奈良時代は朝廷の仏教政策が盛んに行われた時代であり、日本の仏教の基礎がこの時代に造られていきます。
さて、そんな日本仏教が確立していく時代に活躍した高僧が行基です。
今回は、行基の人生と、彼が成し遂げたことをご紹介いたします。
同時代に活躍した鑑真との比較や、相違点なども解説していきます。
行基はどのような活動をしていたのか
行基は三蔵法師(玄奘)の孫弟子にあたる
668年、河内国大鳥郡(現在の大阪府堺市)で行基は生まれます。
15才で出家して、かつて唐の国で玄奘から教えを学んだ道昭(どうしょう)を師とすることになります。
西遊記の三蔵法師のモデルとなったことでも有名な玄奘ですが、行基はその玄奘の孫弟子にもなるわけです。
行基の師である道昭は、天武天皇の勅命で往生院という寺を建てたりもしています。
井戸を掘ったり、港や川などに船を配備したり、晩年は全国各地を旅して回り、土木事業を行ってもいます。
そういった方針は、行基にも受け継がれていくことになるのです。
行基は40代後半から布教活動を始める
長らくの修行の日々の後に、故郷に戻った行基でしたが、故郷で思索を深めた行基は新しいスタイルの仏教活動を行い始めます。
奈良時代における仏教の考え方は、僧侶は寺にこもり、仏が国家を守ってくれるように祈り続けるというものが一般的なものなのです。
しかし、行基は寺にとどまることはなく、町に出て、民衆に対して直接、布教活動を行っていくようになります。
布教活動だけでなく、行基は、兵役などを課せられて、都に向かう途中で行き倒れる貧しい人々を救うために、「布施屋(ふせや)」と呼ばれる建物を作り始めたのです。
布施屋は貧しい人々に宿と食料を与えるという建物であり、困っている旅人は助けるという仏教の教えに即した存在でもあります。
行基は師と同様に、宗教活動だけでなく、橋を架けたり道路を整備したり、新しく田畑を開墾したりという土木工事を行うようになっていきました。
世の中の人々を救うという、大乗仏教的な行いを行基は始めたのです。
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行基は民衆の支持を集めていき朝廷から弾圧される
貧しい人々を直接的に救うという、その新しい仏教のスタイルには多くの賛同者が集まり始まっていきます。
しかし、行基のその新しいスタイルの仏教活動を、朝廷は妖しげなものとして、警戒心を強めていくことになるのです。
民衆の支持を集める行基が、自分たちの政治的な安定を脅かすかもしれないと考え始めて、弾圧を開始することになります。
「小僧の行基と弟子たちが、道路に乱れ出てみだりに罪福を説いて、家々を説教して回り、偽りの聖の道と称して人民を妖惑している」
とまで言い放ち、弾圧したのです。
僧侶の活動に制限を与えていた僧尼令に反すると処分されたのは、奈良時代では行基だけだったのです。
しかし、還俗(僧侶を止めさせられて一般人に戻ること。僧尼令ではその後、律令制のもと一般人として裁きにかけるという仕組み)をさせられることもなかったので、行基の民衆からの支持は、かなり大きかったようです。
行基は行基集団を結成する
弾圧は本格化していきましたが、それでも行基は支持を失うこともなく、己の道を突き進むことになります。
やがて、行基の周りに人材が集まることで、行基集団と呼ばれる組織が結成されるようになったのです。
行基集団は出家した僧侶だけでなく、地方の豪族や一般人など、さまざまな人物が参加している、およそ千人規模からなる集団となります。
行基集団は土木建築に特化した才能を見せ、資材確保の専門家や、職人たちの手配を行う役割を持つ者、さらには設計を担当する者などを決めており、かなり洗練されたシステムのもとに統率されていたようです。
彼らの建築技術の高度さを物語るものに、2年間のあいだで15の寺院を建造したというものもあります。
布教活動や僧侶としての仕事だけでなく、多くの土木事業による社会貢献をこなせたのには、行基集団の建築能力の高さがそこにあったわけです。
行基が聖武天皇の依頼で大仏を建造する
行基の行いが認められ始める
貧者救済に始まり、橋や道路などの交通インフラの整備、さらには田畑の開墾まで行っていた行基に民衆の支持は集まりつづけます。
そして、朝廷からしても、行基が行っていた田畑の開墾は好都合なことでもあったのです。
723年には開墾した土地の所有を三代あるいは一代のあいだ認める、「三世一身の法」が発布されています。
人口増や辺境での国防費の増加に伴い、朝廷は財源も食料も足りていなかったという状況のため、田畑の開墾を行う行基集団の活動は、じつのところ朝廷の政策とも一致していたのです。
政策にも利用出来て、民衆の人気も高い行基を、朝廷は敵ではなく味方として取り込むことを選びます。
行基の活動は、国家を転覆させるような行いではないのだと認識をあらためられて、徐々に公的にも認められていくことになります。
行基が聖武天皇から大仏建造を依頼される
743年、公的にも民衆からも認められた行基に対して、聖武天皇は大仏建造を依頼することになります。
東大寺の大仏の建造です。
大仏建造には多額の資金が必要だったため、聖武天皇は寄付を募る詔を出し、行基(当時70代後半)も全国を旅してまわり、寄付金を募ることになります。
行基が大僧正の位を授かる
745年、行基は大僧正という位を授けられます。
日本初の大僧正であり、それまでは無かった位です。
つまりは行基のために作られた位といっても過言ではないものであり、それだけ行基という僧侶の行いが尊く、人々のためになって来たのだという証でもあります。
日本仏教界の異端者でもあった行基は、ついに最高の僧侶であると認められたのです。
大仏が完成したのは行基の死後
749年に、行基は82才で亡くなります。
行基の指揮していた大仏造りは、彼の死後である752年に完成することになるのです。
行基と鑑真
鑑真は何をした人物なのか?
