みなさんは、津田梅子という女性をご存知でしょうか。
最近、この人物の名前を多くの方が耳にした記憶があるのではないでしょうか。
今年の4月、ニュースでお札のデザインが新しくなるという報道がありました。
新5千円札の顔に選ばれた人物こそが、津田梅子です。
津田梅子は日本初の女子高等教育の学校を創立し、日本女性の教育に力を注いだことでも有名です。
今回は津田梅子の人生や功績、名言などについてご紹介していきます。
津田梅子が新しいお札の顔
今年の4⽉9⽇の記者会⾒で⿇⽣財務大臣が、5年後の2024年をめどに
1万円、5千円、千円の3種類のお札と500円硬貨が刷新されると発表しました。
毎回、新紙幣については、お札の顔になる人物に注目が集まります。
5年後の新紙幣の顔には、1万円札に渋沢栄一、5千円札に津田梅子、千円札に北里柴三郎が選ばれました。
渋沢栄一は、「近代日本経済の父」と呼ばれる人物で、再来年の大河ドラマで描かれていることが決まっています。
そして、津田梅子は女子高等教育のパイオニアであり、
北里柴三郎は破傷⾵の治療法を開発した人物として歴史に名を残しました。
この3人は、どの人物もそれぞれの領域で日本を代表する偉人です。
では、なぜこの3人が新しいお札の顔に選ばれたのでしょうか。
津田梅子が新5千円札の顔に選ばれた理由
財務省によると、お札の顔に選ばれる条件は2つあります。
- 偽造防止という観点から、精巧な写真が入手できること。
- 国民に広く知られており、かつ業績が広く認められていること。
これらを踏まえて候補を選び、最終的に財務大臣によって決定されるそうです。ただし、毎回どの人物もそうなのですが、選ばれた詳細な理由については明かされていません。
現在、日本政府は女性が活躍できる社会づくりに力を入れています。津田梅子が選ばれた理由には、これからの時代に女性の活躍を願ったメッセージが込められているのかもしれません。
そして今回、津田梅子はまた違った理由で注目を集めました。
津田梅子の顔が反転?
津田梅子が新紙幣のデザインに採用されたと発表されて早々、新紙幣のサンプルに印刷された津田梅子が、彼女の肖像画を反転させたものではないかと指摘され話題になりました。
これについて財務省は、「紙幣の肖像は写真を参考にはするが、印刷局の専⾨家が原版を彫るものだ」として、問題ないとの見解を示しました。
思わぬことで注目された津田梅子ですが、先ほど少し紹介したように津田梅子は、女子高等教育の先駆者であり、有名な津田塾大学を創立した人物です。
今回、新札に津田梅子が起用されたことについて、津田塾大学からも喜びの声が上がっています。では、津田梅子が創立した津田塾大学は、どのような大学なのでしょうか。
津田梅子の遺志を継ぐ津田塾大学
津田塾大学は女子教育の名門
津田塾大学の前身は、1900年(明治33年)に津田梅子によって創立された日本初の女子高等教育機関の一つ「女子英学塾」です。
当時の日本は女性の地位が低く、「女性は勉強をしなくてもいい」という今では考えらないことが常識でした。
しかし、津田梅子は「男性と協力して対等に力を発揮できる、自立した女性の育成」こそが、これからの日本女性の在り方であり、日本を発展させると考えていました。
津田塾大学の教育理念は、
「個性を重んじる少人数教育と高度な英語教育により、高い専門性と豊かな教養を身につけたオールラウンドな女性を育成する」
なのですが、これは同時に津田梅子の志でもあります。
津田塾大学出身の有名人
創立以来、これまで津田塾大学では、数多くの優秀な人材を輩出してきました。
卒業生には、テレビの辛口コメンテーターとしても活躍している田島陽子や、
株式会社DeNA(ディー・エヌ・エー)の創業者の南場智子、元参議院議員で法務大臣、文部大臣などの要職を務めた森山眞弓などの著名人が多数います。
彼女たちのように津田塾大学の卒業生たちは、津田梅子の遺志を継ぎ、さまざま分野で活躍しています。
女性教育に人生を捧げた津田梅子
新しい時代の幕開けとともに津田梅子が誕生
津田梅子は、父・津田仙(つだせん)と母・初子(はつこ)の次女として、1864年(明治元年)12月31日に江⼾⽜込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)で生まれました。
梅子の父は元江戸幕府の幕臣でした。しかし、幕府崩壊後は、幕臣から築地のホテル館に勤め始め、津田一家は向島(現在の東京都墨田区)で暮らすようになります。
向島での生活では、梅子も父の農園の手伝いをするようになり、5歳になると、私塾・三省堂に通い始めて読書と習字を学び始めました。
そして、6歳の時、梅子に人生の転機が訪れます。
日本女性最初の女子留学生としてアメリカへ
父・津田仙は、黒田清隆が企画したアメリカへの女子留学生募集に、梅子を応募させました。
1871年(明治4)12月、岩倉具視をリーダーとする岩倉使節団と共に、梅子を含めて5人の女子が日本初の女子留学生としてアメリカに渡ります。
アメリカでの梅子たちに与えられた留学期間は10年間と長期に及びました。
渡米した梅子は、最初にジョージタウンでチャールズ・ランマン夫妻の家に下宿することになります。
