時代劇や歴史小説ではお馴染みの「切腹(せっぷく)」ですが、現代人の感覚としては当然ながら理解しにくい行動です。
しかし昔の武士や侍たちが切腹をした理由はもちろん存在しています。
今回は、現在は失われた自殺の文化である切腹をご紹介していきます。
作法や種類なども解説していきます。
目次
切腹をした理由
切腹の起源?
切腹の最初期の例はかなり古いものとなり、じつは平安時代にまで遡ります。
『太平記』や『平家物語』などでも戦士階級である武士の切腹の描写は多発しているのです。
戦で追い詰められたとき、あるいは不始末を犯して逮捕されてしまったときなどに切腹して自殺をはかる者たちがいます。
しかし、武士の処刑方法は一般的に斬首刑であり、平安時代においては切腹が後年のように美学を帯びることはないのです。
古来の切腹には特別な美学は存在せず、ただの自殺方法の一つに過ぎなかったことになります。
室町時代の切腹
切腹が武士の風習として定着し始めたのは室町時代になります。
平時(戦のない平和な期間)において君主が死亡したときに部下である武士たちが後追いで切腹するようになったのです。
合理的な行いだとは現代の価値観では考えにくいものですが、当時の武士たちは君主に仕えることを名誉と考えています。
君主が死ねば、君主を追いかけるように自分達も追随して切腹を始めたのです。
日本の封建主義に対する盲目的な忠誠心が様式化され始めたのが、戦国時代の前であったのです。
忠誠心の表現としての後追い自殺として、切腹は武士たちのあいだに広まっていったのです。
切腹がペナルティの一種として確立したのは戦国時代
武士に対してのペナルティとして切腹を命じるようになったのは戦国時代になります。
戦で劣勢に立たされて敗色濃厚となった場合などにおいて、優勢な側からの要求の一つが切腹になったのです。
切腹をさせることで非を認める、あるいは敗北を認めることになります。
このペナルティを科して実行させることで、戦の講和条件としたのです。
つまり、責任者を自ら処分させることで紛争の負けや負けた側の非を認めさせる行為として、切腹は選ばれるようになります。
切腹を美化したのは豊臣秀吉
豊臣秀吉が備中高松城を攻めていたとき、講和のための条件として城主・清水宗治(むねはる)に切腹することを要求します。
清水宗治はこの条件を受け入れて、潔く切腹して果てたと伝わっているのです。
その時の宗治の態度や切腹の際の作法には、切腹を命じた豊臣秀吉も感動したのです。
それ以降、切腹が名誉ある行為という認識が広まることになったとされています。
なぜ切腹させるのか?
切腹には上記の通り複数の理由があります。
不始末などで逮捕された時の自殺手段、君主に対する後追い自殺による忠誠心の表現、戦争中の失態の責任、紛争講和の条件(一族の安全を保証するためのトレード)、諸般の法律違反に対しての死刑の方法などです。
共通しているのはあくまでも自発的な行いで死に至る=自殺させるというスタイルになります。
罪を認めさせたり封建主義的な権力への恭順の証として要求された行動でもあるのです。
切腹に対する新渡戸稲造の説
『武士道』の著作者として海外にも日本の伝統を紹介したことでも知られる新渡戸稲造は、切腹についても紹介しています。
腹を切る理由は腹にこそ魂が宿る場所であり、勇敢さや自制心や強い意志を示すための自殺方法として優れている、という認識があったとしているのです。
切腹はあくまで江戸時代に成立した武士道の美学においては、価値ある行いとされていたわけです。
事実として江戸時代においては大罪ではない罪を犯した武士に対して、切腹が名誉を伴う処刑の方法として選択されています。
他の時代においての考え方は異なっていた可能性がありますが、切腹が武士の処刑方法として確立した江戸時代では美化されていき、現代でもその認識があります。
なお切腹は「ハラキリ(Harakiri)」などとして外国にも伝わったのです。
ちなみに女性版は「自害(Jigai)」として伝わっています。なお、女性の場合は腹ではなく首を切っていたようです。
切腹の作法
二種類の切腹の方法
江戸時代において切腹のスタイルは、「一文字腹」と「十文字腹」が適していると考えられています。
一文字腹は腹を横に切り裂いたものになり、十文字腹は腹を横に切り裂いた後にみぞおちからヘソを目掛けるようにして縦にも切り裂くことで「十字」の形に腹を切ります。
十文字腹の方がその負担は大きく、実際にはそこまで切腹できるケースは稀だったと考えられているのです。
戦国時代から江戸初期の切腹は腹を切るだけ
当初は介錯人(かいしゃくにん)がついておらず切腹した後は長く生きて苦しんだようです。
