紫禁城(故宮)とは?見取り図や歴史、構造など解説

どの国にも首都と定められた都市があり、そこに支配者が君臨しているものです。

中国の明代・清代の都となったのが北京であり、そこには歴代の皇帝たちが暮らした城である紫禁城(しきんじょう)があります。

紫禁城は現存する木造建築群としては最古にして最大であり、皇帝たちの時代が終わった今では故宮博物館として歴史ある品々の展示場となっているのです。

今回は中国の皇帝たちが暮らした紫禁城についてご紹介していきます。

紫禁城の歴史

紫禁城は永楽帝が作らせる

明朝時代に建てられた紫禁城の所在地は北京ですが、洪武帝の時代に首都は一度、南京に移されています。

明朝の前のモンゴル人王朝であった元の首都も北京でしたが、洪武帝はそこを破壊したのです。

代替わりが起きて洪武帝の息子である永楽帝の時代になると、永楽帝は首都を南京から北京に戻すことを決めます。

北京に都が再建されるなかで、元朝時代の宮殿の遺構を一部引き継ぐ形で皇帝の居城である紫禁城が作られていったのです。

紫禁城の建設には14年間が費やされ、10万人の専門的な建築家に、100万人もの労働者が雇用されています。

なお永楽帝が南京から北京に都を移した理由は、部下が「南京の宮殿が大砲による砲撃に耐えられない」と主張したからだと伝わっているのです。

紫禁城の製作者たち

永楽帝は正当な帝位継承者である甥を排除して皇帝になった人物であったため、正統な流れにある役人や官僚たちを継承できなかったのです(自身の帝位就任に反対する学者や役人たちを追放したり処刑しています)。

そのため永楽帝は戦争捕虜で奴隷として献上されていた宦官(かんがん)たちを重用することにしました。

宦官は皇帝や皇族の身の回りの世話をさせる奴隷であり、皇帝や皇族のビジネス上の重要なスタッフです。

永楽帝は自分に長らく仕えていた宦官たちに多くの重要な仕事を任せていますが、紫禁城の設計についても宦官に頼っています。

ベトナム侵略で手に入れていた多くの技術者系の宦官たちを使い、ベトナム宮殿の修理技師であったグエン・アンや、三十代前半であった若い建築家たちに紫禁城のデザインを任せたのです。

宦官の技師たちは紫禁城をデザインするさいに、南京の宮殿をベースにしつつも唐と宋の時代の古いデザインも取り入れています。

また紫禁城のデザインには儒教と道教に由来する法則性や、古代から受け継がれてきた天文学的な要素も含まれているのです。

紫禁城は「伝統的な中国の建築」と、「宗教的な美学」が混ぜられて作られた城になります。

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紫禁城と明代の終焉

1420年に紫禁城は完成して、その後、明朝の皇帝たちの城として1644年まで使用されます。

1644年に農民の子であり反乱の指導者である李自成によって明朝が滅びるときには、明朝最後の皇帝である崇禎帝は紫禁城で自分の妻子たちを斬り殺し、裏山にあたる景山で首を吊って自殺したのです。

なお李自成の軍が迫ったときに文官と武官は全員が逃げ出していたため、大した戦闘と破壊が紫禁城に起きることもありませんでした。

明朝最後の皇帝のもとに駆けつけたのは宦官の王承恩ただ一人だけだったとされています。

また崇禎帝は最も可愛がっていた娘である「長平公主」の片腕を斬りますが、王承恩の手により彼女はその場から逃れることに成功したのです。

長平公主は清朝の摂政ドルゴンに保護されて、婚約者との結婚をさせてもらい、土地や住居を与えられたりもしますが、それから二年後に亡くなります。

あくまでも伝説上では、長平公主は打倒清朝と漢民族王朝復興を目指す「隻腕であり武芸の達人である尼僧」である「独臂神尼」になって長生きしたという民間伝承もあり、多くの武侠小説に影響を与えることになるです。

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紫禁城が清朝の城として使われる

紫禁城は清の時代においても皇帝の城として使われます。

主要部分の名前の変更が行わたり一部の改築がありましたが、紫禁城はほとんどそのまま使用されているのです。

紫禁城は西太后が政治を掌握していた清王朝末期の時代に、列強諸国の連合軍、八カ国連合軍に占拠されることもありましたが、破壊は免れています。

そのあとも清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀が清朝滅亡後も居住を続けていましたが、1924年に皇族全員の紫禁城からの退去を命じられ、紫禁城が皇帝の居城である時代は終わったのです。

