多くの宗教では「死後の救済」を信者になることのメリットとして約束しています。
そのため葬儀や埋葬においては、それぞれの宗教を代表するような、特徴的なスタイルが用いられるものです。
キリスト教の埋葬方法は棺桶に入れての土葬が主なスタイルですが、かつては違う手法も行われていました。
大昔のキリスト教徒たちは地下に掘られた穴を墓として使っていたのです。
今回はキリスト教の「地下墓所」であるカタコンベについてご紹介していきます。
目次
キリスト教の地下墓所カタコンベ
カタコンベの語源
カタコンベとは地下に掘られた穴や洞窟などを利用して作った墓場のことです。
そのため日本語では「地下墓所」と訳されることもあります。
カタコンベという言葉の語源としては、「窪地の周辺」を意味するラテン語(catacumbas)からです。
しかし、カタコンベという単語そのものが確立していき、後期ラテン語においては「墓の中」、「採石場の隣」という意味でも使われ始めます。
厳密には3~4世紀のローマ(イタリア)地方で作られていた地下墓所を示す言葉なのです。
しかし、ローマ帝国の国教となり保護を受けたキリスト教の広まりと共に、カタコンベも広まり、ローマ以外の地域でも見られるようになります。
カタコンベの歴史
カタコンベは大昔のキリスト教徒の地下墓所ですが、この穴はキリスト教徒が掘ったものだけではありません。
イタリアではローマ人が栄えるより以前には、エトルリア人がいました。
エトルリア人は製鉄や鉱石の輸出などで栄えていた民族です。
彼らは鉄や石灰岩などの鉱石を採掘するために、イタリア各地に穴を掘っていきます。
採掘が終わり放棄された地下の坑道は、エトルリア人が去りローマが誕生した後も残り続けていたのです。
その坑道を3~4世紀のキリスト教徒たちが再利用し、地下の墓所として使い始めます。
こうしてキリスト教徒の地下墓所、カタコンベが始まったのです。
またキリスト教のカタコンベが有名ですが、キリスト教の元になった宗教であるユダヤ教にもカタコンベがあります。
カタコンベの使用法
カタコンベは地下墓所としてのみ使われていたわけではありません。
ローマ帝国がキリスト教を国教化するより以前では「信仰の拠点」でもあり、一種の教会や神殿に近い使われ方をしていたのです。
特別な祭日においては、多くの信者にカタコンベを解放するといった祭りも行われていました。
また、聖書の内容を壁画や彫刻としてカタコンベ内に作ることも盛んだったのです。
キリスト教の神殿である教会が作られ始めるまでは、カタコンベは信仰の拠点としてキリスト教徒たちの聖域でした。
なお、迫害されなくなってからのローマでもカタコンベは作られ続けています。
つまり、地下墓所を作った理由は迫害されていたから仕方なかった、というものだけではありません。
1500年以上前のイタリアのキリスト教徒の墓として、それなりに人気があったのです。
カタコンベが人気であった理由は、カタコンベに「キリスト教の聖者」や「殉教者」たちが埋葬されているからになります。
聖者や殉教者たちの名前をつけたカタコンベが作られ(実際にそこに聖者が埋葬されているかは不明)、信者たちはそこに自分も埋葬されることを望んだからです。
カタコンベの衰退
カタコンベは地下墓所であり教会のような場所になります。
しかし、キリスト教の修道士会が力を持ち始め、石造りの教会を建てるようになると事情が変わりました。
修道士たちは広大な土地を所持して、聖職者ながら地方領主のような側面を持ち始めます。
その広大な土地に加工しやすい石を使った「大きくて派手なカトリックの教会」を建てると、やがて教会に併設した墓地を作るようになったのです。
信仰の拠点であり信者たちの墓であるというカタコンベが持っていた役目を、教会はどちらとも奪うことになります。
こうしてキリスト教と修道士たちの住む教会が発展することで、カタコンベは衰退していったのです。
11世紀の頃には、カタコンベはほとんど使われないようになり、現在でもあるような教会に付属した墓地が一般的になります。
カタコンベの復活?
カタコンベは長らく放置されてきましたが、宗教改革の時代になると再び歴史に登場します。
プロテスタントたちによる偶像破壊(もしくは聖像破壊)が活発化したときに、カトリック勢力はカタコンベに保存したあった遺骨や芸術品などを発掘しました。
聖者たちや伝統を重んじるカトリックとしては、聖者の遺物などがプロテスタントたちに破壊されないように守る必要があります。
プロテスタントとしては聖者や聖遺物(聖者や殉教者などにまつわる品物)に対する過度な信仰や、カトリックの荘厳すぎる教会を否定していたゆえの破壊活動でした。
宗派の対立により、カタコンベに数百年から千年以上も放置されていた聖者の遺骨などが掘り起こされ、破壊されたり守られたり、シンボルとして飾られたりしたのです。
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カタコンベ的な場所を作り始める
より近代になると寄付金を求めた教会や、メメントモリ(死を思え)というキリスト教修道士が持つ宗教的なテーマに基づき、教会の地下にカタコンベが作られてもいます。
棺桶を使った埋葬とは異なり、死者を飾り、死者に触れやすいカタコンベはキリスト教的な哲学の一種において「尊い存在」でした。
もちろん誰しもがそのスタイルを歓迎していたわけではありませんが、近代のカタコンベに埋葬されることは一種のステータスともなります。
長い年月を経たのちにカタコンベは復活し、教会の地下にある墓所としてはもちろん、その美術性の高さから博物館としても利用されたのです。
ただし、近代に作られたカタコンベの全てが高尚なテーマにより作られてはいません。
埋葬場所に困ったあげく、地下の坑道を新たな墓所として利用したケースもあります。
パリのカタコンベ(カタコンブ・ド・パリ)
パリにあるカタコンベ
カタコンベはパリにも作られました。
その一つがカタコンブ・ド・パリです。
フランスはパリの地下にある巨大な地下墓所であり、600万人以上が納骨されている超巨大墓地です。
このカタコンベが作られた理由は、何百年も使い続けて来たパリの市民向け・貧民向けの集団墓地が一杯になったからでした。
火葬することはなく、土葬が主であるキリスト教の埋葬はどうしても場所を要します。
そのため裕福な者はともかく、貧しい者は一まとめにされた墓地に葬られていたのです。
パリで死んだ多くの市民たちが集団墓地に埋葬され続けるという状況が何百年も続いた結果、集団墓地のキャパシティーが限界を超えます。
腐敗臭が立ち込め、地下水は腐りかけた死者によって汚染されていき、極めて不衛生な状況となったのです。
この集団墓地にあった無数の遺骨を、パリの地下を走る長大な鉱石採掘トンネル跡に移動したものがカタコンブ・ド・パリになります。
カタコンブ・ド・パリの美術的な特徴?
