「古代史の主役は?」という問いに対して、最も多くの答えを集めるであろう存在の一つが「ローマ帝国」になります。
宗教や大衆文化に芸術や哲学など、人類の知的な側面を大きく発達させたローマ帝国ですが、今回ご紹介するのはその初代皇帝アウグストゥスになります。
ローマ帝国の初代皇帝は、一体どのような偉業を成し遂げた人物なのかを解説していきます。
アウグストゥスがローマ帝国初代皇帝になった経緯
アウグストゥスはカエサルの後継者
アウグストゥスはローマの天才的な軍人・政治家であるカエサルの養子になります(血縁関係で言えばカエサルはアウグストゥスの大叔父/祖父の弟です)。
古代ローマで最大の野心家と言われた英雄・カエサルが暗殺されたとき、カエサルが後継者に指名していた人物が、当時、若干18才であったアウグストゥスになります。
アウグストゥスは大叔父の突然の死を契機として、ローマの政治の中枢に参加することになったのです。
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アウグストゥスの権力掌握
18才にしてローマの指導者の後継者となったアウグストゥスは、大叔父であるカエサルの人気を使って政治的な求心力を強めていきます。
具体的に行ったことは、カエサルの部下であったり、カエサルの支持者であった古参の兵士たちを味方につけていったのです。
カエサルはローマにおいて人気のある英雄であったため、アウグストゥスはカエサルの「正当な後継者」として振る舞うだけでも大きな影響力を持つことが出来たのです。
「カエサルの人気を使って権力」を集めるという戦略は、年若いアウグストゥスの基本的な政治方針として使われることになります。
またアウグストゥスの前半生は政敵への粛正も多く見られるのが特徴です。
反対する勢力に属する議員などに対しては、幾度となく大量の処刑を行っています。
内戦状態のローマであったことを考慮しても、アウグストゥスの反対勢力への攻撃は苛烈なものであったという評価がされているのです。
ライバルであるマルクス・アントニウス
カエサル暗殺などが起こり不安定な正常であったローマには、アウグストゥス以外にも有力な政治家が存在します。
マルクス・アントニウスという人物であり、彼との権力闘争はアウグストゥスが皇帝となるまで続きます。
両者はお互いを政敵として陥れるような演説を繰り返すことになりますが、政敵であると同時に交渉相手でもあり、お互いの野心に利用することになるのです。
内戦状態にあるローマにおいては軍隊を有することの出来た有力人物たちは、元老院議会という武力のない政治中枢からすれば何時においても危険な存在であったわけです。
元老院はアウグストゥスに対してもアントニウスに対しても、満場一致した協力を見せることはなく常に警戒心を持っています。
二人はそういった政治的力学を有効に利用して、勢力を強めてもいったのです。
アウグストゥスとアントニウスの敵対
アウグストゥスはアントニウス対策のための軍を作り上げ、アントニウスはローマから逃げ出して勢力を固めるようになります。
アウグストゥスは大叔父であるカエサルの人気と、アントニウスへの悪評を議会で言及することで支持を集めていくことになるのです。
アントニウスの軍勢はローマにとって脅威である、アントニウスはローマ人をないがしろにしている、などという情報を流す手段であり、現在で言うところの「ネガティブ・キャンペーン」になります。
政敵の悪口を言いふらすことで支持を集めるという作戦なのです。
アウグストゥスとアントニウスの強力な味方
ローマ市民に人気のあったアウグストゥスですが、彼自身は病弱であり軍事的な才能は乏しかったのです。
大叔父カエサルは兵士たちに自ら武器の使い方を教えるような頑強な英雄でしたが、アウグストゥスにはそういった軍才には恵まれていないのです。
アウグストゥスは「アグリッパ」という武将を盟友にし、戦時などでは彼に軍の指揮を執らせることを選びます。
アグリッパは有能な将軍であったため、アウグストゥスに多くの勝利をもたらし、アウグストゥスの権力掌握に寄与したのです。
一方、アントニウスの最大の後ろ盾は、プトレマイオス朝エジプトの「クレオパトラ」になります。
クレオパトラはカエサルとのあいだに「カエサリオン」という子を作っていましたが、アントニウスとのあいだにも複数の子をもうけることになるのです。
アントニウスはローマ本国ではなく、東方のエジプト=クレオパトラと組むことで力をつけたのです。
アウグストゥスが皇帝になる
アウグストゥスとアグリッパは「アクティウムの海戦」でアントニウスとクレオパトラの軍に勝利します。
その結果、アントニウスとクレオパトラは自害することになり、カエサルの子を自称していた「カエサリオン」も殺されます。
こうして政敵を排除したアウグストゥスはローマに凱旋し、絶対的な権力を手にすることになるのです。
初代ローマ皇帝アウグストゥスの治世
アウグストゥスが元老院に権力を返還する?
