歴史家たちに史上最高の時代とまで称されることもある、ローマの五賢帝時代。
有能な賢人たちが血筋ではなく、養子制度をつかうことで有能なる賢人たちへと帝位を継承することで、帝制ローマの最盛期とも呼べる時代を継承して来ました。
しかし、どんな時代にも終わりが訪れるものです。
五賢帝も第16代皇帝マルクス・アウレリウスの死により終わりを告げます。
アウレリウスの子である第17第皇帝コンモドゥスは、ローマ最大の暴君の一人でした。
今回は、五賢帝時代の後継者、コンモドゥスの人生をご紹介いたします。
コンモドゥスの生い立ち
最後の五賢帝アウレリウスの子
161年8月31日、コンモドゥスはローマ皇帝マルクス・アウレリウスの子として生まれます。
しかし、コンモドゥスの双子の兄が幼くして早逝し、コンモドゥスも病弱であったため、父親であるアウレリウスは名医ガレノスを主治医につけました。
多くの病を発症するコンモドゥスですが、ガレノスの治療のおかげで生き延びることになります。
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英才教育を受ける
コンモドゥスは5才のときに、アウレリウスから後継者として指名されました。
そして英才教育がスタートします。
博学であったアウレリウスから多くの学問を教えられ、古典的なローマの英才教育を受けることになりました。
五賢帝の時代は、自身の子供に対しての帝位継承は行われませんでしたが、アウレリウスはその方針を撤回し、息子であるコンモドゥスに帝位を継がせる意志があったのです。
父親の死
11才で戦場に行く
コンモドゥスは11才ながら父親アウレリウスの副官に任命されて、軍隊へ同行することになり、そこで戦功を立てた者に与えられる『ゲルマニクス』の称号をもらうことになります。
15才のときには、ついに執政官という地位まで授けられてしまうのです。
15才での執政官就任は、当然ながらあまりにも若すぎることであり、ローマ史上最年少になります。
父親の死と帝位継承
180年、五賢帝の時代が終わることになりました。
アウレリウスが死亡し、まだ18才であったコンモドゥスが第17代のローマ皇帝として即位することになるのです。
こうしてローマ史上最良と謳われた時代から、ローマ史上屈指の暴君の時代へと移り変わることになります。
同時代の歴史家であるカッシウス・ディオによれば、『金の王国から鉄と錆の王国へ』とまで言われてしまうことになるのです。
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初期はまともな皇帝であった
平和路線
皇帝になったコンモドゥスは蛮族との講和に出ています。
争いではなく、交渉を行うことで蛮族との戦いをひとまず落ち着かせることになりました。
疲弊していた敵とも停戦状態となったことから、同時代の人々からはせっかくの勝てる戦を放棄したとも評価されています。
しかし、拡大しすぎていた戦線を縮小し、国境維持のための経費を削減されたという評価も近世になって生まれています。
利益を放棄したため、何のための長年の戦いだったのか?となる一方で、経費削減と地域の安定に寄与した判断ともされているわけです。
良いとも悪いとも断言することが出来ず、「それなり」の政治的判断だったのかもしれません。
軍人たちからの忠誠心が厚かった
幼い頃から父親と共に戦場に出かけていたコンモドゥスは、ローマ軍の兵士たちに人気が高い存在でした。
あるとき軍功を焦る横暴な指揮官に対して、ブリタンニアに派遣されていた兵士たちが軍団の幕僚を担いで反乱を起こしたこともあります。
しかし、横暴な指揮官マルケルスを追放した後は、幕僚たちはコンモドゥスの武装解除に同意して反乱は終わりました。
軍人たちはコンモドゥスに対して忠誠を誓っていたのです。
その後、ペレンニスという人物の言葉を鵜呑みにしたコンモドゥスは軍団の中核を成す幕僚たちを左遷することにしましたが、その処罰に納得することが出来ない兵士たちは1500人の有志を募り、皇帝直訴のためにローマへと向かいました。
