世界史などの授業で「都市国家(としこっか)」という言葉を聞いたことがあると思います。
そもそも都市国家とは何でしょうか。
まずはその定義から見ていき、現存する3つの都市国家から、中世や古代の都市国家まで解説をしていきます。
目次
都市国家とは?
都市国家とは何でしょうか。定義を見てみますと、
都市を中心に,政治的に独立し周辺地域を支配する国家
(引用元:はてなキーワード)
となっています。
古代においては多く見られた国家の形態であり、ローマやアテナイ(アテネ)などが挙げられます。ギリシャ文明のアテナイやスパルタなどの都市国家は「ポリス」と呼ばれています。
最も初期の都市国家は、紀元前3000年頃のメソポタミア文明においてシュメール人が築いたウルクと言われています。この頃、ウルクの他にも、ウル、ラガシュなど20ほどの都市国家が形成されました。
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中世のイタリアにおいては、統一前には、ルネサンス期のイタリアにはヴェネチア、フィレンツェ、ナポリなど多くの都市国家が存在していました。
翻って現代においては、都市国家は非常に珍しくなっており、本来の定義に当てはまる都市国家はシンガポール、モナコ、バチカンのみです。
厳密には都市国家ではないですが、サンマリノ、ジブチ、ナウル、マルタ、バーレーンなどは小規模な国家ということで都市国家のように扱われることがあります。
これらの都市も人口の大半が居住する首都を擁していますが、厳密な定義の都市国家とは異なり、小規模な街や行政地区がいくつか存在しています。
現代の都市国家
都市国家シンガポール
マレー半島の南端に位置する東南アジアのシンガポールは、本島のシンガポール島と60ほどの小島で構成されています。面積は721.5㎢と小さく、東京23区ほどの大きさとよく言われます。
イギリス植民地時代〜独立まで
1819年にイギリス東インド会社のトーマス・ラッフルズが上陸し、彼がシンガポールの地政学的なメリットに気づいて大英帝国の交易拠点としてからはイギリスの支配下に置かれることになります。
また、第二次世界大戦中は日本軍に占領されていました。ちなみにこの期間シンガポールは「昭南島(しょうなんとう)」という名前に改名しました。日本の敗戦後は再びイギリスの支配下に戻ります。
しかし、イギリスに対する地元民の反感は強く、独立への気運は高まっていきます。1959年にイギリスから自治権を獲得し、1963年にシンガポールはマレーシア連邦の一州として独立します。
ところが、マレーシアとシンガポールは政策の違いなどからわずか2年で分離してしまいます。
そして、1965年にシンガポールは独立国家としての歩みを開始します。
独立から現在まで
元々資源に乏しく、ジャングルの島だったようなシンガポールが、初代首相リークアンユーの強烈なリーダーシップの元、優秀な人材を海外から積極的に誘致したり、国内でも教育に力を入れ、また貿易や金融のハブとなることを目指した政策が成功し、経済は瞬く間に成長しました。
その成長の勢いは凄まじく、一人当たりのGDPにおいては日本を2007年に抜いています。
資源不足の小国が50年あまりで世界に冠たる先進国入りを果たした事実を私たちは学ぶべきかもしれません。
モナコ
カジノやF1モナコグランプリ、ラリー・モンテカルロが開催される国として有名なモナコはフランスの地中海沿岸部、イタリアとの国境近くに位置しています。
面積は2.02㎢で国連加盟国の中では世界最小の国です。人口は4万人程であり、世界一の人口密度を誇ります。
日本と同じく立憲君主制をとっており、フランス革命下のフランス支配の期間を除き、基本的にグリマルディ家が支配してきました。
ちなみにモナコの国旗はインドネシアの国旗と縦横比が異なるだけで基本的なデザインが同じ(上半分が赤、下半分が白)であることから、両国間で調整が図られたものの進展はしませんでした。また、上下を逆さにするとポーランドの国旗と同じになります。
バチカン
国土面積は0.44㎢で、東京ディズニーランド(0.52㎢)よりも小さく世界最小です。(※ただし、前述の通り国連加盟国ではモナコが世界最小国となります。)
バチカンはイタリアの首都ローマ市内にあり、世界最大級の教会「サン・ピエトロ大聖堂」を中心とし、世界に12億人いるとも言われるカトリック教徒の総本山です。
イタリア政府とローマ教皇庁が長い間話し合った結果、1929年に「ラテラノ協定」を締結し、これによって国家として独立を果たしました。
バチカンにおいてはローマ法王(ローマ教皇)が政治的な指導力を握っており、立法権・行政権・司法権は全て法王に属しています。
