マルクスアウレリウスは第16代ローマ皇帝であり、哲学にも精通していたことでも知られています。軍事よりも学問を好んだ皇帝とも言われており、「哲人君主」の実現例と見なされているのです。
マルクスアウレリウスの時代はローマ帝国始まって以来の平和と繁栄が訪れた、「パックス・ロマーナ」と呼ばれる時代の一角で、五賢帝の一人にも数えられています。
さらにマルクスアウレリウスは『自省録』等の著作があり、名言も数多く残していることから現代まで高い評価を受け続けているのです。
目次
マルクスアウレリウスの生誕から皇帝になるまで
生誕から幼少期
マルクスアウレリウスは貴族の子供としてローマに生まれました。3歳の時に父が亡くなると祖父に引き取られ、当時の貴族階級にならって家庭教師による教育を受けたのです。
マルクスアウレリウスはこの中でも哲学に興味を持ち、この頃に哲学的な生活様式を学んだとされています。
その後叔母の親族である皇帝の寵愛を受けて、6歳の時に騎士名簿に登録されました。少年時代に騎士階級に叙任されることは極めて珍しいことで、皇帝からの寵愛の大きさを物語っています。
皇帝候補に選ばれる
皇帝であったハドリアヌス帝は、アントニヌス・ピウスを養子とし、そしてアントニヌス・ピウスにルキウス・ウェルスとマルクスアウレリウスを養子にするように要請したのです。
これはハドリアヌス帝が将来的にルキウス・ウェルスとマルクスアウレリウスを皇帝候補とすることを示すとともに、二人の地位を公にすることを意味していました。
アントニヌス・ピウスが即位すると、皇帝候補であったルキウス・ウェルスを皇帝の資質が伴っていないとみなし、マルクスアウレリウスを重用するようになります。
そしてマルクスアウレリウスのみを後継者とするつもりでしたが、アントニヌス・ピウス帝の死後マルクスアウレリウスは、ルキウス・ウェルスと共同皇帝として即位しました。
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即位
マルクスアウレリウスはアントニヌス帝が崩御した後、誰もが即位を有力視し皇帝候補者は一人だけのように扱われていたのでした。
しかしアウレリウスのストア派哲学的な観点から見ると、皇帝としての権力に魅力を感じず政務を好ましく思わなかったようです。
その結果寵愛を受けたハドリアヌス帝の遺言もあり、ルキウス・ウェルスと共同皇帝として即位する道を選んだ結果になりました。
マルクスアウレリウス即位後の初期統治
「パックス・ロマーナ」の時代
マルクスアウレリウスの初期統治時代は「パックス・ロマーナ」と呼ばれる時代であり、平和と繁栄の豊かであり最も幸福な時代と言われていましたが、次第に多くの困難を抱え始めました。
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飢饉や外敵の侵入
まずは洪水が発生し農作物が甚大な被害を受け、結果的に飢饉が発生します。そしてマルクスアウレリウスの統治時代で、最も困難を極めたのが外敵の侵入です。
最初の問題はパルティアのヴォロガセス4世により引き起こされた戦乱です。 ローマ帝国の庇護下にあったアルメニア王国に侵攻し王を追放、そして親パルティア派の君主を立てる行動に出ました。
ローマ帝国側もアルメニア王国を管轄内とする、カッパドキア総督マルクス・セダティウス・セウェリアヌスがアルメニア王国に向かいますが、途中のパルティア軍の伏兵にあい大敗を喫してしまいます。
パルティアとの戦争で事態が一向に好転しない中、共同皇帝であるルキウス帝に白羽の矢が立ち、前線へ送ることが決定されます。
結果的にルキウス帝は何もしていないのですがパルティナ王国軍を打ち破り、パルティナ王国の二大都市であるセレウキアとクテシフォンとを占領するに至りました。
物資不足や疫病の関係もありローマ軍の戦力は大きく削られてしまいましたが、無事ローマに凱旋することができたのです。
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マルクスアウレリウスの死没まで
疫病の大流行
パルティアとの戦争を勝利で終えることができたのですが、戦争終結の翌年にアントニヌス疫病と呼ばれる天然痘が大流行してしまいます。
疫病での犠牲者は500万人とも言われており、マルクスアウレリウス自身も病に倒れてしまうのです。
パルティアとの戦争やアントニヌス疫病でローマ帝国は甚大な被害を受けており、ライン・ドナウ国境の戦力を引き抜かれた状態となっていました。
国境防備の弱体化と疫病に加え、国境地帯より遥か東方で蛮族同士の動乱が起きると国境はいよいよ不穏な状態になってしまい、ドナウ川周辺に滞在していた勢力が一斉に渡河を開始してローマ領内に侵攻し、マルコマンニ戦争が始まったのです。
マルクスアウレリウスの病没
結果的にマルコマンニ戦争の終結を迎えることなく、マルクスアウレリウスは病没してしまうことになります。
マルコマンニ戦争はパルティア戦争の影響もあり対処が遅れてしまい、開始から3年後にようやく反撃が模索されます。
当初はアウレリウス帝とルキウス帝の双方が軍の指揮をしていたのですが、途中ルキウス帝が謎の死を遂げてしまいます。
マルクスアウレリウスが単独での親征を継続するのですが、結果的に戦いは長期化し泥沼化してしまうのです。
戦いはローマ軍が苦戦を続ける中マルクスアウレリウスが病没し、生前に禅譲を受けていたコンモドゥスによって戦争は終結されます。
マルクスアウレリウスは皇帝になった当初は平和と繁栄を享受していましたが、その後は洪水や疫病さらには外敵の侵入など様々な困難に対応しなければなりませんでした。
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マルクスアウレリウスの著作『自省録』とは?
