「中国三大悪女」と呼ばれている女性たちがいます。
長い中国の歴史上で三人の悪女がそれに選ばれたのものです。
その内訳は、紀元前の漢の高祖劉邦の皇后であった「呂后(りょこう)」、中国史上唯一の女帝であった「則天武后(そくてんぶこう)」、そして清の咸豊帝の后の一人であった「西太后(せいたいごう/せいたいこう)」になります。
今回は三人目の大悪女である、「西太后」についてご紹介していきます。
長い中国の歴史において、屈指の悪人と呼ばれる彼女はどういった人物だったの、その生涯について解説していきます。
目次
西太后の生涯
西太后は満州民族のエホナラ氏族出身
清の時代、中国を支配していたのは漢民族ではなく「満州民族(女真族)」になりますが、西太后(せいたいごう/せいたいこう)はその中でもエホナラ(葉赫那拉)と呼ばれる氏族出身です。
父親は清王朝に仕えていた中堅の官僚であり、それなりに裕福な一族に西太后は生まれます。
西太后が生まれた土地は不明であり、内モンゴル説、山西省説、そして北京説などが有力候補です。
西太后の幼名は「蘭児(らんじ)」になります。
そして西太后の最終的なフルネームは「孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕配天興聖顕皇后」であり、これほど長くなってしまう理由は、彼女が出世したり、出産などの良いイベントに巡り合ったりする度に二文字ずつ足していったからです。
西太后は名前の長さが示す通りに、多くの幸運や出世を繰り返していった人物になります。
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西太后が宮廷に入る
西太后は17才のときに紫禁城で行われた皇帝(咸豊帝/かんぽうてい)の后や愛人を選ぶ試験に合格し、18才のときから後宮に入り、皇帝の妻の一人となります。
皇后=本妻ではなく、いわゆる側室(二番目以下の順位の妻)のような地位ではあったのですが、上位の妻である「東太后(とうたいごう/とうたいこう)」たちが男の子を出産することがなく、西太后が男の子(長男)を出産したため地位が向上したのです。
出世した西太后にとって、当時の中国は権力を得るための機会に満ちていました。
中国では太平天国の乱や、アヘン戦争、イギリス・フランス連合軍の戦であるアロー戦争(第二次アヘン戦争)などが立て続けに起こり、多くの戦争で清は敗北し疲弊していたのです。
西太后が権力を掌握する
アロー戦争の果てに西太后の夫である咸豊帝は死亡し、咸豊帝の後継者であり西太后の長男である「同治帝(どうちてい)」を巡り政治的な対立が起こります。
咸豊帝の遺言により、まだ5才であった同治帝の後見人の候補とされていた8人の大臣たちがいたのですが、西太后は自分が息子の後見人となることを望みました。
西太后は、東太后(咸豊帝の妻の一人)と「咸豊帝の弟」である愛新覚羅エキキンこと「恭親王(きょうしんのう)」と手を結び、クーデターを起こします。
咸豊帝の棺が運ばれている最中に起きたクーデターであり、これに西太后は成功したのです。
後見人候補たちを次々と処刑していくことで、1861年「辛酉政変(しんゆうせいへん)」により権力掌握に成功します。
皇帝になる5才の息子を手に入れるために、「夫の本妻であり息子の育ての母親」(生みの母と育ての母が違う風習であり、東太后は同治帝の育ての母親)と、「夫の弟」と手を組んだクーデターだったのです。
西太后がより権力を強めていく
幼い同治帝が皇帝として即位したあと、同治帝と3人の後見人による政治が始まります。
西太后、東太后、恭親王の3人が政治の実権を握っていた立場にありましたが、東太后は政治に関心がなく、実質は西太后と恭親王の2人による政治です。
1874年に14才になった同治帝は、西太后と恭親王から独立して自らの政治を始めようとしましたが、若くして死亡します。
