カリグラは第3代ローマ皇帝であり、ユリウス・クラウディウス朝の皇帝の1人となっています。
カリグラの皇帝の在位期間は短かったのですが、カリグラが皇帝として在位している間に建設事業や領土の拡大に力を注いだとされています。
彼の統治はローマ市民からは人気が高かったのですが、実は暴君であり狂気じみた残忍で浪費癖のある独裁者との評価を受けているのです。
カリグラはどのようにして皇帝になったのか、そして元老院との対立からどのような殺され方で最後を迎えたのかを見ていきます。
目次
カリグラの生い立ち幼少期
カリグラの生い立ち
カリグラは12年にアンツィオの保養地で誕生しました。父はローマ帝国で最も重用された将軍の一人で、ユリウス・クラウディウス朝の家系に属する著名な人物であるゲルマニクスです。
カリグラはそのゲルマニクスと大アグリッピナのあいだに生まれて成人した6人の子供の中で3番目に当たります。
カリグラは幼少期に父ゲルマニクスの軍事作戦に同行しており、北部のゲルマニアへ行っていました。カリグラはこの時に特別仕立てのミニチュアの軍装を身に付けており、兵士たちから人気を集めていたのです。
ちなみに「カリグラ」という名前は、軍装の一部として彼の履いていた小さな靴にちなんで、兵士たちによってつけられたものであるとされています。しかし彼自身はこの名前を嫌うようになっていったとも言われています。
父ゲルマニクスの死
カリグラが7歳の時に父のゲルマニクスのシリア遠征に同行しているのですが、帰還して間もなく父ゲルマニクスは死去してしまいました。
ゲルマニクスの死は政敵であり、ローマ帝国第2代皇帝であるティベリウスに暗殺された説もありましたが、現在ではマラリアによる病死が定説となっているようです。
家族の離散とティベリウスの元での生活
カリグラの家族との離散
カリグラは父の死後は母のアグリッピナの元で暮らしていたのですが、ティベリウスとの関係が悪化したため追放されてしまいます。
さらに母アグリッピナとカリグラの長兄にあたるネロ・カエサルは、29年に反逆罪容疑で追放処分となってしまうのです。
カリグラは母と兄が追放処分を受けると、曾祖母でありティベリウスの母でもあるリウィアの元で生活することになります。そしてリウィアの死後は、祖母である小アントニアの元へ送られました。
しかし30年にカリグラの次兄であるドルスス・カエサルまでもが反逆罪容疑で収監されしまうだけでなく、追放処分を受けていた長兄のネロ・カエサルは客死してしまったのです。
ティベリウスの元での生活
母と兄弟が追放された後は、カリグラと姉妹は軍からの軟禁を受け、皇帝であるティベリウスの捕虜同然の状態に置かれてしまいました。
31年にカリグラはカプリ島に移り、ティベリウスの個人的庇護のを受けながら6年もの間生活を送ることになります。
カリグラは母と兄弟を追放したティベリウスに対しての遺恨を完全に隠し、ティベリウスの元で生活を送っていました。
そのためティベリウスもカリグラに対して一切の危害を加えることなく、周囲の人々は「いまだかつて、これほど立派な奴隷も、またこれほど見下げはてた主人もいなかった」と評しています。
ティベリウス帝の死去とカリグラの即位
カリグラが帝位後継者の指名されるまで
ティベリウスは33年に即位するまで就いていたクァエストル(財務官)の地位をカリグラに与えました。ちなみにカリグラの母と次兄であるドルススが獄死したのもこの頃となっています。
カリグラの腹心となるプラエフェクトゥス・プラエトリオ(親衛隊長官)のナエウィウス・ストリウス・マクロとの親交はこの時に結ばれたとされています。
マクロは皇帝であるティベリウスの前でカリグラのことを誉め称えて、カリグラに対する悪意や疑念を吹き払うことに努めました。
結果35年にカリグラはティベリウスの孫である、ティベリウス・ゲメッルスとの共同皇帝として帝位後継者として指名されたのです。
ティベリウス帝の死
第2代ローマ皇帝であるティベリウスは37年に死去し、皇帝の座は共同後継者であるカリグラとティベリウスの孫ゲメッルスが相続することとなりました。
ティベリウスの死は暗殺説もあり、プラエフェクトゥス・プラエトリオのマクロが暗殺した説や、カリグラ自身が手を下した説があるようです。
その後カリグラはマクロの助けを得たこともあり、ティベリウスの遺言のうちゲメッルスに関する条項はゲメッルスの狂気を理由に反故にしました。
ゲメッルスに関する条項以外はティベリウスの遺言に従い、カリグラが24歳の時に即位をします。
カリグラの初期統治と暴君への豹変
カリグラの初期統治