そののちは故宮と呼ばれるようになり、翌年の1925年からは博物館として使われ、現在では美術館として使用されています。

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紫禁城の見取り図・構造

紫禁城の見取り図
  • A:午門

紫禁城の建築哲学:紫垣/「世界の中心」

紫禁城は中国の伝統的な哲学が反映された建物になります。

星空を三つに分けた「三垣」という考え方があり、三つの中央にある「紫垣」という場所が紫禁城のメインのモチーフです。

「紫垣」とは天帝という道教における最高位の神の一人が住む場所であり(限局的に言えば北極星が天帝の位置)、紫禁城の「紫」とはこの紫垣のことになります。

紫禁城はその世界観を反映してデザインされており、天帝に代わって「世界の中心」である皇帝の宮殿を中心にして、その周囲の星々の領域が紫禁城の内部施設の群れであると表現しているのです。

紫禁城とは「天帝の住む星空」を、「皇帝とその家族や重臣たちが集まる城」として再現したものになります。

ひらたくいえば、紫禁城とは「世界の全て」を集約した場所です。

宗教も政治も私生活の遊び場も、全てがこの場所で行われる城を目指して作られたものであり、「世界の中心を作ろう」が設計哲学になります。

そのためあらゆる施設があり、無いものがありません。

皇帝は望めば一生涯ここから出る必要もなかったわけであり、それが十二分に可能な全てがそろった場所なのです。

紫禁城の建築哲学:「政治の中心」である前三殿

紫禁城の中心にある三つの建物であり、ここが政治機能の中枢になります。

・太和殿:現存する中国の木造建築で最大の建物であり、皇帝の玉座がある。謁見などが行われる。玉座の上には大玉が吊るされ、皇帝に相応しくないものが玉座に座ると落下してくると伝わる。皇帝を自称した袁世凱は玉座の位置をずらし、現在もそのままずれたまま配置されている。

・中和殿:大和殿の後ろにある建物で皇帝の控室。

・保和殿:中和殿の後ろにあり、皇帝の着替えが行われる場所。清の時代ではモンゴル、ウイグルの王族を招いて宴会が行われる外交の場であり、科挙の試験の最終試験である殿試が行われた場所。

これら三つの建物が皇帝の「公的な仕事場」であり、大臣や上級役人などが皇帝と面会して皇帝の指示や判断を受け取っていた場所になります。

紫禁城の建築哲学:南部は「役人たちの実務的な空間」

南東には皇族への儒教の講義が行われ文官たちがいた文華殿、南西には武官たち武英殿などがあります。

役人たちによる実務的な、いわゆる「役所仕事」が行われていた空間です。

北にいる皇帝からの指示を受けて、政治が行われていた場所と言えます。

もちろん皇帝の権力は絶対的なので、北にいる皇帝からの命令を大きく受けるのです。

また皇帝を操れる宦官の影響も、たやすくこの場所に及ぶことになり国全体を操ることも可能になります。

紫禁城の建築哲学:内偵=後宮/皇帝のプライベート空間

北に位置するのはいわゆる後宮であり、皇帝とその家族などが暮らしている空間です。

皇帝の寝室や、皇后やその他の妃たちの住居があります。

孔子を祀る祭壇や、道教の神を祀る祭壇、チベット仏教やその他の仏教、さらには満州族のシャーマニズムの儀式なども行われている空間です。

皇帝のプライベートな空間になり、遊び惚けるための施設や、妃たちの屋敷以外にも使用人である宦官たちの住む場所や、先帝の妃たちが入る養老院的な施設もあります。

皇帝の生活の大半が行われる場所であり、ダメな皇帝などは後宮に引きこもり遊び惚けていたりするわけです。

なお宗教と儀式に関わる専門の建物が数多くあり、皇帝の生活が宗教や儀式とどれだけ密接に関わっていたのかが分かる作りになります。

その儀式はあまりにも多岐に渡るため、儀式の管理者でもあった宦官などに頼る必要があったわけです。

広大な後宮で幼いころから育った皇帝にとっては、科挙などの試験をクリアして遠方からくる知らない役人たちよりも、幼いころから学問や礼儀作法などを教えてくれる宦官は身近なスタッフになります。

