではなく、何よりモチベーションとして優れたエネルギーになります。
それを御するためのバランス感覚を持つ、つまり「中道」主義こそが望ましいのです。
過大でもなく過小でもない、適切な欲求を持っているのが、現代社会の現実的なスタンスだと言えるもので、人と煩悩の理想的な付き合い方とも言えます。
まとめ
- 煩悩の数は108
- 煩悩の種類は感覚や環境因子でカテゴリー分けもされる
- 煩悩の根源的なものは三毒
- 煩悩即菩提という考え方がある
- 煩悩は消せない
- 煩悩とバランス良く付き合うのが理想的
仏教においての煩悩という概念は、なかなか難解なものでもあります。
修行僧はともかく、一般人としては煩悩の完全否定ではなく、中道つまりバランス良く付き合うことが肝心なようです。
理性と知識を重視して、客観的な判断をしつつ、自分の煩悩をコントロールして、良い人生を歩みたいものです。
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