宗教には多くの宗派があるものです。
世界人口の⅓が加入している最大手の宗教であるキリスト教にも、数多くの違いが存在します。
今回はキリスト教のなかでもプロテスタントを中心に解説していきます。
キリスト教を大きく分けると?
西方教会と東方教会に分かれる
キリスト教は大きく分ければ西方教会と東方教会に別れます。
古くからローマ帝国の国教であったキリスト教でしたが、ローマ帝国は東西に別れてしまいます。
イタリアを中心とした西ローマと、そこから東にあるということでギリシャを中心にした東ローマです。
キリスト教もイタリア風とギリシャ風に分かれていき、11世紀に西方教会と東方教会に別れていきます。
西方教会はローマ・カトリックになり西ヨーロッパを中心に広まっていき、東方教会はギリシャや東ヨーロッパにギリシャ正教などの東方正教会として広まっていくことになります。
プロテスタントはこれらのうちの西方教会=ローマ・カトリックから分かれた新しいキリスト教になるのです。
キリスト教の宗派別の人口
キリスト教の宗派で最も多い宗派はカトリックになります。
世界全体では12.4億人であり、ヨーロッパ、ラテンアメリカ、アジア全域などでカトリックの信者は多くなります。
プロテスタントの世界人口は5.5億人となり、アフリカやオセアニアで北アメリカなどでカトリックに迫るような割合で存在します。
東方正教会は世界的な分布はそれほどではないものの、東ヨーロッパを中心に盛んであり(ヨーロッパのキリスト教徒だけでは⅓以上になり、ヨーロッパのプロテスタントよりも多い)、2.8億人です。
なおアメリカでは無神論者に続きカトリック、プロテスタントの信徒が多くなりますが、カトリックやプロテスタントに分類されにくい新興のキリスト教の宗派も数多くあります。
現在のキリスト教の宗派ではカトリックが最も多く、プロテスタントがそれに次いで多いことになるわけです。
プロテスタントとは何か
プロテスタントの始まりや意味
中世ヨーロッパにおいて西方教会=ローマ・カトリックの支配は強く、聖職者などが諸侯や王などに口出しが出来るほどの地位にいました。
カトリックは信者を獲得するために宗教絵画や荘厳で巨大な教会を建てるようになります。
王族や貴族、石工の組合などとも結束することにより、精神的な世の中の支えであるだけでなく、社会の経済や政治力も支配するようになっていったのです。
カトリックは大きな発展を見せていましたが、それに反対する考え方を持つキリスト教徒が増えていきます。
16世紀にマルティン・ルターなどは、大きな組織となり過ぎた中世カトリックよりも、キリスト教の原典である聖書を中心にした形に、当時のカトリックを変えようと行動します。
その宗教的な動きには政治的な支配者である各国の王や有力諸侯なども追従する形になり、大きな宗教的・政治的な闘争を招くことになるのです。
「プロテスタント(抗議者)」の名称は、当時のドイツの支配者でありカトリック教徒でもある神聖ローマ帝国皇帝カール5世に抗議文を送ったことでつけられました。
ちなみに、現在でも英語圏で反対運動のデモなどが起きると「protest」という英単語が用いられています。
プロテスタントの主張:福音主義
プロテスタントたちの宗教改革は、具体的には何を求めていたのでしょうか?