さて、宗教行事用の施設がプライベート空間にある理由は、「皇帝が直々に行わなければならなかったから」です。

皇帝といえど宗教をないがしろにすることは出来ませんでした。

皇帝は「天帝=聖なる天の意志」の「地上での代理人」です。

西洋のキリスト教社会はローマ教会と王さまが離れて存在していましたが、中国の皇帝たちは自分を支配する宗教観がプライベート空間に生まれてから死ぬまで君臨しています。

紫禁城の皇帝たちは西洋の国王たちよりも、宗教や儀式や伝統に縛られた暮らしをするほかなかったのです。

紫禁城の全体的なルール

基本的に中央と東西、前中後のように三つに分かれるような構造になっています。

これは紫垣が三つに分かれていた天を現すものであり、紫禁城がそれを表現した城だからです。

また陰陽五行に基づいた伝統が随所に反映されており、たとえば紫禁城の瓦の色は五行で最も尊いとされる黄色=金色となってもいます。

陰陽五行の法則下にある万物の根源=気の流れなどを意識して、それぞれの施設に意味や上下関係を与えてもいるのです。

日本でも使われている「風水」のルールが全体的に使われています。

さらには伝統的なルールとして、彫刻として用いられる竜の爪は、皇帝だけが5本の爪を許されるなどのルールもあるのです。

宗教的・伝統的な多くのルールに則り、紫禁城は作られています。

紫禁城の周辺

紫禁城の周りには城塞があった

紫禁城の周囲には幾重もの城塞が張り巡らされていましたが、現在では破壊されています。

紫禁城を守るための壁であり、また役人や武官たちのための施設が紫禁城の城門の外には無数にあったのです。

それらの施設も城塞に囲まれており、紫禁城は堀と複数の城塞に囲まれて守られていました。

さらにその外側には首都である北京の街並みが広がり、その街並みも城塞で囲まれていたのです。

紫禁城は「現存する城内」だけで72万平方メートルありますが、その城=要塞としての本来の構造はさらに十数倍以上も広大なものでした。

紫禁城の裏山:景山

紫禁城の堀を作るために掘り返された土の多くは、紫禁城の北に積み上げられて「人工の山」である景山が作られています。

景山が紫禁城の北側に作られているのは、北という縁起が悪い方角から皇帝に向けて殺気が放たれないようにという建築上の哲学からです。

一般的に中国の皇族や貴族の作る建築物は広大であり、たとえば日本の遷都などで見られた「風水的に良好な土地を選ぼう」という発想ではありません。

「風水的に良好な土地を作ろう」が、王朝時代の中国の権力者の発想です。

そのため人工の山はもちろんのこと、人工の川や湖さえも作らせて、縁起のいい立地に改造します。

紫禁城の周辺にも多くの美しく巨大な庭園たちが作られ、それらの全てが伝統的な建築のルールを適用したものです。

紫禁城とは巨大化した日本庭園のなかに、巨大な城や無数の屋敷を建てたような存在になります。

まとめ

  • 紫禁城は永楽帝が建てた
  • 紫禁城の設計者は宦官
  • 紫禁城は皇帝たちの城
  • 紫禁城は何度か戦火に巻き込まれたが破壊されなかった
  • 紫禁城のテーマは「世界の中心」
  • 紫禁城は「紫」は天帝のいる「紫垣」という天空の世界のこと
  • 紫禁城は基本的に三分割されている
  • 紫禁城の建築哲学には宗教観や伝統的な価値観が多く反映されている
  • 紫禁城は皇帝のプライベート空間、皇帝の執務空間、役人たちの仕事場からなる
  • 紫禁城の周辺には景山などの多くの庭園が作られていた

紫禁城は明と清の皇帝の城として使われましたが、やがて宦官などの腐敗が慢性的に広まる空間にもなります。

皇帝にとっては最良の家だったかもしれませんが、建築にまで伝統的な思想が強く反映された、ややこしそうな空間でもあったのです。

紫禁城での暮らしには苦労こそなかったでしょうが、自由さは全くないものであったのかもしれません。

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