世界三大宗教の一つに数えられるイスラム教の開祖こそが、ムハンマドです。
イスラム教が盛んではない日本においては、その名前と役割は有名ですが、どんな人物なのかまでは、よく知られているとは言えないものになります。
今回は、そんなイスラム教の開祖であるムハンマドの生涯や人となり、年表についてご紹介していきます。
目次
ムハンマドの生涯:預言者になるまで
ムハンマドはメッカで生まれる
西暦570年頃、ムハンマドは名門商人の一族の一員としてメッカに生まれます。
本名は、ムハンマド・イブン=アブトゥッラーフ・イブン=アブドゥルムッタリブです。
アブドゥルムッタリブの息子であるアブトゥッラーフの息子、ムハンマド、という意味になります。
ムハンマドが生まれる前に父親であるアブトゥッラーフが亡くなり、祖父と叔父でるアブー=ターリブに育てられたのです。
ムハンマドと未亡人ハディージャとの結婚
成長したムハンマドは一族と同じように商人になります。
ムハンマドが25才のとき、40才の未亡人であるハディージャ・ビント・フワイリドと結婚します。
ハディージャは共に商人であった二人の夫たちに先立たれており、二人の夫の遺産を相続していたため、とても裕福だったのです。
ムハンマドとハディージャとのあいだに、二男四女の子供たちがいます。
この子供たちのなかで、末娘はファーティマは、後に第四代カリフの妻となる人物です。
ハディージャとの仲はむつまじく、ムハンマドはハディージャが亡くなるまで他の女性との結婚をすることはなかったのです(当時の感覚では、裕福な男に複数の妻がいるのが普通です)。
ムハンマドが大天使ジブリールから啓示を受ける
40才になったムハンマドは、メッカの近くにあるヒラー山で瞑想に耽っているときに、大天使ジブリールに出会い、唯一神であるアラーの啓示を受けます。
これは後に聖典コーランにまとめられることになるものです。
ムハンマドは啓示を受けたことに困惑していると、ハディージャは自分のいとこであるキリスト教の修道僧ワラカ・イブン・ナウファルに相談します。
ワラカはムハンマドに、預言者モーゼ、預言者イエス・キリストと同様に、神の言葉と教えを広げる存在である「預言者」として選ばれたのだと説いたのです。
やがてムハンマドは預言者としての自覚を持ち始め、神アラーの命令に従い、その教えを広めることを選びます。
これがイスラム教のスタートとなったのです。
ちなみに、上の画像もそうですが、ムハンマドの顔が描かれない理由は「ムハンマドの顔は何故描かれないのか」の記事をご参照ください。
預言者ムハンマドによるイスラム教の始まり
最初のイスラム教徒ハディージャ
預言者ムハンマドの始めたイスラム教の最初の信者となったのは、妻であるハディージャです。
その後は、友人や親戚がイスラム教に改宗しましたが、もともとメッカにいるアラブ人たちは多神教を信仰していたため、イスラム教に改宗しようとはしなかったのです。
育ての親である叔父アブー=ターリブは一族の長として、イスラム教に改宗することはなかったものの、その教えを広めることに協力してくれましたが、メッカでの布教活動の成果は良くなかったのです。
むしろ、メッカにおいては、既存の神々を冒涜する異端者という扱いが一般的だったため、メッカの人々は、ムハンマドとイスラム教徒たちを迫害し始めます。
イスラム教の「悲しみの年」
メッカでの信者獲得に苦労するムハンマドでしたが、619年は大きな試練の幕開けとなります。
叔父であり、自分の布教活動の支持者であったアブー=ターリブが亡くなったのです。
イスラム教においては、イスラム教の信者でない者は地獄に落ちることになっているため、メッカの人々はムハンマドに「お前の育ての親は今どこにいる?」と訊いたとき、ムハンマドは「地獄にいる」と答えることしか出来なかったのです。
そんな言動も災いし、ムハンマドは自分の一族からも大きな反感を買ってしまい、その支持を失うことになります。
さらには、最愛の妻であるハディージャも、この年に亡くなってしまうのです。
619年は「悲しみの年」として知られ、ムハンマドは個人的な悲しみにくれるだけでなく、メッカで活動するための大きな後ろ盾を相次いで無くしてしまい、迫害もまた加速します。