コンモドゥスは自分に直訴しに来た兵士たちを職務放棄として叱責こそしましたが、彼らには重たい処分を科すことはしません。
むしろ、自分に兵士たちを陥れるような言葉を使ったペレンニスを処刑し、横暴であった指揮官マルケルスを投獄することになります。
コンモドゥスは兵士たちの言葉を信じたのでした。
兵士たちの感情を理解することが出来ていて、大切に考えていたようですし、兵士からも敬意と忠誠を向けられる存在であったようです。
先代皇帝たちの頃から仕えてきた重臣たちを登用
国内統治においては、有能で経験がある重臣たちと協力することで内政をこなしていきました。
五賢帝時代と同じく、コンモドゥスもまた貧困層に対しての支援を忘れることもありません。
食事の提供だけでなく、サーカスの提供も怠りませんでした。
剣闘士や競馬大会を盛大に行い、ローマの市民たちを楽しませることには成功していたのです。
兵士と市民からの支持については、コンモドゥスは常に高くもありました。
戦に明け暮れていたアウレリウスの時代に比べて、軍事的に平和な日々は過ごしやすく感じられていたのかもしれません。
しかし、コンモドゥスは厳しい規範の実践者であり禁欲的であったアウレリウスと共に戦場を巡っていた幼少時代とは異なり、次第に貴族文化に堕落していくことになります。
実姉に暗殺されかける
プライドの高いルキッラ
コンモドゥスの姉に、ルキッラという人物がいました。
ルキッラの死別した前夫は、アウレリウスの共同皇帝としてアウレリウスの治世を支えていたルキウス・ウェルスです。
ローマでは皇帝などの権力者の妻や愛人などは強い政治力や、尊敬を集めていますが、ルキッラもまたそのような存在でした。
ルキッラは再婚した夫を、弟であるコンモドゥスの重臣に推薦していましたが、コンモドゥスは自らの妻であるクリスピナの意見に従い、妻の一族を重用しています。
そういった背景がルキッラを神経質にさせていました。
暗殺未遂事件
あるとき観劇に訪れた皇帝とその姉ルキッラでしたが、皇帝のとなりの席へと招かれたのはルキッラではなく、妻であるクリスピナです。
それはローマ貴族の伝統としては、当然なことであったのですが、ルキッラはその瞬間に大きな誤解をしていました。
自分が権力から排除されようとしているのではないか、あるいは弟に殺されそうになっているのではないか。
疑心に駆られたルキッラは、コンモドゥスに暗殺者を送りましたが、暗殺は失敗します。
暗殺者たちは処刑されて、ルキッラは島流しの刑となりました。
身内に暗殺されかけたことを契機に、コンモドゥスは人間不信にでも陥ったかのようになります。
この暗殺に無関係な将軍や大勢の貴族に対してまで、大量の処刑を実行してしまいました。
弟に対する姉の評価は、あながち間違ってもいなかったのかもしれません。
姉の行為が引き金になったのかもしれませんが、コンモドゥスには虐殺者の質が備わってもいました。
悪政を行うコンモドゥス
奸臣クレアンデル
周囲を信じられなくなったコンモドゥスは、幼少期から身辺の世話をしてくれていた人物である、解放奴隷のクレアンデルを重用し始めました。
姉やその夫を始め、多くの貴族や高級軍人を処分していたために、コンモドゥスは孤立化してもいます。
信用すべき人材にコンモドゥスは欠いていました。
クレアンデルは皇帝の相談役という立場を悪用し、口利きの対価として賄賂を求めるなどの悪事を働き私腹を肥やしていきます。
増長していくクレアンデルは、やがて前任者を暗殺することで近衛隊長官の座までも手にしました。
クレアンデルの末路
皇帝の相談役が持つ権力を謳歌するクレアンデルでしたが、ローマと彼には災いが迫っていました。
ローマで食糧不足が起き、その食糧不足の責任を物資長官デュオニュシオスはクレアンデルに被せます。
クレアンデルは困り、自分を非難する民衆に向け近衛兵部隊を差し向けて鎮圧しようと試みましたが、結果として市民は大量に死亡することになりました。
暴動が収まらないなか、コンモドゥスは姉ファディラや重臣たちの説得に従い、クレアンデルを自身の手で殺すことにします。
