ローマの五賢帝の四番目となるのがアントニヌス・ピウスです。
五賢帝のなかでアントニヌス・ピウスの特徴はふたつあります。
ひとつは善良な皇帝としての知名度、もうひとつは大きな実績のない皇帝という評価です。
ローマ史上、最も栄えた五賢帝の時代の一端を担ったアントニヌス・ピウスについてご紹介していきます。
目次
ローマ皇帝アントニヌス・ピウスの誕生
アントニヌス・ピウスが政治家となる
アントニヌス・ピウスはローマの上院議員の家庭に生まれた名門政治家一族の一員になります。
彼の父親が早くに亡くなったため、母方の祖父に育てられることになったのです。
後に母親が貴族であるフルウィウス家の男性と再婚したことにより、アントニヌス・ピウスは母方の遺産だけでなく、フルウィウス家の遺産や政治的影響力も引き継ぐことになります。
財力と名門貴族としての元老院議員の道を進み始めたアントニヌス・ピウスは、ローマ帝国の王朝ネルウァ=アントニヌス朝の令嬢であるファウスティナと結婚することになるのです。
ファウスティナは五賢帝などの皇帝を輩出してきた一族の一員であり、分かりやすく言えば皇族のお嬢様のような地位になります。
なおファウスティナとの結婚は自由恋愛の果てにのことであったとされ、夫婦仲は良好です。
アントニヌス・ピウスは妻に先立たれることになりますが、彼女を神格化して神殿に奉り、また再婚することもなかったのです。
アントニヌス・ピウスの皇帝就任
ファウスティナとの婚姻により皇帝の外戚(親戚)となったアントニヌス・ピウスは、120年に執政官(コンスル)として皇帝ハドリアヌスの側近となります。
134年にはアジア総督に任命されるなどハドリアヌスに高く評価される有力な政治家として出世していくのです。
138年2月25日、ハドリアヌス帝の後継者候補であったルキウス・アエリウスが謎の急死を遂げると、(同性愛者だったため)自身に子のいなかったハドリアヌス帝は、アントニヌス・ピウスに条件付きで後継者に指名します。
皇帝になるための条件とは、急死したアエリウスの息子「ルキウス・ウェルス」と、ハドリアヌス帝の妻方の甥である「マルクス・アウレリウス」の二人を養子にすることです。
アントニヌス・ピウスはその条件を受け入れたため、ハドリアヌス帝から後継者に指名されます。
138年7月10日、ハドリアヌス帝が病没してアントニヌス・ピウスは第15代ローマ皇帝として即位することになるのです。
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皇帝アントニヌス・ピウスの初仕事
アントニヌス・ピウスの皇帝としての初仕事は、有能ではあったものの元老院と対立していた先帝ハドリアヌスの神格化です。
神格化はローマにおける最大の供養のひとつであり、ハドリアヌスの継承者であるアントニヌス・ピウス自身の権力をフォローする政治的な力にとなります。
元老院はハドリアヌスの神格化に否定的でしたが、アントニヌス・ピウスは必死に元老院を説得したとされ、その様子から元老院に「慈悲深いアントニヌス(=アントニヌス・ピウス)」という「称号」を与えられます。
ピウスの称号を得ることができた理由としては晩年のハドリアヌス帝を懸命に支えたことや、ハドリアヌス帝による大量処刑を防いだことがあるからという説もあるのです。
どうあれアントニヌス・ピウスはハドリアヌス帝を支持した人物であり、その政策方針はハドリアヌス帝時代の継承となります。
アントニヌス・ピウスの本名は実はとても長い
「アントニウス・ピウス」というのはあだ名/称号なので、本名は下記の通りです。
ちなみに、出生時は「ティトゥス・アウレリウス・フルウィウス・ボイオニウス・アリウス・アントニヌス」でした。
氏族名や家名、名前、称号などがついて古代ローマ人の名前は完成します。
姓名の「名」で言えば、彼はティトゥスになり、語尾に「ianus」がついているものは養子縁組みして得た家名になります。
アントニヌス・ピウス帝の治世
地味で平和な治世だった?