ムハンマドによる「聖遷/ヒジュラ」
メッカでの迫害の強まりから、メッカにおける布教活動に限界を感じていたムハンマドは、ヤスリブ(後のメディナ)における部族間対立の調停者として、その町に訪れることになるのです。
ヤスリブにムハンマドが移ったことにより、イスラム教の信者「ムスリム」たちもそれを追いかけるようにヤスリブに移住し始めます。
メッカの有力者たちは、ヤスリブでムハンマドが勢力を高めることを不安視し、ムハンマドの暗殺計画を実行することになったのです。
ムハンマドは命からがらメッカを脱出し、ヤスリブに落ち延びます。
ヤスリブは、「預言者の町/メディナ」と名を変えて、ムハンマドたちは、このメディナで勢力を大きく拡大していくことになるのです。
このムハンマドが拠点となる都市を移したイベントのことを、「ヒジュラ」と言い、622年を「ヒジュラ暦元年」とも言います。
ムハンマドによる聖戦:バドルの戦い
624年、メディナ周辺部族と同盟を結び、その勢力を拡大しつつ、生活の糧を得るために、もはや敵対関係となったメッカの隊商たちへの襲撃と略奪を繰り返します。
あるとき、大きなメッカ側の隊商を発見したムハンマドたちは、それを略奪するために出発しますが、メッカ側は重装歩兵600人を含む1000人という大部隊を出撃させたのです。
メディナ軍はメッカ軍の進軍ルートに先回りして、そこにある井戸を埋めます。
井戸を失ったメッカ軍は、メディナ軍との一騎討ちにより開戦しますが、その際に名だたる将を失ってしまったのです。
ムハンマドのメディナ軍は300人しかいなかったため、三倍以上の戦力差があり本来は不利なものでしたが、メディナ軍の結束は強く、水不足と将を欠いた状態にある敵へと襲いかかり、勝利したのです。
奇跡的な勝利に、天使が味方についたのだとまで評価され、ムハンマドの名声はますます高まります。
この戦いを記念して、断食月である「ラマダン」が始まったのです。
ウフドの戦い
625年、復讐に燃えるメッカ軍は、3000の兵力を率いて再びムハンマドのメディナ軍と衝突、ムハンマドはこれを700の手勢で迎え撃ちます。
メディナから出ての砂漠での戦い、つまり野戦を選びます。
その理由はメディナのなかにいるユダヤ教徒たちに不穏な動きを感じていからです。
両軍が衝突し、序盤は守ることに徹したメディナ側が好調でしたが、好調がゆえに守りを忘れて攻め込みすぎたため、守りに穴が生じます。
その守りの穴に対して、メッカ軍の騎兵が突撃、ムハンマドのいる本陣を攻撃したのです。
ムハンマドが死亡したとの噂も流れ、メディナ軍は壊走することになります。
ウフドの戦いに勝利したメッカ軍でしたが、行方の知れないままのムハンマドを警戒し、メディナを占領することもなくメッカへと引き上げたのです。
ハンダクの戦い
627年、ムハンマドを討ち取るべく、メッカ軍がユダヤ教徒と手を結び、10000の兵力でメディナに攻め込んで来ます。
対するメディナ軍は3000しかなく、その戦力差はあまりにも大きなものです。
ムハンマドはメディナに立て籠もり、徹底的な防御策を実行して、これと戦うことになるのです。
メディナの周囲に塹壕を掘らせて、隊列を組み敵に長槍を向ける槍ぶすまという守りの戦術を使い、なおかつアラブ世界では伝統である一騎討ちを仕掛けずに、とにかく守りに徹します。
高度な防衛線を、メッカ軍は突破することができないまま、小規模の侵入を幾度か行いますが、その少数の手勢もメディナ側の精鋭に排除されるだけに終わったのです。
遠征してきたメッカ軍は、その時点で少々の疲れがありましたが、メディナに入城することが叶わないまま、攻略の手段を持たぬ状況で、砂漠に3週間も立ち往生することになります。
メッカ軍の士気は見る間に落ち、離脱していく部隊が続発したため、メッカ軍は10000の部隊で攻め込みながらも、イスラム教徒6人を殺しただけで撤退するしかなくなったのです。
メッカの地位は、この敗戦で大きく低下し、ムハンマドの政治的な地位は確実なものとなります。
ムハンマドとクライザ族虐殺事件
