高麗・李氏朝鮮王朝時代の官僚たちのことを両班(ヤンバン)と言います。
その時代において、両班たちは王族に次ぐ権力者集団として支配階級に君臨していたのです。
しかし、この朝鮮王朝独自のシステムには把握しにくいところもあります。
今回は、中世の朝鮮半島に支配階層として君臨した両班たちについてご紹介していきます。
そして、両班の対極の身分とも言える白丁との比較も行います。
両班と呼ばれた支配階層
両班という呼称の成立
高麗による国家建設が行われる際に、中国の官僚制度を参考することになります。
その結果、高麗で作り上げられたのは、文臣と武臣の二つのチームから作られる官僚制度であり、それらを「文班」と「武班」と呼称することになります。
それら「二つの班」を合わせて「両班」と呼ばれるようになったのです。
つまり本来は、朝鮮王朝の高級役人・官僚たちのことを、両班と言います。
注目すべき点は、両班とは官僚たちへの「呼び名」であり、「法律などで定義された身分ではない」ということです。
両班の条件
では両班と呼ばれた人々はどういった存在だったのか?ということになりますが、端的に言えば権力に近しい立場にあり、儒教(朱子学)を修めた人々ということが言えます。
両班という立場に至る条件には、じつのところ厳密なものはありませんが、より具体的な例を探せば、両班と呼ばれた人々の立場には、以下のものがあります。
- 王朝に貢献した代々の名家である。
- 政府高官の家系である。
- 王家と婚姻家族を持っている。
- 科挙合格者の役人・官僚である。
- 高名な学者を祖先に持っている。
- 両班に期待される、祖先を祀ることや来客への接待を行える能力がある。
- 何代にもわたって、その土地の名士として過ごして来た一族である。
- 自身が上記に該当する名家であり、妻として娶った人物の家もまた名家である。
両班の条件を平たく言えば、「儒教的な価値観におけるエリート層」と呼べる存在になるわけです。
血筋を重んじるところも多々あるものの、貴族のように必ずしも世襲するとは言えない存在であり、社会の上層に君臨していた人々に対して使われた呼称になります。
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両班になれない有力者
しかし、全ての有力者が両班と呼ばれたわけではないのです。
たとえば商人は両班と呼ばれることはありません。
儒教(朱子学)の上では、労働に対してネガティブな評価をしているため、商業活動については低い身分が行うものだとされています。
難解なことですが、商業的に成功すると両班という尊敬を得ることから遠ざかる可能性もあります。
また、三代にわたり科挙合格者を出さない場合は、両班という扱いを受けなくなる危険もあったのです。
両班の一族でありつづけるためには、商業活動を積極的に行わず、しかもお金がかかる学問修得を子供たちに行わせながら、来客があればもてなし、祭事も執り行わなければならないのです。
儒教(朱子学)の理想を体現しながら生活しつつ、両班でありつづけることも、かなり困難な行いであるように思えます。
朝鮮の両班と中国の士大夫の違い
両班と士大夫は似た立場ではある
中国は科挙制度(身分に囚われず、学力により官僚・役人になれるシステム)の発達により、科挙合格者たちが政治の中枢を担うようになると、「士大夫(したいふ)」と呼ばれる集団が確立していきます。
科挙合格者で官僚である人物たちが手を組み、貴族を追い出すような形で、新たな権力集団を構築したのです。
学力という実力で選ばれていた官僚たちは、自分たちが築いた富を使うことで、自分たちの子孫に教育を施し、科挙を合格出来るようにしていきます。
つまり、財力と科挙というシステムを用いることで、権力の世襲を事実上、実現していたわけです。
両班と共通する点が多いため、両者を同じ者とすることにも問題があるわけではないのです。