有能なハドリアヌス帝から引き継いだ政治的な方針を続行していきます。
皇帝として特筆される方針は帝国軍との距離感であり、アントニヌス・ピウスと帝国軍のあいだのやり取りは皆無になります。
軍事行動で名誉を得てきたローマ皇帝や政治家なども多い中では、かなり変わっている方針ではあります。
その23年の治世において、大規模な軍事遠征を行ったことは一度もなかったのです。
皇帝時代には、ローマ帝国軍に物理的な意味で接近したことさえなかったとの評さえあります。
自身の娘で次代の皇帝の妻、小ファウスティナがローマ帝国軍の慰問を熱心に行うことになることを思えば真逆な対応です。
対ブリタニア(イギリス)政策は比較的熱心
ブリタニアでは先帝ハドリアヌスがケルト人やスコットランド人を征服することが出来ずに、領土拡張政策を断念しました。攻めて領土を広げる時代から、領土を守る時代に方針転換しています。
ハドリアヌスの長城を防御線として築き上げていましたが、アントニヌス・ピウスもアントニヌスの長城を築きます。
スコットランド人対策の防御線でしたが、あまり機能することはなく、やがて放棄されることになるのです。
12年かけて完成しましたが、完成から実働8年で放棄されます。
放棄された理由はいまだに不明です。
アントニヌス・ピウスの時代は平和
小規模な異民族との戦闘やユダヤ人などの反乱は各地で起きてはいたものの、それほど深刻な事態にならずに済んだ平和な時代です。
ローマのライバルである東方のパルティアとも大規模な衝突が起きていないのです。
パルティアには何らかの抑制的な行動を行っていたのではないかという説もありますが、アントニヌス・ピウスの治世は平和な時代であったことは間違いがないのです。
いくつかの戦闘に対してもイタリアから出ることはなく、各地の知事と軍隊に命令を送り対処させています。
適材適所という人材運用がアントニヌス・ピウスの方針のひとつであり、自身には軍才がないと考えていたようです。
アントニヌス・ピウスは在位期間のあいだにイタリアから出ることはなく、それは皇帝参加の大規模な遠征軍が必要とされる危機がなかったことの証明になります。
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アントニヌス・ピウスの内政
アントニヌス・ピウスの政策は評価の高いものになります。
水道橋、道路、橋などのインフラ整備に奔走しつつも、財政面で黒字を保つという実務能力の高さを発揮してもいるのです。
また、自然災害の被災地に対して税金の免除と積極的な支援をすみやかに行ったことでも知られている名君になります。
なお、彼の良識がある妻ファウスティナはローマの貧しい人々のための慈善団体を設立し、ローマの子供たち(とくに少女たち)の教育を援助するための支援を行います。
ファウスティナは人気の高い后であり、彼女の髪型はローマの女性たちに真似させることひなったのです。
ファウスティナが140年に亡くなると、アントニヌス・ピウスも妻の活動を受け継いでいます。
遺産を使い貧しい少女たちのための結婚資金を援助する活動も行うのです。
アントニヌス・ピウスの残した文化的な影響
アントニヌスは地母神キュベレーやミトラス(ミトラ教の主神)への崇拝を振興した人物でもあります。
アテネでは修辞学の教室を開かせてもいるのです。
アントニヌス・ピウスは、現代の法律運用の基本的な概念のひとつである「推定無罪(容疑者を裁判の結果が出るまで犯人とは見なさない方針)」を作り上げてもいます。
14才未満の子供に対する拷問の禁止(特例はあった)、奴隷が自由身分への道に進みやすくもしているのです。
奴隷を売春させるルールの制限や、主に不当な虐待を受けている奴隷を執政官の判断で他の主に売却することを可能にするなどの法律の改正も行っています。
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四番目の五賢帝アントニヌス・ピウスの死
