日本史において最も古く、そして最も有名な「摂政」と言えば、推古天皇の摂政となった聖徳太子になります。
そもそも、摂政とはどういう役職なのかといえば、君主制を採用する国で、国家元首である王が、政務を執行することが出来ない場合に、王の代わりとなって王の政務を実行する役職こそが摂政なのです。
今回は、君主・王の代理である摂政という役職とは、どういったものだったのかをご紹介していきます。
また、同じような地位でありながら、正確には異なる役職である「関白」との違いについても解説していきます。
目次
摂政という役職の条件
摂政になるための条件
摂政に就任するためには、基本的にはその当事国の法律、あるいは慣習に従う必要があります。
つまり各国それぞれにおいて、条件は異なっているのです。
古代からの日本において、摂政になるための条件とは、国家元首であり王である天皇が、幼少である、女性である、病弱である、などという条件の結果、「天皇としての仕事が全うすることができないと判断された場合」に選定されます。
幼くして天皇に就任する場合もあったわけですが、現実的にはその幼子に政治など行えるはずもないわけです。
あるいは病気を患い、生きてはいるが政治を行うほどの健康状態でなかった場合なども存在しています。
天皇がその仕事を正常に執行することが不可能な場合に、摂政という立場に誰かが就任することになります。
摂政になった人物の特徴
日本において摂政になった人物は、天皇の親や子供、兄弟や親戚、天皇に娘や孫娘を嫁がせた上級貴族といった場合が多いのです。
基本的には、当代の天皇の血筋に関わる立場の人物が就任していることになります。
また政略結婚により有力者がその地位を確保したことから、天皇から見たときに母方の祖父や叔父あるいは伯父が多いのも特徴です。
摂政になっていたのは「五摂家」の人々
摂政となっていた人物たちを、さらに具体的にカテゴライズするのであれば、「五摂家」です。
平安時代以後は「五摂家」とされる、五つの一族によって、摂政も関白も事実上、独占される状態になります。
この「五摂家」を簡単に言えば、藤原氏が分かれて成り立った一族であり、基本的に藤原氏の一族が、摂政も関白も独占していたことになるのです。
例外には、関白に就任した、戦国時代の覇者である豊臣秀吉がいるぐらいなのです。
摂政の仕事とは一体どんなことをしたのか?
摂政の仕事は基本的に天皇が行うべき仕事の全てになります。
摂政とは事実上、天皇の代行者であり、最高権力者だったといえる役職なのです。
権力の中枢である、政治的な支配者が摂政になります。
摂政と関白の違い
摂政と関白の具体的な違い
摂政の定義は、天皇が幼少、女性、病弱などの理由において、代わりに政治を行う役職になります。
つまり、天皇が成人したり健康だった場合には、摂政という役職は存在することができなくなるわけです。
摂政とは、基本的に天皇が子供である場合の、政治的な代行者となります。
一方、関白は天皇が成人後の補佐役となるのです。
つまり、天皇が子供か大人であるかで、摂政か関白かの違いが生まれます。
摂政と関白はほとんど同じ存在
天皇の年齢以外は、事実上の最高権力者であることは同じものです。
あらゆる天皇の権限を代理人として行使することが可能であり、本来ならば天皇が最初に閲覧すべき情報に対しても、摂政と関白はアクセスが可能になります。
大臣や役人たちで作られる会議と、その会議の結果にまとめあげられた報告書や法律に対して、摂政は最終的な決定者である天皇に先んじて閲覧することが可能になるのです。
そのため、いくらでも対策を施すことが可能であり、好きなように政治を操ることが可能になります。
現代の企業で言えば、社長に渡るはずの現場からの報告書などを、いくらでも自分の都合の良いように改ざんすることが出来るようなNo.2といった立場になるのです。
ほとんどの摂政がそのまま関白に就任
役割や権力はほぼ変わらず、対象である天皇が子供か大人かという違いしかないため、摂政の大半が、天皇の成人にともない関白に就任していくことになります。
病気が悪化したり、辞退したことなども、たまにはあるものの、一般的には摂政は関白に就任することが多かったのです。
関白も「五摂家」により独占
摂政がそうであったように、関白もまた五摂家によって独占されることになります。
そのため「摂関家」とも呼ばれているのです。
摂政と関白を彼らが独占していたからであり、とても分かりやすい名前になります。
例外は太閤・豊臣秀吉
先にあげたように例外だったのは、豊臣秀吉になります。
あらたな関白候補たちがモメているという状況で、どちらにするかと朝廷側から訊かれたとき、「自分がなればいい」と宣言して関白に就任したのです。
豊臣秀吉としては、征夷大将軍に変わる自分の権力を保障してくれる肩書きを探していたので、丁度良い相談だったわけです。