同治帝の死亡した原因には、梅毒と天然痘が候補です。
同治帝は幼く、後継者である子供を持っていなかったため、このまま他の皇族が帝位を継承することになれば西太后の権力は低下します。
西太后の権力は「皇帝の母親」だからこそ振るうことが出来たのです。
西太后は権力の低下を防ぐために、自分の妹の子供である「光緒帝(こうしょてい)」を次の皇帝に選びます。
こうして西太后と東太后は、西太后の甥っ子の後見人となることで権力を維持したのです。
西太后と東太后の仲は良好であったとも伝わりますが、1881年には東太后は脳卒中で亡くなります。
当時は西太后による暗殺説が出たものの、東太后に政治的な興味はなかったため、ただの病死であろうと現在は考えられているのです。
また1884年に起きた清仏戦争の敗戦の責任を、恭親王に取らせることで政治の世界から追放します。
こうして、西太后、東太后、恭親王が掌握していた権力は、西太后だけのものとなったのです。
西太后と頤和園と日清戦争
甥でもある光緒帝に、西太后は自分の姪を嫁がせるなどして権力を確保していきましたが、光緒帝は大人になると西太后と対立するようになっていきます。
西太后は内政を掌握する一方で、西洋風の技術革新を目指した「洋務運動(ようむうんどう)」を官僚たちに行わせて、それなりに効果を上げて清朝の威信を回復する時期もあったのです。
しかし、1895年の日清戦争の敗戦により洋務運動は挫折します。
日清戦争の敗因のひとつは、最新鋭の艦隊をそろえてはいましたが、予算不足から練習などが行えず成熟した海軍とは呼べなかったからです。
予算不足の原因には北京にある広大な庭園、「頤和園(いわえん)」の再建工事に日清戦争の費用の3倍がかかり、西太后の還暦祝いのパーティーに日清戦争の費用の2倍が注ぎ込まれていたからという説もあります。
西太后は頤和園などの庭園の整備に執心しており、お気に入りの宦官(かんがん)が海軍の経費を頤和園の整備に流用することを止めてくれと進言したところ、彼のことを処刑しているのです。
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西太后と光緒帝
光緒帝は日清戦争の敗北により洋務運動を見直し、西洋の技術だけでなく、政治体制なども西洋化を目指すのだという政策を打ち出します。
光緒帝の改革は急進的であったため、西太后を支持する保守的な官僚たちや、光緒帝自身の重臣たちからも反対意見が出始めていくのです。
役人たちの不満に推される形で、西太后は再び権力を掌握しようと動き始めます。
西太后の動きに対抗するために、光緒帝は有力軍閥のリーダーである「袁世凱(えんせいがい)」を味方に引き入れたのです。
袁世凱は革新派が西太后を捕らえ、西太后の腹心を暗殺しようとしている計画を聞きます。
袁世凱はこの暗殺が失敗すると考え、光緒帝を裏切って西太后にこの計画を伝えて自分の身の安全を確保したのです。
西太后は怒り、クーデターを実行、主要メンバーを処刑し(一部は日本に亡命する=日本に逃げた)、光緒帝を幽閉して再び権力の座に返り咲きます。
西太后と光緒帝暗殺
「海外かぶれ」の光緒帝に殺されかけた西太后は、海外勢力に対して攻撃的になります。
1900年に義和団の乱が起こると、外国人やキリスト教徒を排斥する彼らのことを西太后や清朝政府は黙認し、この機運に乗じて外国勢力を中国から追い出すために清朝も動くべきだという意見が生まれたのです。
諸外国に対して西太后は宣戦を布告、戦いを挑みますが、諸外国は八カ国連合軍を結成して北京に迫ります。
西太后は側近と一緒に北京を脱出しますが、このとき光緒帝の妻である珍妃(ちんぴ)を井戸に投げ捨てて殺害しているのです。
珍姫は西太后に北京に残って八カ国連合軍と和平交渉(事実上の降伏)することを望んでいましたが、西太后はそれを政治的に悪手だと判断したのかもしれません。