ハンダクの戦いに勝利したムハンマドは、戦後処理を行うことになります。
クライザ族というユダヤ教徒である部族が、メディナの町にはいましたが、ムハンマドは彼らに対しての虐殺を行ったのです。
その理由は、ユダヤ教徒であるクライザ族が、メッカ軍と内通していたからになります。
クライザ族はメッカと密約を結び、メディナを城内から攻撃するという方策を立てていたのです。
元々、メッカ側にはユダヤ教徒が多く味方してたのです。
以前、メッカ軍がウフドの戦いで勝利した後、メディナを徹底的に攻撃しなかったのは、メディナのクライザ族と同盟を組み、内外からの攻撃によって、効率的にムハンマドたちを滅ぼす機会を作るためでもあります。
メッカ側とクライザ族は手を結んでいたのですが、結果的にはクライザ族が行動に出ることはなかったのです。
しかし、拠点である町の内部に敵対するクライザ族の存在を許すことは、これ以上は現実的ではなく、ムハンマドはクライザ族の成人男性を全て殺してしまいます。
女性と子供たちは全て奴隷にしたのです。
当時の部族間対立の裁きとしては、妥当な決着、あるいは善良な方の決着という評価もあります。
ちなみにメディナにおけるユダヤ教徒の活動は、その後も禁止されてはいないのです。
ムハンマドは、キリスト教とユダヤ教を、同じ神を信じる民として評価しているという価値観を、どんなときでも変えることはなかったのです。
【関連記事】
ムハンマドの勝利でイスラム教の勢力が拡大
フダイビーヤの和議が成立
628年、メッカとのあいだに「フダイビーヤ」の和議が成立し、両者のあいだに10年の停戦という約束が成されることになります。
この和議はメッカ側に有利な内容でしたが、ムハンマドは十分な勝利と感じていたのです。
弱い勢力であったはずのイスラム教は、メッカとも対等の軍事的な力を得つつあり、直接対決が起きない期間の存在は、広まっていくイスラム教の勢力にとって有利に働くものになります。
メッカとの戦いで得た名声を用い、ムハンマドはビザンツ帝国やササン朝ペルシャなどに使者を送り、イスラム教の改宗を勧めたのです。
また周辺の部族の幾つかを、遠征により掌握していき、その勢力を拡大していきます。
しかし、メッカとのあいだに結ばれていた平和条約は、二年と保たなかったのです。
お互いの勢力と同盟を組む部族のあいだに生じた小競り合いの結果、ムハンマドとメッカの仲は急激に冷え込み、それまでは条約を遵守していたムハンマドもメッカに向けての進軍を始めます。
ムハンマドがメッカを降伏させる
ムハンマドの軍勢は、このとき10000を超える勢力となってたのです。
そのため、メッカはムハンマドの軍と戦うことなく降伏することを選びます。
ムハンマドは、降伏したほとんどの者を許し、数名の多神教の指導者たちが処刑されるだけというソフトな結末で事態は終結したのです。
イスラム教においては聖地であるメッカを手に入れ、その中心であるカーバ神殿へとムハンマドは向かい、祀られていた多神教の神々の石像を打ち壊します。
こうして、イスラム教の聖地をムハンマドは掌握したのです。
ムハンマドのイスラム教勢力がアラビア半島を統一
生誕の地であり、イスラム教の聖地でもあるメッカを手にしたムハンマドですが、拠点はメディナのままです。
メディナを発展させながら、ムハンマドは遠征軍をアラビア半島各地に派遣し、やがてアラビア半島はイスラム教の勢力が統一することになります。
ムハンマドの死
ムハンマドは死の間際に大巡礼を行う
632年、ムハンマドは聖地メッカへの正式な巡礼である、「大巡礼/ハッジ」を行い、イスラム教徒として行うべき五つの行動の指針を提示します。
大巡礼の後に、ムハンマドは体調を崩し、そのままメディナの自宅で死ぬことになるのです。
ムハンマドの死は、44才年下の愛妻、アイーシャの膝の上で訪れたと伝わっています。
【関連記事】
ムハンマドの死後
イスラム教は初代正統カリフ、アブー・バクルが指導者として継承します。
しかし、アラブ諸国の民族のなかには、ムハンマド個人への忠誠心が強かったため、カリフに従わない勢力も出始めることになるのです。