行基と同時期に活躍したのが、鑑真です。
日本への渡来を5回も失敗したのに、あきらめることなく、最終的には日本に渡って来た高僧です。
そのエピソードのほうが有名かもしれませんが、鑑真が日本仏教において果たした役割は非常に重要なものとなります。
鑑真は僧侶という位を授けるために必要な、授戒制度を完成させた人物です。
鑑真に「授戒」制度の確立を求めた
仏教において、新たな僧侶を誕生させるためには、10人の僧侶の前で儀式を行う「授戒」という儀式が必要とされています。
しかし、8世紀前半の日本では、授戒が制度化されてはいなかったのです。
授戒の制度化を望む日本の僧侶からの要請を受けたのが中国の高僧である鑑真です。
鑑真は、弟子に「日本へ行きたい者はいるか?」と問いかけましたが、命が危険に晒される船旅を経ての日本行きに、誰もそれを望む者は現れなかったのです。
そこで、鑑真は自身が日本へと行き、日本の僧侶たちの要請に応えると宣言します。
当時、54才のことです。
名誉も地位もある鑑真は、旅の危険も顧みず、仏教の発展のために身を捧げることを誓ったのです。
鑑真は五度日本への渡航を失敗する
中国の高僧である鑑真ですから、人材の流失を惜しむ声は弟子や役人から上がります。
そして、海上の暴風にも遭遇することにもなり、日本への渡航は五度も失敗します。
754年1月9日、六度の挑戦の結果、鑑真の来日は成功したのです。
742年に要請を受けてから、十年以上も経ってのことです。
鑑真が戒律を確立する
その後、鑑真は授戒を制度化した戒律制度を日本に広めていきます。
こうして、日本仏教にも正式な授戒によって僧侶が誕生することになったのです。
なお、高僧である鑑真は彫刻、薬草の知識も豊富であり、孤児院を作ったり貧民救済にも奔走することになります。
社会福祉への参加は、鑑真と行基に似た部分です。
鑑真は、763年に亡くなります。
行基と鑑真の比較
行基と鑑真の共通している部分
- 奈良時代に活躍した高僧である。
- 寺院にこもらずアクティブに活動した。
- 共に貧民救済に積極的であった。
- 宗教家として以外の社会貢献も多くあった。
行基と鑑真を間違いやすい部分
- 行基は日本人(父方が朝鮮系渡来人の家系)であり、鑑真は中国人である。
- 行基は大仏を作った人物であり、鑑真は戒律を与えた人物である。
- 行基は日本の朝廷に弾圧された時期があり、鑑真は中国の役人たちから人材流失を懸念して日本渡航を妨害された。
行基と鑑真の年表
行基
- 668年 出生
- 682年 出家
- 707年 本格的に布教活動を開始し、土木事業を開始、行基集団を結成して
いく - 717年 詔まで出されて弾圧が本格化
- 743年 聖武天皇から大仏建造への協力を依頼
- 745年 大僧正になる
- 749年 死没
鑑真
- 688年 出生
- 742年 日本から高僧来日の要請、自分が名乗り出る
- 743年 一回目の渡航失敗
- 744年 二回目、三回目、四回目の渡航失敗
- 748年 再び来日するよう懇願される。同年、五回目の渡航失敗、
べトナム近くの海南島に流され、医薬の知識を広める - 751年 精神的・肉体的疲労および南方の気候にやられ、両目を失明
- 753年 来日要請
- 754年 六度目の挑戦で日本渡航に成功し、戒律制度を確立する。
以後、宗教活動のみならず孤児院の設立など社会貢献も多々行う - 763年 死没
まとめ
- 行基は三蔵法師の孫弟子
- 行基は日本仏教の改革者であり、民衆の救済に乗り出した
- 行基は朝廷から激しく弾圧された
- 行基は行基集団を結成し、道路、橋、寺、貧困対策、田畑の開拓を行った
- 行基は日本初の大僧正である
- 行基は大仏建造に貢献した
- 鑑真は日本に渡来して、戒律制度を伝えた
日本仏教の改革者である行基は、日本仏教のスタイルを大きく変えた人物です。
宗教界のみならず、その影響は土木建築の技術を用いることで、多くの貧しい人々を救済することになります。
一方、鑑真もまた日本仏教の完成に大きな尽力した人物です。
この二人の改革者がいなければ、日本仏教の発展や、その役割の大きさは、低いものとなっていたかもしれないのです。
歴史上の偉人たちの存在が、ちょっとずつ世の中を変えて行ったことが、二人の高僧の尽力から読み取れます。
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