海外勢力からの傀儡(かいらい/言いなりの意)になる危険もあった「海外かぶれ」の光緒帝に力を与えることを嫌った可能性があります。
西洋化を進めようと目論んだ「海外かぶれ」の光緒帝は、当然ながら海外勢力から支持されていたのです。
西太后からすれば、光緒帝も海外勢力も同じように清王朝の伝統を破壊する外敵でした。
しかし、義和団の乱が終結したのち、中国全土には半植民地のような地域がますます拡大していったのです。
そして民衆には西洋化の必要性を訴える知識人が増えていき、西太后もその流れに乗るような形で政治改革に着手します。
西太后は「立憲君主制への移行」、「科挙の廃止を含む教育改革」、「新たな軍の建設」、「商業の奨励(儒教の価値観においては商業は悪でした)」を計画したのです。
これは光緒帝が目指した改革案とほとんど同じようなものでしたが、西太后はますます衰退してしまった清朝の延命を必死にはかろうとしました。
1908年、西太后は光緒帝を暗殺した翌日に死亡します。
光緒帝の遺体からは近年の研究でヒ素が発見されているため、毒殺されたと考えられていまるのです。
※なお西太后ではなく、袁世凱が毒殺したのではないかという説もあります。
西太后は死ぬ直前に「愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)」を、清国の第12代皇帝に任命したのです。
愛新覚羅溥儀は光緒帝の弟と、西太后の腹心の部下の娘のあいだに生まれた子であり、清国最後にして、中国王朝最後の皇帝となり「ラスト・エンペラー」とも呼ばれます。
2才10か月で帝位に就きましたが、その4年後には辛亥革命により清朝は滅亡することになるのです。
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西太后は中国三大悪女の一人
西太后は中国三大悪女
西太后の政治的野心に満ちた人生は、多くの政治的ライバルを処刑し、クーデターを起こして甥である光緒帝を捕らえたり、指導者として多くの戦争を行うも敗北したり、軍費を庭園の改築に使うなど悪評が立ちそうなイベントに満ちています。
日清戦争の費用総額の二倍を超えた誕生パーティーは適切な政治費用だったのかにも、大きな疑問は生まれてもおかしくはありません。
そして、西太后が事実上、中国王朝時代を終わらせたこと(そういう時代に生まれてしまっただけなのかもしれません)、中国には珍しい女性の政治的指導者であったことも悪女と呼ばれる原因です。
三大悪女には紀元前の漢の高祖劉邦の皇后であった「呂后(りょこう)」、中国史上唯一の女帝であった「則天武后(そくてんぶこう)」も並びます。
男尊女卑の世界観においては、女性が権力を持った時点だけでも悪評が立つこともあるのです。
また三大悪女には殷王朝を破滅させたと伝わる「妲己(だっき)」も含まれることがあります。
西太后の三大悪女としての悪行
西太后は自分の権力を奪おうとする人物に対しては、とても狂暴な側面を持っています。
- 息子である同治帝の后「阿魯特氏」を、同治帝の死後に殺している。
- 海軍への軍事費を庭園づくりに流入することに文句をつけてきた宦官を処刑している。
- 光緒帝に親政(西太后に任せるのではなく自分で政治をすること)をしろと促した珍妃を北京から退避するときに井戸に投げて殺害する。
- ヒ素で甥である光緒帝を暗殺する。
西太后は自身の権力を奪うことにつながりかねない人物には、非情で残酷な行為をしてきた女性です。
西太后にまつわる嘘
西太后は「悪女」としてのイメージが先行し、数多くの創作物や根拠のない噂が西太后の架空の悪行を作り出しています。
- 咸豊帝の寵愛を受けていた「麗妃」の手足を切り落として大きな壺に入れた。※創作物が作ったエピソードに過ぎません。
- 下級役人の娘あるいは貧乏な家に生まれた。※本当は、それなりに身分の高い官僚の家の娘です。
- エホナラの呪いのせいで国が滅びた。