政治的な権力闘争などを除けば、彼らの主張は「福音主義(ふくいんしゅぎ)」というものが最大の目的となります。
福音主義とは「聖書」をキリスト教の行動方針の中心にしようとしたものです。
当時のカトリックには聖書に記述されていない様々な儀式や価値観が多くあったのです。
古代ローマの時代から続いているカトリックは、その長い歴史のあいだに聖書以外にも多くの要素を信仰に取り入れます。
聖母マリアや各国の聖人たちへの信仰や(聖書以降のキリスト教の殉教者たちへの信仰)、免罪符などの金で買える救済などは、プロテスタントからすると聖書に記述がない行いであり、批判の対象でした。
プロテスタントは聖書を中心にした宗教にキリスト教を改革したいと望み、カトリックの教会中心・聖職者中心であった宗教からの脱却を目指します。
プロテスタントの特徴は、カトリックや教会機構に反発し、聖書のみが最大の権威であることを強く主張していることなのです。
プロテスタントの教義
プロテスタントは世界規模の教会組織がないため、プロテスタントの全員を統括するような教義もありません。
それぞれのプロテスタントたちが、それぞれの信仰や主張をもって活動しています。
それもまたプロテスタントの特徴ですが、プロテスタントは聖書を中心にしていることが重要な定義のひとつです。
とくに聖書を絶対視するプロテスタントのグループを「福音派(ふくいんは)」と呼び、「聖書は誤りのない神の言葉そのもの」と信じる集団になります。
聖書の記述を現実のものとすることを目的として活動する人々です。
聖書にもとづいて行動し、信者を集め、広めていくことがプロテスタントになります。
プロテスタントには多くの宗派がある
プロテスタントは宗教改革により発生し続けるため、古いプロテスタントからも新しいプロテスタントが次々と枝分かれしています。
「信者が比較的少数の宗派が無数にある」ことも、プロテスタントの実態を示す言葉なのです。
エキュメニズムという宗派を超えた対話や協調などを目指すプロテスタントもいるため(カトリックや東方正教会も参加)、プロテスタントの多様性は広いことになります。
カトリックとは?プロテスタントとの違いは何か
伝統的なカトリック
カトリックはローマ教皇を中心にした、巨大な宗教組織でもあります。
カトリックは巨大な教会や宗教芸術の充実が特徴です。
教会を大きくしたり飾り立てたことには、カトリックの布教のスタイルが影響しています。
中世やそれ以前のカトリックではラテン語の聖書を使うことと、宗教的な儀式は神父などの聖職者が行うことが定められています。
ラテン語の聖書を読める一般庶民は少なく、そもそも有効な印刷技術のない時代では聖書を大量に印刷することも不可能です。
大きな教会を建て、教会のなかに宗教画を配置することにより、一般庶民にキリスト教の偉大さや、聖書の内容を示していたのです。
ほとんど誰も読めない聖書を手書きで書き写すよりは、高度な建築技術で作られた巨大な教会に行き、聖書の場面を絵画で理解することの方が、布教には有効なことだからになります。
カトリックの教皇
カトリック組織のトップはローマ教皇であり、ローマ教皇は初代のペトロ(キリストの十二使徒)から「使徒の権利」を受け継いで来た地位になります。
教皇はローマの最高神祇官からも伝統を引き継ぐ名前でもあり、カトリックはローマ教皇を中心にして作り上げられた巨大な組織になります。
教皇はプロテスタントからも尊敬されることはありますが、基本的にはカトリックのリーダーであり、プロテスタントとは直接的な関わりないのです。
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カトリックの儀式
カトリック教会は伝統的に7つの秘跡(サクラメント)を行います。
秘跡とは、神の恵みを実際にもたらす儀式として行われているものです。
洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、結婚になります。
それらの儀式を執り行えるのが聖職者である神父になります。
プロテスタントとカトリックの違い
プロテスタントとカトリックの違いは下記の通りです。
- カトリックの聖職者を神父、プロテスタントでは牧師である。
- カトリックの神父は結婚することができないが、プロテスタントの牧師は結婚が可能。
- カトリックは教会中心な面があり、プロテスタントは聖書中心。
- カトリックはキリスト教の伝統全般を重んじ、プロテスタントは聖書を重んじる。
- カトリックでは洗礼(正式なキリスト教徒になる儀式)は赤ちゃんの時に行い、プロテスタントでは大人になって自己の判断に基づき行う。
- カトリックの教義では信仰と行動が重んじられるが、プロテスタントでは信仰のみが救済の条件。
- カトリックではキリスト教は社会的な活動、プロテスタントではキリスト教は個人的な活動になる。
- プロテスタントは、カトリックの教皇制度や儀式などについて否定的なところもある。
両者には多くの違うところがありますが、それはカトリックが聖書のみならず伝統的な習慣として行っていたことも採用しており、プロテスタントが聖書に書いていないことはしないからになります。
