人類発祥の地であるアフリカには遺伝的な多様性と、独自の文化をもった多くの民族が存在しています。
今回ご紹介するコイコイ人(旧来の蔑称はホッテントット)もアフリカにいる部族の一つです。
最も古くに分岐した遺伝子を多く残す、人類最古の人種とも言えるコイコイ人はどんな特徴や歴史をもつなのかを解説していきます。
目次
ホッテントット(コイコイ人)の特徴
コイコイ人はサン人と共に「カポイド」に分類される
コイコイ人は南部アフリカに住む民族であり、サン人(蔑称はブッシュマン)の人々と近しい遺伝子を有している存在になります。
コイコイ人とサン人を合わせて「コイサン人」と呼ぶ学術的な傾向も見られており、このコイサン人は人類最古の人種と言われています。
コイサン人の遺伝子は27万年前に他のグループから分岐したことを示しており、30万年ほどの歴史がある現生人類のなかでは「最も古いルーツをもつ人々」ということになるのです。
コイコイ人とサン人は「カポイド」という人種区分に分類されることがあり、これはネグロイド(黒人)、コーカソイド(白人)、モンゴロイド(黄色人種)、オーストラロイド(オーストラリア周辺の人種)と並び五つ目の人種とされることもあります。
ホッテントット(コイコイ人)の身体的な特徴
コイサン人の身体的な特徴はアジア人(モンゴロイド)のように頬骨が目立つこと、平たい鼻、アフリカの多くの人種のように縮れた髪の毛、黄褐色の肌、低身長などがあります。
また女性の場合は臀部(でんぶ/いわゆる「お尻」)に脂肪が多く蓄積することが特徴です。
なお臀部への脂肪の蓄積は、男性ではそれほど多くは見られない特徴になります。
ホッテントット(コイコイ人)の生活様式
伝統的なコイコイ人のライフスタイルでは、彼らは牧畜を行い牛やヤギ、ヒツジなどを飼っています。
遊牧民として牧草地帯を移動するのが伝統的なコイコイ人の人生でしたが、大規模な放牧は19世紀~20世紀のあいだにほとんど行われなくなります。
伝統的な遊牧生活を送るために、コイコイ人の家は持ち運びできるものでなくてはならないのです。
そのためコイコイ人の家は細い棒と布で作られた簡素なものであり、これは家畜の背に乗せて運ぶことに適したものになります。
コイコイ人は遊牧生活者であり各放牧地に数週間ずつ滞在しながら牧畜を行っていたのです。
近しい民族であるサン人(ブッシュマン)たちが狩猟採集を行うハンターであることとは対照的な暮らしを行っています。
ホッテントット(コイコイ人)とサン人(ブッシュマン)の違い
コイコイ人の社会では家畜たちのなかでもとくに牛が「富の象徴」として扱われています。
家畜の牛を多く所有していることは名誉になり、財産の多さを証明するものです。
コイコイ人は牛を食べますが、家畜として放牧している自分の牛を食べるケースは「飼っていた牛が死亡したとき」や結婚式や葬儀などの「特別な儀式」のさいに限られます。
なお狩猟の結果として野生の牛を捕らえた場合は食べ、あるいは敵から略奪した牛も食べることがあるのです。
コイコイ人も狩猟を行いますが、あくまでも牧畜がベースとなっています。
牛が「富の象徴」であるようにコイコイ人の集団には貧富の差が存在しており、家畜は個人の財産として保有が認められているのです。
サン人たちの平等に分かち合う文化とは真逆になりますが、コイコイ人の富裕層は貧困層に牛乳などを提供することもあります。
コイコイ人のほうがサン人に比べて豊かな生活を送っており、両者のあいだには闘争や衝突の歴史があります。
ホッテントット(コイコイ人)の文化
富裕層は豊かさを示すためのファッションとして、上半身に動物性の脂を塗ることもあります。
サン人と同じように革製の服を着ることもあります。
コイコイ語はヨーロッパ人に発音することが出来ず、聞き取ることも難しい言語です。
コイコイ人が踊りのときに用いていた「ホッテントット」というかけ声を、ヨーロッパ人はコイコイ人を示す名詞にします。
コイコイ人という民族名の語源は「人のなかの人」あるいは「人間」という意味のものであり、その名前には誇り高さが宿っているものです。
月を重要視する宗教観をもっており、「ティアオブ」という創造主にして人類の守護を司る存在や、悪霊「ガウナブ」などが病気を引き起こすという宗教観をもっています。
現在は多くのコイコイ人の方がキリスト教かイスラム教を信じているのです。
ホッテントット(コイコイ人)の歴史
- 約27万年前:人類全体の共通祖先の系譜から分岐して、独自のルーツをもつ最古の民族として発展していく。
