歴史を書き記すことは簡単な作業ではありません。
人の記憶はあいまいであり、誤解や故意の歪曲もつきまといます。
紀元前の中国において、最も有名な歴史書の一つが完成したのは紀元前91年のことです。
「史記(しき)」と呼ばれる歴史書であり、古代中国の歴史を現在にも伝える名著になります。
記したのは司馬遷(しばせん)という人物ですが、彼は並々ならぬ苦労の果てに史記を完成させたのです。
今回は紀元前の歴史家である司馬遷と、その著作物である史記についてご紹介していきます。
目次
司馬遷の生涯
司馬遷はエリートの家系に生まれる
司馬遷は紀元前145年~135年頃に生まれたとされています。
司馬一族は代々、天文学と歴史研究について携わってきた名門一族です。
司馬遷は幼いころから高い水準の教育を受けた、いわゆるエリートになります。
司馬遷の師の孔安国(こうあんこく)は、取り壊された孔子の家の壁から見つかった古い書籍を研究して「古文」の始まりに関係する学者です。
司馬遷の師は、古代文字とされる「蝌蚪文(かとぶん)」で書かれた古代のテキストを研究し、その技術は司馬遷にも伝えられることになります。
なお孔安国は古い時代の多くのテキストの多くが失われていることを解明した人物でもあるのです。
司馬遷は古代中国における「失われた歴史」についても師から学んでいたことになります。
また儒学を国教にしようと推進していた学者である董仲舒(とうちゅうじょ)も司馬遷の師です。
董仲舒の有名な思想は「災異説」であり、災害が起きる理由は「天の意志」が王さまに忠告を放っている=悪政を行えば災害が起こるという説になります。
司馬遷は有名な儒教学者たちの弟子でもあるのです。
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司馬遷は若いころ中国全土を旅して回った
歴史家として有名な司馬遷ですが、彼は20才のころから中国各地を巡り渡るという旅を行っています。
その旅がどうして行われたのかは不明ですが、各地の歴史的な建造物や遺跡、そして学者たちとの学術的な交流も行われたのです。
司馬遷は大旅行家でもあり、このときの大旅行の影響が史記の執筆にも生かされているのかもしれません。
やがて司馬遷は23才ごろに上級役人に選ばれます。
司馬遷の父親は最高クラスの役人ではなかったため、司馬遷は試験を受けて実力でその地位を得るほどの有能な人物だったのです。
司馬遷と武帝
司馬遷が仕えた武帝(ぶてい)は生涯において中国のあちこちを視察の旅に出ます。
司馬遷もまたその旅について回ることになったのです。
前漢の7代目皇帝である武帝は外交好きであり、派手な政治を好みます。
彼の治世のなかで前漢は最大の発展を遂げることになりますが、武帝には暴君とも呼べる側面がありました。
武帝は秦の始皇帝と並び「大規模な公共事業を行い民を疲弊させた皇帝」という評価もある人物です。
派手好きである武帝は聖地である泰山において、「封禅」という「名君のみが執り行える」という儀式を行うことにします。
父・司馬談と死と封禅
封禅(ほうぜん)というものは古代から伝わる宗教儀式であり、「天」に選ばれた偉大な君主が行い、天と地に対して、選ばれた王である皇帝の治世によって平和であると示すものです。
簡単に言えば、「歴史上屈指の名君」であることを宣伝する儀式になります。
じつは封禅の儀式については謎が多く、古代に行われた儀式の方法はよく分かっていません。
そもそも内容が秘密にされていた儀式でもあったため、王朝が変わることがあれば多くの礼儀作法が伝わらないこともあったのです。
武帝の時代でもそれは同じであり、武帝は学者たちに封禅の儀式の方法を研究させ、準備をさせていました。
封禅は宗教儀式であり、皇帝の権力を示す政治的な宣言でもあり、考古学的な要素も含まれた重要なイベントだったのです。
司馬遷の父である司馬談(しばたん)は封禅の儀式を研究して、武帝のために儀式を準備していましたが病に倒れてしまいます。
病に倒れた司馬談は息子に封禅を執り行うためのメンバーを引継いだのです。
また司馬談は遺言も残します。
「孔子の時代に歴史書は再編されたが、それから400年経ってしまった現代では歴史書の整備がすたれてしまっている。お前が第二の孔子となれ」。
歴史家である一族の仕事を、司馬遷は父親から継承されることになります。
なお司馬談が封禅の儀式から外されてそのショックで病気になったという説もありますが、司馬遷がそのまま仕事を引き継いで、泰山での封禅の儀式に参加しているため、司馬談は武帝に嫌われていなかったのです。
たんに病気が原因で司馬談は仕事を外されただけであり、悔しがっていたの儀式の実行と歴史書の執筆という二つの仕事が出来なかったからになります。
太子令・司馬遷の仕事
父の死後、父の役職である太子令(たいしれい)の役職を引き受けた司馬遷は武帝に尽くします。
太子令とは天文や儀式の方法や公文書の執筆、そして歴史書研究の仕事をする役職です。