アブー・バクルはそれらを軍事力を用いることで、再び、自分たちの勢力に組み込むことに成功します。
カリフたちは受け継がれていきますが、カリフ制度とイスラム教の指導者の在り方の差から、スンニ派とシーア派に分かれて、その両派の対立が始まることにもなるのです。
ムハンマドの人物像
ムハンマドは愛妻家である
初代の妻を深く愛し、一夫多妻制でありながら彼女が亡くなるまで他の妻を娶ることはなかったのです。
ムハンマドは基本的に寛大な人物である
当時の一般常識に比べると、かなり温和な戦後処理を行っています。
ムハンマドは優れた政治家でもある
宗教家という顔以外にも、明確な政治活動を行い、立法などにも才能を発揮しています。
ムハンマドは軍人でもある
アラブ社会になかった戦術を採用するなどの柔軟性、結果として軍事力によるアラビア半島統一を成し遂げた結果を考えると、軍人としての才能も高かったと考えることも可能です。
ムハンマドは女性にやさしい
ムハンマドは戦争未亡人たちの再婚制度などを整備しています。
ムハンマドは猫好き
猫を飼って可愛がっていたという話も伝わっています。
マレーシアやインドネシアなどイスラム教徒が多い国に猫が多いのも、ムハンマドが猫好きだったためとされています。
ムハンマドは静かに微笑むタイプ
大笑いすることなく、質素な生活を好んでいたようです。
個人的な所有物で立派な持ち物は武器と、王族からもらった靴だけだったと伝わり、質素な生活を心がけていたのです。
ムハンマドは契約を守る男
育ての親である叔父のことさえも、イスラム教徒でないから地獄に落ちたと語れる信仰心の固まりのような男です。
また、敵側との契約も遵守し、法律や約束を尊ぶ性格をしています。
ムハンマドは欲深い男ではない
最高の預言者ではないのだと、本人は語ります。
事実上の王とも呼べる立場にまでなった指導者ですが、モーゼやキリストと同格の預言者であり、それらの上の立場ではないのだと語っています。
ムハンマドの年表
570年 メッカで生まれる。父は生まれる前に死亡し、母も間もなく亡くなる。
595年 未亡人ハディージャと結婚。裕福になる。
610年 ヒラー山で大天使ジブリ―ルから、唯一神アラーの啓示を受ける。
613年 布教活動をメッカで開始、迫害を受ける。
619年 「悲しみの年」、叔父が死亡し妻ハディージャが相次いで死亡。
自分の一族を敵に回し、メッカでの布教がますます困難になる。
622年 ヒジュラ暦元年。メディナに拠点を移す。
メッカから暗殺を仕掛けられ、敵対関係は深まる。
624年 バドルの戦い。奇跡的な勝利をし、名声を得る。
戦勝記念に断食月ラマダーン始まる。
625年 メッカの復讐。ウフドの戦いで敗北する。
627年 ハンダクの戦い。メディナを守りきって勝利と名声を得る。
メッカ勢力は没落を始める。
627年 「クライザ族虐殺事件」。メッカ側と組み、反乱を企てていた
ユダヤ教部族の男を皆殺し、女子供は奴隷にする。
628年 「フダイビーヤの和議」。メッカとの停戦、
この期間に周辺部族を制圧し、戦力を高めていく。
630年 メディナとメッカの同盟部族が小競り合いを起こし、
それを契機に10000の兵でメッカに進軍、
メッカ、戦わずして降伏する。
630年 カーバ神殿の多神教の神像を除去、イスラムの聖地となる。
イスラムの聖宝「黒石」を回収。
632年 メッカに大巡礼、イスラム教徒の規範を完成させる。
その後、死亡。メディナの預言者のモスクに葬られる。
まとめ
- ムハンマドはイスラム教の開祖
- ムハンマドは預言者の一人
- ムハンマドの布教活動は苦労の連続
- ムハンマドは政治家、軍人の顔も持つ
- ムハンマドは最終的に勝利し、イスラム教世界を作り上げた
- ムハンマドの人生は波瀾万丈
ムハンマドの人生は、戦も多く宗教の開祖というだけでなく、王朝の基礎を築いた軍人という側面もあります。
英雄譚のような物語でもあり、読み物としても面白いものです。
ムハンマドの築いたイスラム勢力は拡大し、歴史に大きな影響を及ぼすことになります。
ムハンマドの人生を知れば、世界史の勉強に感情移入しやすくなるのは間違いないのです。
コメントを残す