ローマに戻ったアウグストゥスは元老院に権力を返還すると宣言します。
しかし、それはあくまでも建前に過ぎないものであり、アウグストゥスが元老院議会に返還した権力は有名無実化していた称号たちに過ぎないものです。
またローマは内戦の結果、政情不安のままでありゲルマン人などとの衝突も各地で起きています。
元老院議会としても政情不安を解決してくれる軍事力を伴う英雄の存在は、必要なものだったのです。
アウグストゥスは元老院に権力を一時的に変換し、元老院というローマを代表する政治機関から自らが再び「支配者」として認められて、権力を渡されるという行動を選んだのです。
こうしてアウグストゥスは実力だけなく、合法的なプロセスも経ることで「絶対的な権力」を手にしたのです。
ローマの軍事と政治を支配する初代ローマ皇帝アウグストゥスは、こうして誕生したのです。
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皇帝アウグストゥスはローマ帝国内政に尽力
皇帝となったアウグストゥスは内政に尽力します。
紀元前23年には通貨制度の改革を行い、「アウレウス金貨」「デナリウス銀貨」「セステルウス銅貨」のレートを、金貨1枚=銀貨25枚=銅貨100枚に決めます。
この通貨と制度は300年間、ローマ帝国の基軸通貨として用いられることになるのです。
またローマの防火対策・犯罪対策を充実させ、最古の消防組織を作りもします。
ローマ市民を満足させるということがローマ帝国の政治を安定させ、皇帝である自分の人気を保つことだということをアウグストゥスは理解していたのです。
権力が集中する首都であるローマの市民を満足させることが、後の皇帝たちの人気の源であり、人気があれば身の安全を保証することになります。
なおアウグストスが行った行為には、退役軍人に対する「世界初の年金制度・退職金制度」もあるのです。
皇帝アウグストゥスはローマ市民と軍隊を厚遇することで、自分の権力を安定させていきローマの内戦時代を終わらせて平和な時代を築くことになります。
ローマ軍の再編成
アントニウスとの内戦終結当時には50万人もいた兵士を20万人に削減し、30万人は帰郷もしくは植民地への入植を行わせています。
ローマ軍は28個師団16万8000人にまで兵士数を削減され、軍事費を少なくしたのです。
またローマ正規軍を補助する役割をもつ「補助兵制度」を作り出します。
これは「世襲制のローマ市民権」を退職金として与えられるシステムであり、属州の人々が国境警備の兵士として動員されたのです。
市民権をエサにして軍役を外注した形の取引であり、属州人のローマ化を促すことにもつながり、軍事費の削減にもつながるという効率的な方法になります。
アウグストゥス最大の功績は「パックスロマーナ」
大叔父カエサルの時代から続いていた古代ローマの内戦を終結させて、長期にわたる平和な時期「パックスロマーナ」を生み出した人物として、アウグストゥスは評価されています。
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アウグストゥスは8月(August)の語源
アウグストゥスは紀元8年に、それまで間違った運用をされていたユリウス暦に対しての修正を行うと共に、8月をAugustという自分の名前をつけたのです。
ユリウス暦はカエサル(ガイウス・「ユリウス」・カエサル)により、紀元前45年1月1日から運用されたものになり、7月にはカエサルの名前を語源としたJulyがつけられています。
ユリウス歴は1年を365.25日とした太陽暦です。
アウグストゥスの名言
「私はレンガの街を受け継いで、大理石の街を残した」
ギリシャ様式の建築を採用して大理石の芸術を残しています。
「私がこの人生の喜劇で自分の役を最後まで上手く演じたとは思わないかね?この芝居がお気に召したのなら、どうか拍手喝采を」
死亡寸前に友人に残した言葉として残っています。
「ゆっくり急げ」
アウグストゥスの人生のテーマです。政敵を排除したあとでも権力掌握に細かな根回しを行っています。
「私の悪口を言う者がいたとしても憤慨してはならない。満足しようではないか、我々に対して彼らは剣を向けないとうだけでも」
前半生は虐殺ばかりしていた人物ですが、妻の影響から善良でおおらかな人物になっていったともされています。
「余がこの縁組みを望むのは国家的な理由のためなのだ」
二代皇帝ティベリウスとの養子縁組を行うさいの言葉になります。
有能なティベリウスでしたが、アウグストゥスの本命は姪の息子である「ゲルマニクス」であり、ゲルマニクスが皇帝を継ぐまでの「中継ぎ」としてティベリウスを後継者に任命していたのです。
ゲルマニクスは34才の年齢で病没することになり、ティベリウスによる暗殺説も存在しています。
アウグストゥスの年表
前半生:ライバルのマルクス・アントニウスとの権力闘争