マルクスアウレリウス唯一の著書『自省録』
マルクスアウレリウスは皇帝として政務を行う傍ら、哲学的な思想を好みストア派の哲学者としても有名でした。
『自省録』はそんなマルクスアウレリウスが書いた哲学書であり、マルクスアウレリウスの思想を直接知ることができる唯一の著書なのです。
『自省録』は一応12巻に分かれてはいますが、巻を分けたのがマルクスアウレリウス自身だったのか定かではありません。
『自省録』は自分宛に書き続けた短い散分の集積のようなものであり、一貫性がなく同じ主題が繰り返し取り上げられているのが特徴です。
これは本人以外が読むことを想定しておらず、一つの書物として整理がされていない構成となっているため、内容の要約が極めて困難となっています。
『自省録』は哲学的な思想にフォーカス
ローマ皇帝として様々な政務を行っていたマルクスアウレリウスですが、『自省録』では哲学的な思想に限定された内容となっているのです。
ローマ皇帝の自著にも関わらず、ローマ帝国の当時の状況や政務での記録などの記述がほとんどないのも特徴となっています。
皇帝に即位する前にストア派哲学に感化されて、哲学的な思想を好んだマルクスアウレリウスらしい著書ともいえるのです。
必見!マルクスアウレリウスの名言を紹介
マルクスアウレリウスは皇帝としてだけでなく、後期ストア派哲学の代表的な人物の一人とされています。
そんなマルクスアウレリウスは、名言も数多く残しているのでいくつか紹介しましょう。
「この世においては汝の肉体が力尽きぬのに魂が先に力尽きるのは恥ずべきことではないか。」
この名言は死ぬよりも先に気持ちで負けてしまうのは恥ずかしいことだという名言です。
現代でも目標を達成する前に諦めてしまったり、自分ではできないと最初からやらないという人は多いですが、この名言を聞いて気持ちで負けずに頑張りましょう。
「われわれの人生とはわれわれの思考が作りあげるものに他ならない。」
この名言は哲学的な思考を持っている、マルクスアウレリウスらしい名言です。
人生は何が起こったのかということで作り上げるのではなく、思考で作り上げるという哲学者らしい考え方となっています。
「幸福はその人が真の仕事をするところに存す。」
幸福は人によって感じ方が様々ですが、マルクスアウレリウスは真の仕事をすることにあるという考えを持っていました。
自分がやらなければならないことをやらなかったり、途中で投げ出してしまっては幸福を得ることができないということです。
「エメラルドは人に褒められなくてもその価値を失わない。」
この名言は価値のあるものは、人にどう思われていようとも価値が変わることがないという名言となっています。
現代でも人に褒められずに不満を抱えている人も多いですが、自分自信を磨き価値を高めていくことで、例え人に褒められなくても価値が失われることがないということなのです。
まとめ
マルクスアウレリウスの名言をいくつか紹介しましたが、ローマ皇帝であり哲学者でもあるマルクスアウレリウスらしい名言が多くなっています。
マルクスアウレリウスは今回紹介した名言以外にも数多くの名言を残しており、マルクスアウレリウスらしい哲学的な思想を知ることができるのです。
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