司馬遷は武帝のもとで「太初暦(たいしょれき)」を作り上げることに貢献します。
太初暦とは太陰暦の一種であり、そののち190年間ほど正式に採用されました。
しかし朔日(ついたち、月の始まりであり新月の日)、十五日(満月)、月末などを作り、「月の動きを重視した時間の感覚」を中国に与えて、その影響は今日までアジアの文化として残ります。
司馬遷が宮刑に処された理由
武帝の時代、異民族との戦いは重大な課題でした。
そんな時世において北方騎馬民族である匈奴(きょうど)との戦いで、李陵(りりょう)という将軍が善戦するも最終的には降伏するという敗北を喫します。
李陵は武帝に対して単独行動を申し出たあげくの敗北であり、当時の美意識によれば自刃(自殺)することが望ましいとされていたのですが、降伏を選んだことに武帝は激怒したのです。
武帝自身と武帝の多くの部下が李陵を責める中、司馬遷だけが李陵をかばいます。
司馬遷の評価では李陵は献身的であり、6倍の戦力の敵相手に善戦した名将は過去にもいないと主張したのです。
しかし騎馬民族との戦いで功績が少なく、また善戦する李陵の援護を行うことが出来なかった武帝のコンプレックスに触れてしまいます。
武帝は司馬遷を投獄して死刑か「宮刑(きゅうけい)」を選ばせたのです。
宮刑とは性器の一部を切除するという、当時の価値観における最も屈辱的な刑罰になります。
司馬遷は名誉を失うその刑罰を選び、生きて父親の遺言でもある歴史書の執筆を目指すことになるのです。
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司馬遷が史記を書き上げる
司馬遷はその後も武帝に従い、名誉こそ失うもののより重要な役職にはついたのです。
多くの友人から地位の高い身分なのだから有能な部下を取り上げろとも相談されますが、宦官となった自分にはその資格がないと断り、史記の完成にのみ全力を尽くすのだと告げます。
武帝に付き従い公務をつづけた司馬遷は史記を完成させますが、その後どのようにいつまで生きたかについては謎なのです。
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司馬遷の書いた史記
史記は中国の正史:二十四史の第一
中国の伝説上の始祖である「黄帝」を始まりとして、明の滅亡までの歴史を記した中国の公式な歴史書が二十四史です。
史記はその最初の歴史書となります。
史記が記しているのは「黄帝(農耕の神や医学の神です)」を含む五帝の時代から、夏王朝、殷王朝、周王朝、秦の始皇帝、項羽、劉邦、劉邦の妻であり実権を握った呂雉など、「中国の歴史の始まりの部分」です。
夏王朝は紀元前2000年、つまり今から4000年前の時代になります(黄帝たちはそれよりも以前ですが、神話上の存在とされているのです)。
史記の特徴
古代史をつづった史記ですが、そのテーマの一つが「天道是か非か」です。
儒教的な価値観で「聖なる節理」である「天道」は、「正しい者が正しいことをすれば報われて世の中が良くなる」はずなのですが、現実はそんなきれいごとが通用しないことも多くあります。
正しいとしか思えない献身的な行動をした人物たちの多くも不幸になっているのです。
史記はその全編を通じて「天道なんてあるのか?」という視点を貫いています。
司馬遷は職務に命と情熱をかけていた父親の死、有能な将軍の献身的な行動への罰、そして自身に訪れた宦官になるという運命などから、儒教的な倫理に疑いを持っていたとも推測されているのです。
こういった視点を貫くことで、史記は「宗教的な解釈」の囚われから自由となり、基本的に事実のみを記し上げることになります。
紀元前の歴史資料においては極めて珍しく、「宗教や王朝などに忖度(そんたく)していないフェアな資料」なのです。
そのため儒教が全盛となる時代においては、儒教の価値観に反している描写も迷わず選ぶ司馬遷の姿勢は評価されないこともあります。
史記には文化や司馬遷自身の体験談も含まれる
史記には古代における文化や風習なども記されており、司馬遷の自伝や司馬遷が遭遇した大きな歴史的なイベントについても書かれています。
司馬遷以前には司馬談が悔やんでいたように、多くの歴史書が欠落していたため、史記によって資料を再編することで古代の歴史は復活していったのです。
もちろん「司馬遷が収集できた資料」がもとになっているため、収集できなかった部分や信頼にかける資料も少なからず採用されているため、必ずしも正確な記述しかないと断言はできません。
しかし古代史や古代の文化や価値観を知るための偉大な歴史書であることには、間違いないものです。
史記が排除した資料:妖怪辞典「山海経」
史記は紀元前一世紀の中国当時にあった資料から選別されています。
選ばれなかった資料のなかには山海経(せんがいきょう)という民俗学、あるいは妖怪辞典のような本もあったのです。
