江戸幕府が終わりを告げ新しい日本が生まれました。
明治政府です。政府は強い日本を作るために大改革をしようとします。
そのメンバーは天皇を中心とし、大久保利通や岩倉具視、西郷隆盛などの幕府を倒した薩摩藩や長州藩の出身者でした。
そして彼らは政府高官や留学生を連れた総勢107名もの大使節団で欧米各地へ向かうのでした。
ここでは岩倉使節団と呼ばれたその大使節団はどういうものだったのか、またその目的や、ビスマルクとの関係について解説して行きます。
目次
岩倉使節団
岩倉使節団とは
岩倉使節団とは、明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年9月13日)までの約1年10ヶ月もの間、アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国に派遣された使節団のことです。
リーダーは当時外務卿であった岩倉具視でした。
この使節団は、米国の蒸気船「アメリカ号」で107名の大人数が横浜港を出発しました。
アメリカから欧州へ
アメリカ・サンフランシスコからアメリカ大陸を横断し、ワシントンD.C.を訪問し8ヶ月もの間アメリカに滞在していました。
その後アメリカ傘下のイギリスの海運会社キュナード社の蒸気船「オリムパス号」に乗船して、1872年8月イギリスのリバプールに到着しました。
ロンドンからマンチェスターを経てスコットランドに行きグラスゴーやエディンバラを訪れ、再度イギリスに戻った一行はニューカッスル、ボルトン・アビー、ソルテア、バーミンガムなどの各地を訪れました。
ロンドンに戻ると1872年12月5日にはウィンザー城でヴィクトリア女王にも謁見しています。
1873年3月15日にはドイツの宰相ビスマルクが主宰する官邸晩餐会にも参加しました。
ヨーロッパでの滞在期間は、イギリスに4か月、フランスに2か月、ベルギー・オランダ・ドイツに3週間、ロシアに2週間滞在したほか、デンマークやスウェーデン、イタリア、オーストリア、スイスなど十数ヶ国にも上りました。
帰途
帰路は地中海からスエズ運河を通り、紅海を経てアジア各地にあるヨーロッパの植民地である、セイロンやシンガポール、サイゴン、香港、上海等へも訪問しました。
一行は予定より大きく遅れて1873年9月13日に太平洋郵船の「ゴールデンエイジ号」で横浜港に戻ってきたのでした。
使節団の目的
岩倉使節団はただ海外を見て歩いた訳ではありません。
ではなぜこのような大所帯で外国に出て行ったのでしょうか。
友好親善
第一の目的は外国との友好親善にありました。
古い江戸時代から新しい明治政府に生まれ変わった日本を知ってもらうために訪ねた国々の元首に国書を提出することでした。
条約の改正
日本が江戸時代後期に欧米15ヶ国と締結していた、外国人の治外法権などの不平等な条約を改正するための予備交渉が主な目的としてありました。
しかし、この交渉は日本側の法整備等が整っていないため不成功に終わってしまいます。
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欧米の文明の調査
新政府に生まれ変わった日本は欧米諸国の制度や文明の調査をする必要がありました。
オーストリアを訪れた時は、ウィーン万博博覧会も視察しています。
派遣されたメンバーたち
この視察団は特命全権大使の岩倉具視や副使として木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳ら政府を代表する使節46名と随員18名、留学生43名の計107名でした。
使節は薩長出身者が中心で、書記官などには旧幕臣から選ばれていました。
留学生のほとんどは士族でしたが、清水谷公考(しみずだに きんなる)など公家出身者もいました。
後に自由民権運動の指導者になる中江兆民はイギリスに留学しました。
また津田塾大学の創始者で、新しい五千円札の顔となる津田梅子もアメリカに留学しています。
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随行者の中には、同志社大学の創設者の新島襄もいました。
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この使節団は、多くの教育者や政治家を誕生させたのでした。
ビスマルクの影響
岩倉使節団は1873年3月にビスマルクから晩餐会に招かれました。
ビスマルクは数々の戦いに勝ち、ドイツ統一を果たした人です。
そのビスマルクが使節団に向けてスピーチをしました。
「日本は不平等な条約の改正を目指しているようだが、弱い国が何を言っても意味がない。まず日本に必要なのは富国強兵である。」
この言葉は使節団の面々にとって非常に衝撃的でした。
感銘を受けた大久保利通は日本にいる西郷隆盛に宛てて書いた手紙にビスマルクのことを大先生だと綴っています。
使節団の帰国後、日本はドイツ式の軍備を敷き、国力をつけ、「日清戦争」や「日露戦争」へと進んでゆくのでした。
使節団の成果
岩倉使節団の目的から見ると、諸外国との友好親善はまあまあうまくいったと言えるでしょう。
そして欧米の教育や文化を取り入れることにも成功しています。
ただ不平等条約の改正には失敗したとしか思えません。
生まれたばかりの新政府を何もかもがまだ不整備な時に、大国の各国が認めるのは時期尚早だったと言えるでしょう。
留守政府
新政府になって間もない頃、国を代表する岩倉具視や大久保利通などが日本を留守にしました。
その間留守政府は廃藩置県の後始末をしました。その留守政府には太政大臣三条実美を筆頭として、西郷隆盛や大隈重信らがいたのです。
岩倉使節団が帰国すると、留守政府との衝突も起きます。
西洋の考えを最重要視する使節団が東洋のいいところをも捨てようとしているのではないかと、西郷隆盛は感じたのでした。
これが元となり、西郷隆盛は政府から離れてゆくのでした。
欧米の進んだ文化を取り入れようとした岩倉使節団でしたが、新政府の中では違う考えもあったのです。
まとめ
107名という大勢の人たちが海を渡り世界のいろいろな文化や政治を見てきました。国内での反論もありましたが、実際に大国をあちらこちらみてきた岩倉具視らには、その発展ぶりは驚愕するものがあったのです。
そしてそれによって日本は大きく変わってゆくのでした。
教育の面でも政治の面でも、日本は新しい時代に入っていきました。
ビスマルクの言ったような「強い日本」にも成長して行ったのでした。
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