ちなみに一切の軍事力を持たず、衛兵もスイスから派遣されています。
国自体がユネスコの世界遺産であり、ミケランジェロやラファエロなど錚々たる芸術家たちの作品を観賞することができます。
ただし、外国人観光客が入れる場所はサン・ピエトロ広場、大聖堂、バチカン博物館の周辺のみと限られています。
中世の都市国家
イタリアの都市国家
イタリアは今でも20の州がありますが、古代ローマ帝国が滅びた後、多くの都市国家が勃興した歴史があります。特に海洋都市国家のヴェネチア、ジェノヴァ、フィレンツェ、ピサ、アマルフィなどは地中海で貿易を行うことで、富の蓄積に貢献しました。
その中でも特にヴェネチア共和国は優れた船や軍事力を持ち、香辛料の貿易で大きく発展。貿易によって富も集まり、銀行も発展しました。こうして世界で初めて「銀行」というシステムができ、近代的な経済システムの原形ができたのです。
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イタリア都市国家の衰退と統一
14〜15世紀のルネサンス以降、イタリアの都市国家は衰退をしていくこととなります。
15〜16世紀にはスペインは大航海時代に突入し、ヨーロッパ経済の重心は大西洋岸に移動します。その結果、地中海の貿易で発展したイタリアの諸都市国家は相対的に衰退していきます。
18世紀にはヨーロッパの列強の台頭でイタリア半島は危機に陥りました。そうした列強に対抗するため、イタリア半島では統一への気運が高まります。19世紀にイタリア統一戦争を経て、1861年イタリアは統一国家として成立することになります。
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古代の都市国家
都市国家ローマ
共和制の成立
都市国家ローマでは建国以来、王政が行われて来ました。
しかし、紀元前509年にエトルリア人の王が追放されると、最初の執政官(コンスル)が選出され、貴族共和制が敷かれることになり、民主主義的なシステムが形成されていきました。
当時、エトルリア人などの周辺国家と戦う際には平民(プレブス)が武装した重装歩兵がローマの軍事力の中核を成していました。そのため、重装歩兵市民たちは段々貴族(パトリキ)の独占政治に不満を持つようになり、平等な権利を求めて身分闘争を開始します。やがて共和制国家が完成することになります。
ローマ帝国への変貌
やがて、都市国家としてスタートしたローマは周辺国家を次々と征服することでその支配領域を拡大し、やがてローマ帝国へと変貌を遂げていくことになります。
ローマ帝国の範囲は全地中海地域に及び、最盛期の紀元前117年には東はシリアやメソポタミア、西はイベリア半島、南はエジプトやアフリカ北部、北はブリテン島にまで拡大しました。その面積たるや約500万㎢に及びました。現在のインドとオーストラリアの間ぐらいの面積です。日本が13個ほど入る大きさです。
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ギリシャの都市国家ポリス
ポリスとは
紀元前8世紀頃のギリシャには多くの都市国家が成立しました。
この都市国家のことを「ポリス」といい、有名なものでいうとアテネ(アテナイ)やスパルタ、テーベなどがあります。
各ポリスは独立した国家であり、古代ギリシャにおいては統一国家が出現することはありませんでした。
代わりに、4年に一度開催されたオリンピアの祭典(現在のオリンピックの原型)で同一民族としてのアイデンティティーを保っていたようです。
ポリスの構造
ポリスの中心にはアクロポリスという外敵を見張るための丘がありました。
アクロポリスは防衛の拠点であるとともに、神殿なども建てられました。例えば、アテナイのアクロポリスにはパルテノン神殿があります。
ピンと来た方もいるかと思いますが、ポリスは人々を危険から守る防衛の拠点だったことから、警察を意味する「ポリス(police)」の語源となっているのです。
その他、politics(政治)やpolitician(政治家)、policy(政策、方針)の語源にもなっています。
アクロポリスの周辺部には人々が集住しましたが、このことをシノイキスモスと言います。
アクロポリスの丘のふもとにはアゴラという広場もありました。市民たちの交流の場でもあり、議論の場でもありました。
まとめ
まず都市国家の定義からスタートし、現存する都市国家からかつて存在した都市国家までを紹介しました。
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