マルティン・ルターによる宗教改革
カトリックの腐敗とマルティン・ルターの登場
16世紀、ドイツで宗教改革が始まります。
きっかけは教皇レオ10世が許可した免罪符です。
サン・ピエトロ大聖堂の改修を計画した教皇でしたが、あまりにも莫大な費用がかかりました。
その費用をまかなうために、レオ10世は「買えば罪が消えて天国に行ける」免罪符を高額で売りさばきます。
この免罪符が売れたのがドイツ(神聖ローマ帝国)でした。
ドイツは王であるローマ皇帝の力が弱く、またローマ皇帝はカトリックの守護者であるため、免罪符の販売を拒絶することが出来なかったのです。
免罪符の販売にルターは怒ります。
ルターはこの免罪符に対して、「聖書に書いていない」という理由を使い反対したのです。
ルターは「聖書に書いてある信仰のみを行えば救われるのだ」と説き、それがプロテスタントの考え方の源流になります。
ドイツの混乱
ルターに対して、ドイツの支配者であるローマ教皇は破門、神聖ローマ皇帝カール5世は追放を宣言します。
そんなルターを支援したのがザクセン選帝侯フリードリヒ3世であり、ルターは彼の城内に保護されることになるのです。
フリードリヒ3世がルターを保護した理由は、カール5世とライバルだったからになります。
ルターはフリードリヒ3世に保護された状況で、これまでラテン語でしか書かれていなかった新訳聖書のドイツ語訳を完成させます。
新約聖書がドイツ語に訳されたことでドイツの内部で聖書が広く読まれるようになり、カトリックの行いが聖書に書かれてはいなかったことを多くの民衆が知ることになるのです。
ドイツの混乱は深まり、農民たちの反乱がルターの宗教改革を支持することもありました(ドイツ農民戦争)。
しかしルターはザクセン選帝侯の保護を受けていたこともあり、当初は農民たちを心配してはいましたが、最終的に路線変更をして農民たちの反乱を否定します。
農民たちを殺すことまで推奨する文章を残しているほどです。
その後、農民のルターの支持者は減りましたが、農民の反乱に頭を悩まされていたドイツの諸侯はルターを大いに歓迎し、ルターの考え方=プロテスタントを支持する諸侯らが増えていくことになるのです。
宗教改革にも政治的・経済的な後ろ盾が必要であり、宗教改革そのものも政争の道具として使われてもいたのです。
ドイツの混乱は深まり、カトリックの教会の破壊も行われます。
ドイツの宗教改革の結果
この混乱の裏では、カール5世はフランスのフランソワ1世とイタリアの支配を巡って争うイタリア戦争(1494~1559)を行っていました。
さらにはオスマン帝国スレイマン1世がハンガリーを征服して、神聖ローマ帝国に迫ってきます。
国内の混乱に、フランスとオスマン帝国との戦争を同時に行うことに苦慮したカール5世は、ルター派とのあいだに妥協を結ぶようになるのです。
ドイツ国内のそれぞれの諸侯が支配する土地では、プロテスタントかカトリックであることを領主である諸侯が選べるようになります。
諸侯はこれまでとは異なり、教会からの介入を受けることなく(宗派を選択できるので諸侯に逆らいそうな教会なら好きなほうに変えられる)、自分の領地を完全に支配できるようになったのです。
その結果、諸侯たちが力を増していき、その反対に神聖ローマ帝国における皇帝の権威は低くなっていきます。
ルターは賛美歌を推奨した
初期のプロテスタントにも多くの考えがあり、教会を破壊したり聖遺物を否定したりもしています。
多くの宗教改革者がいたため、プロテスタントは初期の状況から意見集約が完璧だったわけではないのです。
教会や聖遺物という「偶像」を拒んでいたため、またカトリック教会の聖歌隊はカトリック教会が選んだ専門の歌い手たちで構成されていたこともあり、初期のプロテスタントの中には賛美歌をも否定した集団もいたのです。
しかしルターは民衆が信仰に触れ合いやすいという理由から賛美歌を推奨していました。
ルターが自ら作曲した賛美歌もあるほどであり、彼の作品のなかには「神はわがやぐら」や「深き悩みの淵より」などがあるのです。
まとめ
- プロテスタントはカトリックを宗教改革して出来た
- プロテスタントはカトリックに次いで多いキリスト教の宗派
- プロテスタントは聖書を重視し、カトリックは伝統も重視する
- プロテスタント内部の宗派は無数にある
- プロテスタントの聖職者は牧師、カトリックは神父
- ローマ教皇はカトリックの最高権力者
- プロテスタントは16世紀のドイツの宗教改革で生まれる
- ルターは腐敗していた当時のカトリックを批判し、聖書重視の方針を示した
- ルターはザクセン選帝侯に保護されて新約聖書のドイツ語訳を完成させた
- ルターは賛美歌が好きだった
プロテスタントはカトリックへの批判から生まれました。
キリスト教の伝統よりも、純粋に聖書の記述を守ることを重視した宗派になります。
しかし現在のプロテスタントは、あまりにも多くの宗派・集団に別れています。
プロテスタントはそれぞれの教会の数ほど種類があるとも言われるような状況なのです。
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