- 紀元前63年:生誕。
- 紀元前47年:神祇官に任命。
- 紀元前46年:オリンピックに参加。ヒスパニア遠征に従軍。盟友で軍事的大天才「アグリッパ」と出会う。
- 紀元前44年:カエサル暗殺。遺言で後継者に選ばれる。カエサルの宿敵である東方の国パルティア遠征を掲げて、カエサルの旧臣や軍隊を味方につける。
- 紀元前44年:ローマに帰還。ライバルである「マルクス・アントニウス」との対立が始まるが、アウグストゥスはカエサルの人気のおかげで優位に立ち回れた。
- 紀元前43年:元老院派のキケロと組み、アントニウスと対立。アントニウスはガリアへと逃亡。アウグストゥス、元老院から元老院議員に任命される。
- 紀元前43年:アウグストゥス、アントニウス、レピドゥス(アントニウスの同僚の政治家)と「第二回三頭政治」を開始する。カエサルの仇討ちのため、200人の元老院議員、2000人の騎士身分を粛正する。協力者であったキケロも殺害する。
- 紀元前42年:「フィリッピの戦い」で、カエサルを暗殺したプルトゥスとカッシウスを破る。敗北した二人は自害する。アントニウスは戦後にエジプトに移動、カエサルの愛人でもあった「クレオパトラ7世」と、彼女とカエサルの子である「カエサリオン」と出会う。
- 紀元前40年:アントニウス派の反乱。アントニウスの妻フルウィラと「ルキウス・アントニウス(アントニウスの弟)」と戦い勝利する。アウグストゥスはルキウスについた300人の元老院議員を処刑する。
戦後処理としてアウグストゥスは姉をアントニウスに嫁がせる。 - 紀元前33年:執政官となり、元老院にアントニウスとクレオパトラへの宣戦布告の決議案を提出。
- 紀元前32年:プトレマイオス朝エジプトに宣戦布告。
- 紀元前31年:「アクティウムの海戦」でアウグストゥス配下の名将アグリッパ率いる艦隊が善戦、クレオパトラがエジプトへ撤退し、アントニウスも後を追いかけ戦場を放棄。
アントニウスとクレオパトラ、自害に追い込まれる。カエサルの子を名乗るカエサリオン/プトレマイオス15世、殺害される。プトレマイオス朝エジプトが途絶える。
アントニウスの子らはアウグストゥスに養育されることになり、この血筋からカリグラ(第三代ローマ皇帝)、クラウディウス(第四代ローマ皇帝)、ネロ(第五代ローマ皇帝)などが生まれる。
こうしてライバルを破ったアウグストゥスはローマの内戦を終わらせることになります。
多くの議員を粛正し、盟友アグリッパによる軍事的勝利の連続の果てにローマ最大の権力者へとなったのです。
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後半生:アウグストゥスによる帝制ローマの始まり
- 紀元前27年:全権返上および共和制復帰宣言。元老院から治安回復と属州統治のために軍隊指揮権を渡される。権力を1度返上した後に、元老院から再び権力を渡されるという形を選び、権力を確固たるものにした。
こうして共和制ローマは終焉を迎え、帝政ローマが始まる。アウグストゥス、初代ローマ皇帝として君臨する。 - 紀元前27年~紀元前24年:ローマ帝国西方の再編にあたる。
- 紀元前22年~:ローマ帝国領東方の再編。
- 紀元前12年:盟友アグリッパ死亡。
- 紀元前7年:首都ローマを14の行政区に分割する。それぞれが持つ行政上の責任を決める。
- 紀元2年:元老院から「国家の父」という称号が与えられる。権力基盤を固めたアウグストゥスは後継者を探すようになる。
- 紀元4年:後継者候補であった孫のガイウス・カエサル死亡。
- 紀元8年:ユリウス暦の修正、そのさいに8月に自分の名前でもあるAugustをつける。またそれまで30日であった8月を31日に修正する。カエサルが語源のJuly/7月が31日であったことからの対抗心。
- 紀元14年:死亡。
まとめ
- アウグストゥスの前半生はアントニウスとの内戦
- アウグストゥスは軍事を盟友アグリッパに任せていた
- アウグストゥスは権力掌握後は内政に励む
- アウグストゥスのローマを整備し直し、消防隊なども置いた
- アウグストゥスは年金・退職金・通貨・ユリウス歴などの整備を行った
- アウグストゥスはローマの内戦を終わらせ「パックスロマーナ」を築いた
- アウグストゥスはローマ帝国初代皇帝である
アウグストゥスはローマ人らしく良くも悪くも人間味にあふれた古代史の偉人になります。
慎重な性格と、前半生の苛烈な行動、妻を得て人間性が丸くなった後半生と性格の変化が2000年前の逸話からでもよく現れています。
古代ローマをまとめたことで、ローマは文化や政治体制などを円熟させていき、そのローマを継承するようにヨーロッパの文明が発展していくのです。
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