切った内臓を投げたなどのエピソードも伝わりますが、医学的にそれらが本当に可能であったのかは何とも判断しにくいレベルになります。
江戸時代や戦国末期では自分の一族のエピソードを過大に描写することもあり、切腹が美学と結びついていたことも考えると、いくらか創作が入っている可能性も否定できないものです。
なお切腹しただけではすぐに死ぬことはないため、切腹した後で自ら首を切り、頸動脈からの大量出血で意識の消失と絶命をはかることになります。
江戸時代には介錯人がつくようになった
切腹ではすぐに死ねないため、処刑される武士の自殺をサポートする役目として介錯人(かいしゃくにん)が用意されるようになったのです。
介錯人は刀をもって切腹した受刑者の首を刎ねる役目を司った事実上の処刑人になります。
刀で首を刎ねることは困難な作業の一つです。
何故ならば第七頸椎などはそれなりに大きく、これに刀が当たると一刀両断することは不可能になります。
骨の一部に当たらないように刀で首を切断しなければならず、なおかつこの断首には完全な切断ではなく、皮一枚で頭部と胴体をつなげておくべきだという条件もあったのです。
完全に切り落とす勢いは使えず、骨にも当たらないようにしなければならないという諸処の課題が伴う者で、剣術の腕がそれなり以上に必要とされます。
そのため介錯人には腕の良い武士が選ばれ、近場にその腕をもつ人物がいない場合は遠方の武士にオファーを出すこともあったのです。
切腹の方法
- 差し出された小刀を左手で受け取る。
- 左手から右手に小刀を持ち替える。
- 左手で腹を三回ほど撫でる。
- ヘソの上3センチあたりを目掛けて左から右に向けて小刀を刺す。
- 腹に刺した小刀を切腹する受刑者が動かすと同時に、介錯人が斬首する。
切腹の細かな方法は18世紀初頭に完成したのではないかとされますが、同時期にはすでに形骸化していたとも伝わっています。
基本的には腹へ小刀の先端が触れた直後のタイミングで斬首を行っていたようです。
切腹を行った人物たち
藤原保輔(ふじわらのやすすけ)
平安時代中期(988年没)の人物。度重なる傷害事件と強盗事件を働いた人物。商人を自宅に呼び、品物を買っては自宅に掘っていた穴に突き落として殺していたともされる。
逮捕された後に腹を切って自殺を試みるがその場では死なず、その後、獄中で腹を切った傷が原因で死んだともされる。記録上では日本においての最古の切腹事例である。
赤穂浪士(あこうろうし)
江戸城で傷害事件を起こした主君が将軍によって切腹を命じられる。その報復として主君が斬りつけた被害者宅を襲撃して、被害者である老人を含みその家にいた人々を大量に死傷させた集団であり、後に切腹を命じられる。
現代の感覚としては不可解な理由であり、加害者のために被害者宅を襲撃して大量殺人を実行するというとんでもない犯罪行為だが、当時では忠誠心のある人々だと美談化されもした。
日本人以外にはこの行動方針からテロリストとして認識されがちであり、『忠臣蔵』の映画を海外ディラーに売りつける交渉は失敗した。
なお処罰として赤穂浪士には武士の名誉ある処刑法である切腹が命じられているため、当時の評価では極悪犯罪者ではなかったとも考えられる。ただし犯罪者として切腹方法で処刑されてはいる。
三島由紀夫
著名な日本の作家。右翼でありテロリスト。自衛隊の駐屯地に人質を取り立て籠もり、自衛隊の決起を促した後に割腹自殺を行う。法律下の処刑方法でないため、当人の趣味の自殺でしかなく、江戸時代の切腹とは別のものになる。
なお介錯時の斬首の一度目は失敗し、骨に当たったのか刀の刃が欠けている。介錯人の技量が必要とされることを示す一例ともなった。
まとめ
- 切腹は古くからある
- 切腹には忠誠心を示すための後追い自殺、追い詰められた者の自殺、武士の名誉ある処刑方法などの目的がある
- 切腹が美談化され始めた原因は豊臣秀吉
- 切腹は江戸時代では評価が高まり、勇ましさを表現した処刑法として一定の人気があった
- 切腹には一文字腹と十文字腹の二つのスタイルが推奨されていた
- 切腹では死に至るまで時間がかかるため介錯人が首を刀で斬っていた
- 切腹は処刑法である
- 切腹は海外ではハラキリとも呼ばれて認知度がそれなりにある
切腹は美学化されることもありますが、基本的には犯罪者に対する処刑法の一つになります。
文化に対する評価は同じ国であっても時代が違えば、さまざまな評価の差が現れるものであり、切腹もまたその一例になるものです。
犯罪者への処刑法である切腹のはずが、名誉ある自殺手段に置き換わるなど文化のトレンドは流動的なものであることを証明してもいます。
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