しかしながら、細かく見れば異なる点もあります。
両班と中国の士大夫の違い
両班と中国の士大夫の相違点には、身分制度への認識があります。
中国においては「生まれつきの身分などはない」という大前提があり、科挙制度による実力主義の結果で士大夫が作られたわけです。
中国では、ごく一部の賤民階級を除いて、誰にでも科挙の受験資格が与えられています。
そして、高級官僚は全て科挙合格者が担うことになるのです。
しかし、朝鮮王朝においては、人口の4割近くを占めていた賤民階級に受験資格は与えられていないのです。
さらには両班の息子だとしても、母親の身分が低い場合は受験資格を得られることはなく、高麗王朝時の豪族的な立場であった郷吏、再婚や不道徳的な行いをした女性の子孫には受験資格に制限が与えられています。
両班と中国の士大夫の違いは、身分制度に対する認識が大きいわけです。
そもそも儒教を体現しなくてはならない範囲も、個人から一族全体に及んでいるのも大きな違いと言えます。
中国においては兄が大商人、弟が高級官僚であるケースや、商人の子が官僚ということもありましたが、朝鮮王朝ではそれらはあり得ないことです。
中国では学問が出世の道具であり、教師は科挙を落第した二流の人物という評価でもありましたが、朝鮮王朝では科挙を受けることもなく学問と研究を続ける人物も多く輩出します。
そのため、学問を教える教師という立場に集まる尊敬は、中国よりもはるかに高く、高名な教師・学者の子孫もまた両班となることがあったわけです。
多くの共通点が存在していることから、両班は、朝鮮風の士大夫と言えるかもしれませんが、より正確には、朝鮮王朝独自の支配階層なのだと認識することが正しいのです。
両班が完成したのは李氏朝鮮時代
両班は李氏朝鮮時代に支配層として確立した
呼び名そのものは高麗の時代から存在していた両班ですが、当時は高麗の官僚たちを指す単語であり、高麗を倒した李氏朝鮮の新興有力者(地方の中小の地主たち)は、当初、両班という言葉を好むことはなかったのです。
「文/学問」を意味する「士」、士大夫、氏族という呼び名のほうを好んで使用しています。
しかし、時代が下るにつれて、新たに支配勢力へと出世してくる人物が増え、彼らが自分たちを両班と名乗るようになり、支配階層=両班という名称が確立していったのです。
身分制度と科挙制度が混じり合うことで生まれた、両班という複雑な支配階層が名実ともに完成することになります。
李氏朝鮮時代における両班の繁栄
事実上の貴族階級として君臨することになった両班たちには、多くの特権が与えられます。
土地がもらえる、税金を払わなくてよい、兵役につかなくてもよい、などの特権です。
下の階層からの搾取で両班は成り立ち、強い権力をもって各地域の支配者として過ごすことが可能となります。
しかし、儒学の徒であらねば両班とは呼ばれなくなるため、商業活動が出来ないという難解なルールが、両班にあたかも学業を極めていれば他にはどうでもいいというような、独特な生き方をさせていくことなるのです。
商業活動などを原動力として支えたのは、低い身分の人々であり、そういった身分制度や、ある種の偏ったまでの学業の尊さを実践するような価値観を与えていったのが儒教(朱子学)です。
李氏王朝時代は、儒教の教えが社会広範の根底に存在しています。
李氏朝鮮時代における科挙の重要性
両班には儒教の理想に準じた、倫理的な生活や言動、思考などが求められたため、上記のように商業を行うことは禁じられています。
そして、儒教の理想が、「学問を究めて国家を支える」というものである以上、科挙制度に何代も受かることがなければ、没落せざるをえなくなるわです。
理想を体現していなければ、両班の資格もなくなってしまうわけです。
科挙の合格者が父系では三代以内、母系では一代以内にいない者は、両班と呼ばれる資格を失う危険まであったので、西洋の貴族制度とは異なる緊張感があったとも言えます。
両班の意外な仕事?