ちなみに、「太閤秀吉」あるいは「豊太閤」という名の「太閤」とは、本来、「関白を引退して親族に関白の座を継承させた者たち」のことを指す言葉になります。
秀吉も甥っ子の豊臣秀次に譲ったことから、太閤となったのです。
そして、それ以後は太閤とは事実上、秀吉を示す言葉になります。
太閤秀吉というネームバリューの強さを現すように、「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪われる」という言葉が生まれているのです。
秀吉以外にも太閤は存在していたわけですが、歴史的な認知度としては、太閤=豊臣秀吉という状態になっています。
摂関政治が平安時代を衰退に導く
さて、権力を好きなように操り、富を独占していった藤原氏の人々でしたが、その治世には腐敗や決断力の無さも現れるようになり、最終的に平安時代は崩壊し、武士などの軍人による政治が始まるようになります。
実際の権力からは、天皇や貴族は遠ざけられることになったわけです。
しかし、そんな状況となったとしても、摂政および関白という仕組みは、天皇の事実上の代行者として継続していくことになります。
戦国時代の末期に、豊臣秀吉が関白には就任したものの、平安時代のような権力や政治の中枢に天皇や貴族たちがいた状態とは明らかに別物になります。
戦国が終わり江戸時代になっても、ご存じの通り武士階級の支配が続いたのです。
摂関政治の崩壊と共に、摂政と関白の権威は消失していたわけになります。
天皇家の政治力が国家を掌握するのは、明治以後になりますが、それもまた摂関政治ではなく、立憲君主国家として投票制度による政治へと変わっていきます。
摂政や関白が持っていた政治力やその統治機構は、やはり平安時代に消滅したわけです。
日本以外の国における摂政
摂政は海外の国にもある
摂政とは「幼い君主に代わって政治を執り行う者」であるため、各国にそういう立場の政治的な有力者は存在しています。
およその場合は、王家に連なる人々が、王の代理人として政治の中枢を担うことになるのです。
王を持った君主制国家では、当然ながら起こりえるシステムになります。
場合によれば、王を殺害したり、追放したり、強制的に引退させたりすることで、強引に幼い王を成立させて、権力者が摂政の座に就任する場合もあるのです。
アレクサンダー大王の遺児の摂政
有名なマケドニアの王であるアレクサンダー大王(アレクサンドロス3世)の死後、王位の継承者が選ばれることになるのです。
生まれたばかりの大王の子であるアレクサンドロス4世と、大王の異母兄弟であり、知的障害者であったピリッポス3世に王位は共同で継承されます。
両者とも政治を行える状態ではなかったため、摂政が置かれることになったのです。
初代の摂政はペルディッカスという有力貴族でしたが、将軍たちが彼の摂政就任を不満に考え、殺害し、大王の重臣であったアンティパトロスが摂政になるのです。
しかし、そのアンティパトロスの死後、その息子であるカッサンドロスは摂政の座を巡り、他の勢力と対立します。
大王の異母兄弟であるピリッポス3世と、カッサンドロスは手を組もうとしていましたが、大王の実の母にピリッポス3世は殺され、カッサンドロスは大王の子であるアレクサンドロス4世を殺したのです。
やがて王になったカッサンドロスも、生涯無敗であった大王とは異なり、戦で敗北して死ぬことになります。
ちなみに、このカッサンドロスは、自分の父親であるアンティパトロスの命令で、大王に毒を盛ったのではないかという暗殺説の容疑者の一人でもあるのです。
チベット仏教における摂政
チベット仏教は政教分離がなされておらず、法王であるダライ・ラマが国家元首を兼任するというシステムです。
そして、チベット仏教の法王ダライ・ラマは死んでも転生を繰り返す存在なのだとされています。
ダライ・ラマの死後は、高僧たちがその生まれ変わりを探す一方で、高僧たちのなかから国家元首の代理である摂政を置くことになるのです。
チベット仏教の摂政は特殊な例ではありますが、こういった摂政のスタイルも存在しています。
まとめ
- 摂政は君主制国家において「幼い王の代理人」である
- 摂政は事実上、絶対的な権力者である
- 日本においての摂政と関白は藤原氏から成る「五摂家」により占有された
- 関白は「成人した天皇」の代理人である
- 大半の摂政は天皇の成人とともに関白に就任する
- 豊臣秀吉は関白であり、「太閤」の代名詞的な存在である
- 海外にも摂政というシステムは存在する
王に代わって政治を行う摂政は、事実上、当事国の最高権力者という立場になります。
権力を掌握する以上は、政治闘争の中心になることでもあり、場合によれば軍事的な行動により、それらの地位は奪取されることもあるのです。
権力にまつわる職業は、色々と苦労がつきまとうもののようです。
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