カタコンブ・ド・パリは名もなき数百万人のパリ市民たちの墓です。
パリの地下を走り回るトンネルに集団墓地から掘りこされた死者の遺骨が次々と納められていきます。
また虐殺などが起きたときは、その犠牲者などが一まとめに葬られることもあったのです。
「死者の帝国」と呼ばれることもあり、カタコンブ・ド・パリの地下トンネルの壁には頭蓋骨や大腿骨などの、芸術的なアイテムとして人気のある骨が目立つように配置されています。
長大なトンネルであるカタコンブ・ド・パリの各場所には、どの集団墓地から掘り起こされたか分かるようにプレートが飾られていました。
またカタコンブ・ド・パリには聖書から取られた言葉なども飾られ、人骨の壁という特異なデザインに宗教的なメッセージ性も組み合わされているのです。
ローマのカタコンベ
40か所以上あるローマのカタコンベ
エトルリア人の坑道もカタコンベとして使われてきましたが、古代ローマでは多くの石灰岩が必要とされていたため、ローマ時代でも多くの坑道が掘られます。
石灰岩を求めた理由は、ローマでの主要な建材がコンクリートだったからです。
コロッセオなど巨大な建造物は石灰と砂利と水と火山灰を混ぜて作ったコンクリートにより建てられています。
そのためローマの地下は石灰岩を掘り出すための坑道が無数にあり、それを古代のキリスト教徒たちはカタコンベとして利用したのです。
現在でもその全てが発掘されてはいないと考えられているものの、今のところ40か所ものローマのカタコンベが発掘されています。
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ローマのカタコンベの壁画や彫刻
ローマのカタコンベ芸術の特徴としては、ローマ美術・ギリシャ美術的な影響を強く残していることです。
初期のキリスト教美術を知ることが可能である、貴重な考古学的な資料になります。
フレスコ画(石灰を塗った壁に絵を描いた、いわゆる壁画)や彫刻が主ですが、古代の祭祀に使われた宗教的な道具も発掘されているのです。
これらの芸術の題材は、基本的に聖書から取られたものになります。
キリスト教の経典である新約聖書の特徴的なシーンが主な題材です。
ローマ・カタコンベのフレスコ画や宗教芸術は、1500年以上も続くことになるキリスト教のプロパガンダ(宣伝)として使われた、芸術との蜜月ぶりを予感させるものになります。
印刷技術が乏しく、識字率(字が読める人の割合)も低い時代においては、荘厳なローマ・カトリックの宗教美術は信者と寄付金を獲得する大きな力となったのです。
カタコンベの配置
カタコンベが発掘された場所には二つの特徴があります。
それは主要な街道(アッピア街道など)の近くに作られていたことと、聖者(あるいは殉教者)が埋葬されたという「伝説」が用意されていることです。
人の往来が多い主要な街道の近くと、「聖者が埋葬されている」というまことしやかな伝説があることで、それらの宣伝効果は高くなります。
カタコンベも布教活動を計算された建築物なのです。
ローマにあるユダヤ教のカタコンベ
ローマ・カタコンベには複数のユダヤ教のカタコンベもあり、七つに分かれたロウソク立てなど、ユダヤ教を象徴する宗教道具も発掘されています。
地下に墓を作りたいという願望がユダヤ教にもあったのか、あるいは迫害されていたためローマの都市部やその周辺に墓を作ることが出来なかったからなのかもしれません。
今後の発掘による比較研究が進めば、古代の宗教の力関係や、ユダヤ教と初期キリスト教が分かれていく様子などが、より明確に判明していくことになります。
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まとめ
- カタコンベはキリスト教の地下墓所で、語源は窪地の周り、墓の中などのラテン語
- カタコンベは墓地以外にも宗教活動の拠点として使われたらしい
- カタコンベが作られた理由は、迫害、聖者への人気、場所がないからなどがある
- カタコンブ・ド・パリには骨の壁など、特異な美術的傾向がある
- 近年のカタコンベはメメントモリ(死を思う)というテーマが過剰に反映されている
- ローマのカタコンベは40か所以上あり、まだ発掘途中である。初期キリスト教芸術の特徴が見て取れる
カタコンベはキリスト教が持つ復活の価値観を強く反映した墓でもあります。
善き行いをした信者は最終的に復活させてもらえるため、死体を火葬ではなく土葬にして保存することへの願望が強くあったのです。
また近年に作られたカタコンベには、露骨な観光地化も進んでいるものもあります。
カタコンベは宗教性だけでなく、経済的な合理性も感じさせてくれる墓地なのです。
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