官僚や役人、そして支配者として地域の運営を行うことになる両班ですが、搾取ばかりをしていたわけでもなく、軍事についての研究も行っています。
両班は儒教の理想的な体現者でなくてはならず、その理想には国家統治の志もあるわけです。
国の統治においては、軍事という面を放棄することは出来ないため、両班のなかには武術や軍事書を研究する人物たちも少なからず存在していたのです。
豊臣秀吉の侵略に対して、そういった武班的な人々の弟子たちが武将や兵士として立ち上がり、国軍以外の義勇兵としても参加することにもなります。
李氏朝鮮における科挙制度の崩壊
科挙制度も両班であることを証明する行いの一つです。
就学のための資金を用意することが出来たのは、ほとんどの場合において両班の家系のみであったため、両班が独占する状態が伝統的につづきます。
しかし、その厳格さは時代が進むごとに失われていきます。
両班という勢力が拡大することで、地位を与えることが目的の、質の低い臨時科挙なども乱発されていき、権威を失っていきます。
李氏朝鮮時代の末期では両班の数が激増
500年という世界最長の支配を実現していた李氏朝鮮と両班たちにも、やがて終焉が訪れます。
両班たちは没落をはじめ、両班の証である系譜までもを売り買いするようになったり、自称、両班という身分詐称が横行するようになります。
最終的に、特定の地域では70%の人口が戸籍上は両班ということにもなり、両班はあふれることとなったのです。
儒教を重んじる国家ですので、両班に対する憧れが他の身分の人々にも強かった結果とも言えます。
現在の韓国では、90%の人口が両班を先祖に持つとも言われているのです。
対照的に、社会主義国である北朝鮮では両班=貴族という認識から、両班は労働者である人民の敵とされているために、その子孫だと名乗る人物は少ないようです。
両班と白丁との比較
最上位の身分である両班と最下位の白丁
李氏朝鮮においては、四つの身分区分けがされています。
最上位から、両班(士族)、中人、常人、賤人という階級に別れているのです。
その最下層の賤人の中でも最も低い地位であったのが、白丁(ペッチョン/ペクチョン)になります。
白丁はどういった暮らしだったのか
白丁は一般の人が住む村などには住めず、常人以上の階級の人と結婚することも禁じられていたのです。
そもそも白丁は人間ではないとされていて、強烈な差別を受ける存在だったのです。
就業が許されていたのは、屠畜、食肉商、皮革業、骨細工、柳細工などだけで、他の仕事に就くことは許されてはいなかったのです。
葬式では棺桶を使えない、墓碑を建てることの禁止、就学への禁止など、厳しい差別に晒されていて、タブーを破れば、リンチによる殺人の対象となります。
白丁にされたのはどんな人々だったのか
起源としては、北方から来た異民族という説と、政治犯を白丁に認定していったという説があります。
高麗時代の武将や軍人の一族なども白丁にされてしまい、その結果として女真族を抑える勢力が減り、清の建国の遠因となったという説もあるのです。
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白丁と両班の唯一の共通点
身分の最上位と最下位である両者には、およそ全てのことが真逆とも言えます。
しかし、唯一の共通点は、白丁にも納税の義務がなかったことです。
税の取り立てが理由であったとしても、白丁との接触は不浄なことだとされて疎まれていたわけです。
社会から排除されるという方針は、被差別民に対する世界共通の扱いのようです。
まとめ
- 両班は正確には身分というよりも支配階層である
- 両班と士大夫は似ているが、大きな違いもある
- 両班は科挙で道が開けるが、科挙を受かるのは両班の家系が大半である
- 両班は儒教を体現しなければならず、労働に対して否定的である
- 両班は多くの特権を有していた
- 両班という支配層が完成したのは李氏朝鮮時代
- 白丁とは納税義務がないという共通点がある
朝鮮王朝独自の支配階層であるにおいても両班は、そもそも明文化された制度もないため、定義することが困難な存在です。
儒教的な価値観が力を振るう国家と、科挙と官僚制度と、身分制度により作られているものであるため、理解するには困難を伴う多面性を有しています。
今回の記事が少しでもその両班の理解の助けになれば幸いです。
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