しばらくしてワシントンに移り住むことになるのですが、その後、再びランマン夫妻の家で下宿することになり帰国するまでお世話になりました。
留学期間中、梅子はアメリカで英語、ラテン語、フランス語などや英⽂学、⾃然科学や⼼理学、芸術など、さまざまな学問を学びました。そして、10年の月日がたち、梅子が17歳の時に日本へ帰国します。
日本へ帰国、そして再びアメリカへ
帰国後、梅子は華族⼥学校などで教師として働きはじめます。しかし、梅子は幼少期から10年間もアメリカで生活をしていたので、日本とアメリカとのギャップに戸惑っていました。
特に日本女性の地位の低さ、扱いの悪さに梅子は戸惑いました。それがきっかけとなり、梅子は日本女性の地位の向上を果たしたいという気持ちが高まり、その夢のために再びアメリカに留学しました。
2回目のアメリカ留学では、少人数教育を実施するブリンマー大学で学びました。
この時の経験を通して、梅子は新しい日本女性教育のヒントを得ることができ、
学校創立の志を持つことに繋がりました。
梅子も経験した少人数教育は、現在も津田塾大学に脈々と受け継がれています。
志とともに日本へ帰国、そして悲願の「女子英学塾」を創立
アメリカから帰国後、デンバーで開催された万国婦人クラブ連合大会に梅子は出席しました。この時、当時すでに有名だったヘレン・ケラー、ナイチンゲールなどから数多くの刺激を梅子は受けます。
これらの刺激を受けた梅子は、1900年(明治33)、日本初の女性高等教育機関の一つ「女子英学塾」を創立しました。
創立間もないころは資金力が弱く経営に苦しみ、またこの頃梅子は身体を壊してしまいます。しかし、梅子は終生、女性高等教育のために尽くしました。
梅子が54歳の時、塾の経営が安定し始めた1919年(⼤正8年)1⽉に塾⻑を辞任します。その後、鎌倉で闘病⽣活を送っていたのですが、1929年(昭和4年)8⽉16⽇に64歳でこの世を去りました。
津田梅子の名言や意外なエピソード
津田梅子の名言や言葉
日本の女性高等教育に大きな功績を残した津田梅子は、生前にさまざまな名言を残しています。以下その一部を紹介します。
- 東洋の⼥性は、地位の⾼い者はおもちゃ、地位の低い者は召使いにすぎない。
- 環境より学ぶ意志があればいい。
- 何かを始めることはやさしいが、それを継続することは難しい。成功させることはなお難しい。
- 男性と協⼒して対等に⼒を発揮できる⾃⽴した⼥性の育成
特に「男性と協⼒して対等に⼒を発揮できる⾃⽴した⼥性の育成」は、 梅子が描いていた日本女性のあるべき姿が分かります。
ここまでの津田梅子像は現存している写真から想像しても、口数が少ない真面目な女性という印象です。しかし、このイメージとは、まったく違う彼女のエピソードがあります。
津田梅子は実は陽気で豪快なアメリカ娘
前述の通り、津田梅子は6歳からの10年間アメリカで生活していました。そのため、おとなしい日本的な女子ではなく、陽気で豪快なアメリカ娘になっていたようです。
当時の日本女性は、人前で大声を出して笑うことがありませんでした。しかし、多感な時期をアメリカで過ごした梅子は、人から何か言われても大きな声で笑い飛ばしていたようです。
この他にも、10年間英語で会話をしていたので、日本語を忘れてしまい通訳が必要な状態でした。
また、玄関で靴を脱ぐことも忘れており、完全にアメリカの習慣に染まっていたようです。
しかし、梅子がアメリカに染まっていたからこそ日本とアメリカの違いに気づくことができ、後の女性高等教育の草分けへと繋がっていくのです。
津田梅子のドラマ化は?
2024年に津田梅子と同じく新札の顔になる渋沢栄一は、再来年の大河ドラマでその人生が描かれます。では、津田梅子のドラマ化はあるのでしょうか。
津田梅子のドラマなら以前あったと思われている方もいらっしゃいます。しかし、その多くはNHKの朝ドラ「あさが来た」と「梅ちゃん先生」などと勘違いしており、どれも津田梅子が題材のドラマではありません。
これまで津田梅子が主人公でドラマ化されたことはないのです。ただ、今回新5千円紙幣のモデルとして注目を集め、これから日本で女性の社会進出が進むことを考えると、津田梅子のドラマ化はひょっとするとあり得るかもしれません。
6 津田梅子の子孫
津⽥梅⼦は、⽣涯独⾝を通したので血の繋がった子供はいませんが、甥にあたる津⽥眞(つだ まこと)を養⼦に迎えていたので、現在も津田家は存続しています。
津⽥眞の娘あい⼦さんは、あの⻄郷隆盛のひ孫と結婚し、現在の津田家当主である津⽥直さんが⽣まれました。
つまり、現在の津田家には、津田梅子と西郷隆盛の2人の偉人と深い縁があるのです。
まとめ
- 津田梅子は、日本女性で初めてアメリカ留学を経験した
- アメリカ留学の経験がきっかけとなり、日本の女性教育に尽力した
- 梅子が創立した女子英学塾は現在の津田塾大学となり、優秀な人材を数多く輩出している
- 実は陽気で豪快な女性だった
- 津田梅子のドラマ化は未だかつてされていない
- 梅子自身の子供はいなかったが養子をとり、現在も子孫は健在である
一人の女性が決意した志は現在も受け継がれ、日本は少しずつ女性が活躍できる社会へと変化しつつあります。
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