コンモドゥスのいる離宮に逃げ込んできたクレアンデルを、コンモドゥスは槍で突き刺し殺しました。
そして、そのクレアンデルの遺体を市民に差し出すことで暴動を沈静化します。
狂気の剣闘士皇帝
ヘラクレスの生まれ変わりと主張
クレアンデルを殺してからのコンモドゥスは、さらに行動がおかしくなっていきました。
宮殿から役人や重臣を追い出したあげく、娯楽や趣味である剣術に没頭するだけの日々を行います。
改名し、自身をギリシャ神話の英雄であり、ゼウスの子であるヘラクレスの化身であると主張するようになり、神話にならうように狼の毛皮を着て過ごすようになりました。
剣闘士として闘技場で戦う
剣術を始め武術を得意にしていたコンモドゥス、彼はいつしか闘技場で自分の技術を民衆に披露することに夢中になります。
鍛えげた肉体と技術を用いて、獣や剣闘士と戦い、片脚を失っている者に蛇の衣装を着させて殺してしまうなど、血なまぐさい娯楽をローマ市民に提供しました。
神話の戦いを再現すると語ったり、元老院議員に切り取った獣の首を掲げてみせたりと、行動が粗野で理性を欠いたものになっていきます。
ちなみに自分が闘技場で闘う度に、多額の金銭をローマ市に要求し、市の経済を逼迫してもいました。
自分の名前をあらゆるものにつけたがる
ローマ中心部に落ちた落雷により起きた火事のせいで、街並みの半数が焼失する災害が起きたのは191年のことでした。
コンモドゥスはローマの復興に乗じて、さらにおかしな言動を始めます。
再建されるすべての施設に自分の名前をつけること、各月の呼び名を自分の名前に由来するものに変えること、帝国軍も自分の名を冠する「コモディアエ」に変えることを命じたのです。
さらには全てのローマ人の名字に、コモディアヌスを用いることを、命じることになります。
コンモドゥスは帝国の全てに自分の名前をつけようと試み、192年11月、「余は執政官と剣闘士として次の年を過ごすであろう」と元老院で演説しました。
しかし、コンモドゥスにはその年が来ることはありませんでした。
コンモドゥスの暗殺
コンモドゥスは193年に大粛正も行う予定を立てていました。
重臣たちや、ほとんどの元老院議員、さらには愛妾までもを処刑するという計画でしたが、愛妾であるマルキアにその処刑対象が書かれたリストを見られてしまいます。
マルキアはリストに書かれた者を集めると、彼らと話し合いコンモドゥスの暗殺を計画、実行することになりました。
192年12月31日、風呂上がりに酒を飲んだコンモドゥスでしたが、その酒にはマルキアが入れた毒が入っていたのです。
苦しむコンモドゥスでしたが、食前に解毒剤を飲むという習慣のせいで毒の効きが悪く、マルキアたちは剣闘士を使いコンモドゥスを絞殺するという強攻策で暗殺しました。
大量虐殺と狂気じみた行動を取っていた悪帝は、こうして人生を終えます。
コンモドゥスの死後
コンモドゥスの名は元老院の命令において削除され、彫像なども大半が壊されることになります。
歴史から抹消されそうになるほど、元老院には恨まれていたようです。
コンモドゥスの死後、次代の皇帝を巡る内戦がローマ帝国内で勃発することになり、ローマは混沌の日々を過ごすことになるのでした。
まとめ
- 初期はまともで凡庸な皇帝
- 兵士と民衆からは支持されていた
- 姉による暗殺未遂で人間不信になる
- ろくでもない人物を重役に任命することが多い
- 獣の毛皮をかぶり、剣闘士として活動する
- 任期を通じて大量処刑を実行する回数が多い
- 神の化身を名乗る
- ローマのあらゆるものに自分の名前をつけようする
コンモドゥスの人生は、同情すべき側面もあるかもしれません。
姉からの暗殺未遂や周辺人物の間違った選択がなければ、もっと凡庸な皇帝として治世を全うしていたようにも思えます。
しかし、歴史にはもしもはありません。
人間不信に陥り、虐殺を繰り返したコンモドゥスの治世は、期待されていた六番目の賢帝とは程遠いものだったのです。
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