※エホナラ氏族が満州民族に統合されるとき、殺害された氏族の長がエホナラの娘を王妃に選べば、国が亡ぶと呪ったと伝わる俗説が「エホナラの呪い」です。
史実には見られない民間に伝わる物語であり、そもそも西太后以前にも多くのエホナラ氏族の娘たちが皇帝に嫁いでいます。
西太后の意外な人物像
西太后は面倒見がいい
西太后は息子の妻を殺したり、甥の愛人を殺したり、甥を毒殺したりしましたが、かつてのライバルであった咸豊帝の側室たちに危害を加えることはなかったのです。
西太后は東太后と共に、夫の妻の一人であり上述の「麗妃(れいひ)」も手足を切られることもなく静かに後宮で余生を過ごし、やがて公式な墓に埋葬されています。
そして、麗妃の娘(咸豊帝の唯一の娘)である「栄安固倫公主(えいあんこりんこうしゅ)」のことを可愛がり、「公主」という高い称号を与えてもいるのです。
政治的なライバルでもあった恭親王の娘たちを養女として育て、彼女たちにも地位の高い称号を与えています。
西太后は美人
当時の文化としては化粧することは珍しかったのですが西太后は化粧が好きで、満州民族にはなかった髪を洗うという文化も自身の生活に取り入れているのです。
また西洋文化と政治的に激しく対立した時期もありますが、西洋の技術を取り入れようという政治方針は治世の長い時間において一般的に見られもします。
西太后はカメラで撮影されることを好み、そのため多くの写真が今にも残されているのです。
ときには観音さまの衣装を着て、部下たちと共に一緒に写真に写ったものも残されています。
一種のコスプレともいえるものです。
西太后は「指甲套」という付け爪を愛用しています。
これは長く美しい飾りの爪であり、身分の高い女性しか付けられないものです。
また西太后は纏足をしておらず、その理由は漢民族ではなく満州民族だからになります。
西太后は皇帝の后に選ばれるほどに美しく、美への意識も強かった人物です。
宝石による美顔ローラーや美肌効果のあると伝わる薬草の数々、さらには若さを保つために毎日のように母乳(乳母を雇って出させていた)を飲んでいたとも伝わります。
西太后の食事は中国の宮廷料理の贅を尽くしたものであり、百種類以上の料理が作られていたのです。
美と健康を求めた彼女は70才を過ぎても、40才のような肌をしていたと伝わります。
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まとめ
- 西太后は中国三大悪女の一人。
- 西太后は満州民族の一グループであるエホナラ氏族出身。
- 西太后は咸豊帝に嫁いで、長男を産んだことで権力を得る。
- 西太后は東太后(息子の育ての母)と恭親王(息子の叔父)と組み、息子・同治帝を使って権力を得た。
- 西太后は息子が死んだあとは、甥である光緒帝を皇帝にして権力を維持した。
- 西太后は技術革新を望んだ。
- 光緒帝は技術革新だけでなく、幅広い西欧化を望んだ。
- 西太后と光緒帝は対立して、光緒帝はヒ素で暗殺された。
- 西太后は自分の傀儡である皇帝たちの后や愛人、自分のお気に入りの宦官を殺している。
- 西太后は善良なエピソードもあり、後宮の女性たちについて面倒見がいい。
- 西太后は纏足しておらず、美の追求に余念がなかった。
西太后は人気のない人物ですが、実際のところ彼女の政治により中国は近代化を本格的に推し進めていくことになります。
動乱の時代に生まれましたが、天寿を全うして権力を維持した保守的な女性リーダーという稀有な人物です。
日本も含め列強の国々に侵略されながらも、彼女が生存していた時期に清朝は滅びなかったことを考えれば、政治的なリーダーシップの高い人物なのかもしれません。
西太后は清朝最後の守護者として、宮廷文化や清朝の哲学を全うした気高い人物でもあります。
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