カリグラの即位は、民衆から熱烈に歓迎されることになります。
前皇帝であるティベリウスは晩年、カプリ島に移り住みそこで引きこもり状態となっていました。その上ティベリウスは緊縮財政で剣闘士の試合や競技会など金のかかる催事の予算を大幅に削減したため、民衆からは不人気だったのです。
さらにカリグラの父であるゲルマニクスはローマ軍や属州において事績がまだ記憶に新しく、ゲルマニクスや家族を追放したティベリウスに反感を持っていました。
そういった理由もありゲルマニクスの息子であるカリグラの即位は、熱烈に歓迎されたようです。
カリグラが即位してからの初期統治は非常に寛大であり、幸福に満ち溢れたものでした。
プラエトリアニや都市部の兵士だけでなく、イタリア国外の兵士にも賞与を支給したり、前皇帝のティベリウスによって作成された反逆罪に関する書類を破棄し、追放された者たちの帰国を赦したのです。
さらに帝国の税制によって生活が逼迫した人々を保護したり、剣闘士による試合を復活させたりもしています。
カリグラの暴君への豹変
その治世も長くは続かず、次第に暴君へと変貌していくのです。
カリグラが深刻な病に倒れたことがきっかけとされる説があります。カリグラは病が治って直ぐに彼が回復させてくれるならば、自分の命を奉げてもよい、と誓った忠実な人物を呼び出し、約束を守ってもらおうと要求し崖から突き落とすなどして何人か殺害しました。
そしてカリグラは妻を追放、義父のマルクス・シラヌスや従弟のティベリウス・ゲメッルスは自殺を強要されたのです。
さらにカリグラは正式な裁判抜きで人々を処刑したことで非難を浴びるようになり、とりわけカリグラが皇帝に就く際に大きな助けを得たマクロを処刑した一件が大きな影響を与えました。
カリグラ自身の寛大さや浪費癖からくる公的支出が、国家財政を疲弊させ財政危機となります。訴訟や結婚、売春に対して税金を課し、見世物において剣闘士の命を競売に掛けるようになりました。
古代の歴史家はカリグラは個人資産を押収するために、人々に対する不当な起訴や科料、さらには殺害まで行なうようになったと主張しています。
財政危機に陥っているにも関わらず、カリグラは多くの建設事業にも着手することとなりました。
公共事業として計画されたものもあったのですが、中には個人的な目的のために手がけたものもあったのです。
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元老院との対立とカリグラの最後
カリグラと元老院の対立
カリグラは39年ごろから元老院との関係が悪化してしまいました。
原因はいくつかあり、まずカリグラはティベリウス時代の裁判記録を再検討し、元老院の言動から多くの議員は信頼に値しないと結論付け、調査と裁判を新規に執り行うように指示をしたのです。
その際に執政官を更迭しただけでなく、数人の元老院議員を処刑、さらにはその他の元老院議員はカリグラの横に侍り彼の二輪戦車に並走させられるという侮辱を受けたとされています。
カリグラが元老院と決裂した直後から、カリグラはいくつもの陰謀にさらされています。
カリグラの義理の兄も関与した陰謀は39年に失敗するなど、不穏な空気が漂っていくのです。
カリグラの暗殺
カリグラの最後は、カッシウス・カエレアによって率いられたプラエトリアニの将校たちに暗殺されました。
カリグラの殺され方ですが、41年に神君アウグストゥスに奉げる笑劇や悲劇を上演していた少年俳優劇団に対して激励の言葉をかけていたカリグラを、カエレアと数名のプラエトリアニの将校がまず呼び止めたのです。
その直後カエレアが最初にカリグラを刺し、数人の共謀者がそれに続いたとされています。
このような殺され方でカリグラは暴君として最後を迎えたのです。
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【まとめ】名君であり暴君でもあった皇帝カリグラ
カリグラは父ゲルマニクスの死後、家族と離散し皇帝であるティベリウスの捕虜同然の状態に置かれてしまいます。
ティベリウスに対しての遺恨を完全に隠し、ついには帝位後継者に指名されるまでに至り、結果として皇帝として即位することになるのです。
カリグラは皇帝に即位した時は非常に寛大であり、民衆などのことを考えた統治を行った名君として歓迎を受けていました。
しかし次第に暴君へと変貌していき、元老院との対立から暗殺されてしまう最後を迎えるのです。
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