アントニヌス・ピウスは23年の治世を行い、161年に死没します。
アントニヌス・ピウスは「国葬を派手に行いすぎないように」と後継者である「最後の五賢帝」マルクス・アウレリウスに言い残してこの世を去ったと伝えられています。
アントニヌス・ピウスの死後には東方のパルティアとの衝突が起き、マルクス・アウレリウスは共同皇帝である「ルキウス・ウェルス」を派遣します。
奔放なルキウス・ウェルスは陽気な人物であったとされ、戦場では英雄的な功績をあげることになります。
パルティアとの戦いに勝利しますが、パルティアから戻った兵士たちから黒死病が流行り、アントニヌス・ピウスの残した黒字財政でなくなるのです。
北方から来るゲルマン人たちとの戦いに軍才に欠けるマルクス・アウレリウスは挑むことになり、ルキウス・ウェルスもそれに参加しますが落馬事故で死亡します。
共同皇帝ルキウス・ウェルスの死に、怠惰な面もあった彼を嫌っていたマルクス・アウレリウスは「パルティアでの勝利はヤツではなく私の手柄だ」「これで自分だけの治世に集中できる」などと発言し、ひんしゅくを買うことになるのです。
軍事的な弱点がある夫マルクス・アウレリウスをアントニヌス・ピウスの娘である小ファウスティナは支え、蛮族との戦いに望む夫と共に軍隊へと赴きます。
陣中見舞いなどにより軍の支持を得ることに成功した小ファウスティナでしたが、宿営地への移動中の事故で負傷し、それが原因で亡くなるのです。
軍事よりも学問を好んだマルクス・アウレリウスも終わらぬ戦の果てに陣中で死ぬことになり、「五賢帝」の時代は終わります。
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アントニヌス・ピウスの名言
私は諸君に一切の指示を与えない。諸君は彼の行為の全てを無効にするのだろう。私の養子縁組もその一つだ。
ハドリアヌスの神格化を拒否する元老院に対しての言葉です。
責任を果たしていない者が報酬をもらいつづけることほど、国家にとって残酷で無駄な行為はない。
倹約を重んじたアントニヌス・ピウスらしさが表れている言葉です。黒字財政を実現できたのも納得できます。
神にかけて、私は彼女のいない宮殿に住まうより、彼女のいる流刑地に住まう方を選ぶ。
他者への手紙に綴られていた妻であるファウスティナへの愛情が表現されていますね。
息子マルクス・アウレリウスの言葉
義理の息子であり次代の皇帝であるマルクス・アウレリウスは、父アントニヌス・ピウスに関して以下のように述べています。
私は父から次の諸事を学んだ。決断を下す際の慎重、穏健、それでいて確固たる持続性。社会的名声への軽蔑。仕事への愛と忍耐。公益に利するならば、いかなる提言にも耳を傾ける態度。各人の業績に報いる際に示した公正な評価。政務は慎重に対処し、助言を参考にしつつ、自らも十分に調査を行った上で決断を下した。
アントニヌス・ピウスの立派な人格が伺える言葉です。
彼の最大の徳であったのは、才能があると認めた者には羨望など感じず、その才能を十分に発揮する機会や地位を与えた事である。
アントニヌス・ピウスは適材適所の人材登用に優れていました。例としては、軍務を有能な知事に任せたことなどが挙げられます。
まとめ
- アントニヌス・ピウスは五賢帝の四番目
- アントニヌス・ピウスは地味だが有能
- アントニヌス・ピウスの名前はティトゥス
- アントニヌス・ピウスは愛妻家
- アントニヌス・ピウスは推定無罪、奴隷や貧しいものへの支援、被災地への支援対策などを行う
- アントニヌス・ピウスの時代はとても平和
軍事的な功績が乏しいため歴史の授業では影が薄くなりがちなアントニヌス・ピウスですが、その治世は理想的な政治の体現者でもあります。
公正な人材の評価、大規模な戦争を行わない、財政を健全化し公共福祉を充実させているのです。
世界史上で屈指の実務能力を持った政治家の一人と言えるほどの名君になります。
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