山海経は中国の神話や妖怪などの不思議な都市伝説、怪談のようなものを集めていった地理書になります。
紀元前3世紀~4世紀頃にかけて徐々にエピソードが追加されることで完成されたものです。
中国神話や、当時の風習や地域ごとに採れる植物・動物(空想・神話的なものも含みます)、鉱物などの種類などが書かれています。
神秘が支配する古代世界では、神話と歴史の区別はあいまいなものですが、司馬遷は山海経の情報を史記にフィードバックすることはなかったのです。
黄帝などの神話に近しい歴史を扱いつつも、中国神話群は排除して書き上げたのが史記になります。
歴史資料であることを目指した方針であり、宗教と政治が同じ場所にあった古代の世界では非難されることがあっても当然なスタンスです。
しかし山海経の古い時代の資料は失われてしまっているため、もしも司馬遷が山海経を保存するような行動をしていたら、古代中国の宗教や民族研究の資料になっていたかもしれません。
共通の神話などがあれば民族の特定につながることもあるため、怪談話をまとめたような資料でさえも、歴史を紐解くための重要なツールとなりえるのです。
司馬遷の人物像
保守的でコアな儒教学者に囲まれている
司馬遷の有名な師匠の二人は孔子の研究者と、儒教を国教にするように武帝へ働きかけた人物であり、さらには君主は儒教を国教にした武帝です。
儒教関係者に囲まれていた暮らしをして、本人も儒家(儒教を実践する人)らしく武帝への忠誠を生涯尽くしています。
私生活を捨ててまで武帝という君主に尽くすことを「善」だという、「天道」の実践者ではあったわけです。
しかし人生の後半では大きく変わることになります。
道教的な好みを持っていた?
中国には儒教だけでなく、中国古来の神話や価値観を継承した宗教である道教があります。
司馬遷は道教的な趣向をしていたとも予想されているのです。
もちろん司馬遷が儒教に肩入れしなかったため、そういった評価となっていったのかもしれません。
しかし司馬遷は史記を描くときに儒教と一定の距離を取り、あくまで当時としては大いにフェアな視点で執筆しています。
「天道是か非か」という儒教における最大のテーマである天道に強烈な疑問をぶつけるほどには、晩年の司馬遷は儒教の盲目的な信者ではなかったようです。
なお道教的なイメージの一つが、この悲観論になります。
報われない結末=地獄、ネガティブなイメージについても道教は提供しているのです。
儒教は「正しい節理」や葬儀や供養の形式を与えていますが、地獄観について多くは反映していません。
中国の地獄観は道教=中国の古代からの神話に、仏教が加わることで生み出されていきます。
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司馬遷の性格
司馬遷はただひとり李陵を庇(かば)うなど、かなり自我の強い人物であり、自分が正しいと考えたことは曲げないような人物であったのです。
屈辱に耐えながらも父親の悲願である史書を書くために、宮刑にも耐えています。
かなり人間味のある人物のようで、武帝からも罰こそ与えられて投獄までされたものの、最終的には武帝の高官のまま日々を過ごしているのです。
何だかんだで武帝からも評価されている有能な人物になります。
前漢の最盛期の皇帝に意見をする勇気もあったようです。
なお、司馬遷はロマンチストだったとも言われます。
悲劇的な人生を送ったせいか、史記で扱われるのは主君に尽くしたのに飢え死にするというような、無常感あふれるエピソードも多いのです。
マンガの主人公のような人生を送ったのが司馬遷であり、悲劇的な人物だっただけに同じく悲劇的な末路をたどった過去の人々に対して、強く感情移入している部分が見られる性格をしています。
まとめ
- 司馬遷は史記を書いた人物
- 司馬遷の一族は歴史や天体観測の専門家
- 司馬遷はエリート
- 司馬遷の師匠たちは高名な儒学者
- 司馬遷は若いころ中国のあちこちを旅した
- 司馬遷は武帝に仕えて、あちこちを旅した
- 司馬遷の父親は武帝の儀式のために準備していたが途中で病死した
- 司馬遷の父・司馬談が「史記の構想」を持っていた
- 司馬遷は暦の改定を主導した
- 司馬遷は孤軍奮闘した将軍を庇って罰を受ける
- 司馬遷は宮刑を受けてでも、父親の遺言である史記の完成を目指した
- 史記はおおむねフェアであり歴史の事実を探求したものである
- 司馬遷の性格はかなり熱いロマンチストのようである
司馬遷の人生は旅と悲劇と一族の悲願である歴史の探求に彩られています。
宮刑に処されるという屈辱に耐えてでも、自分の目的を達成してみせた人物です。
司馬遷の根性あふれる性格のおかげで、我々は古代の中国における歴史を垣間見ることができます。
司馬遷の残した歴史への影響はとても大きなものなのです。
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