- 紀元前3万年より以前:アフリカ中西部から南部に広まる。
- 約2000年前:南アフリカ西部に到達。
- 3世紀頃:後から来た農耕系の民族に圧迫を受けるようになる。
- 1488年:ポルトガル人と遭遇する。
- 17世紀以降:西欧諸国の植民地の拡大と天然痘など、免疫のない外来の病気に苦しめられるようになる。遊牧生活や放牧などの生活が崩壊。
- 1659年~1660年:オランダ東インド会社などの植民グループとの「第一次コイコイ・オランダ戦争」。
- 1672年~1677年:第二次コイコイ・オランダ戦争。コイコイ側が敗北。
- 1799年~1803年:第三次コーサ戦争にコーサ側の勢力として合流。
- 1818年~1819年:第五次コーサ戦争。コーサ側の同盟勢力として戦う。
- 1829年~1856年:コイコイ側、欧州側の緩衝地帯として「キャットリバー」集落設立。
- 1846年~1847年:第七次コーサ戦争。キャットリバーのコイコイ武装勢力、強力な狙撃手として活躍。軍事力の表現が後の権利の獲得にもつながる。
- 1850年~1853年:ケープ政府への反乱。敗北するも人種的な衝突を回避するために、一定の権利を勝ち取る。コイコイ人の政治的な権利が付与される。南アフリカ、「人種」を問わない政治の確立が志される。
- 1880年代後半:黒人有権者の増加により白人が危機感を持ち始め、白人至上主義の政策が出来ていき、後のアパルトヘイト政策へとつながる。
- 1904年~1908年:ヘレロとナマクアの虐殺。ドイツ帝国軍による大量虐殺、追放による餓死、強制収容、人体実験。コイコイ人の最大勢力である「ナマクア」が10000人虐殺される。ヘレロ人24000~10万人虐殺される。
生き残ったヘレロ人勢力が北上しナミビア建国の布石の一つとなる。 - 1993年:ネルソン・マンデラにノーベル平和賞受賞。受賞理由は「アパルトヘイト体制を平和裏に集結させ、新しい民主的な南アフリカの礎を築いたため」。
サラ・バートマン:ホッテントット(コイコイ人)の見世物
サラ・バートマンは1770年代に南アフリカで生まれたコイコイ人女性です。
オランダ人農場主の奴隷として働いていたとき、渡英すれば金持ちになれるという儲け話に乗り、イギリス本国に向かいます。
コイコイ人の大きなお尻という身体的な特徴ゆえに、彼女は大道芸人「ホッテントット・ヴィーナス」として見世物小屋に並ぶことになったのです。
サラ・バートマンは、故郷に帰る機会に恵まれることはなくフランスへと移送されることになり、1815年にパリで亡くなります。
彼女の遺体はフランスの著名な博物学者であり医師であるジョルジュ・キュヴィエの「医学的な興味」のために解剖され、ホルマリン漬けにされた脳などの遺体の一部は博物館に1975年まで展示されることになったのです。
1994年、南アフリカ大統領ネルソン・マンデラによりサラ・バートマンの遺体の返還がフランス政府に要請され、2002年に南アフリカに返還されることになり200年近くぶりに故郷の地へと戻ることになります。
人種差別や人権への侵害、そして彼女への冒涜に満ちているとも評価することが可能なサラ・バートマンの人生は、歴史的な研究の対象となっているのです。
2018年、ケープタウン大学のメモリアルホールは、サラ・バートマンホールへと改名されています。
彼女の墓はコイコイ人に名前が由来する川、ガムトス川の近くに建てられています。
まとめ
- ホッテントット(コイコイ人)は人類最古の民族
- ホッテントット(コイコイ人)はサン人(ブッシュマン)と似ている
- ホッテントット(コイコイ人)の文化は遊牧民文化
- ホッテントット(コイコイ人)の女性は陰唇が長く、お尻が大きい
- 「ホッテントット」は侮蔑語
- ホッテントットは踊りの時にコイコイ人が使っていたかけ声が由来
- ホッテントット(コイコイ人)の歴史は戦いの歴史
- 大道芸人サラ・バートンは2002年に南アフリカに戻った
遊牧民であるコイコイ人の文化は、欧州各国の植民地政策の結果により大きく変わってしまうことになります。
アフリカの諸民族と同じように植民地政策に戦いを挑み、敗北と勝利を繰り返すことにもなった民族です。
コイコイ人は南アフリカという複雑な植民地戦争の歴史と人種差別の強い土地にいた民族であるため、その歴史は支配と人種差別との戦いの歴史でもあります。
人類最古の遺伝子を受け継ぐコイコイの歴史は、誇り高く勇ましいものなのです。
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