センチネル族とは?北センチネル島民の特徴や接触を拒む理由を解説

インドにある島の一つに北センチネル島という7キロ~8キロメートル四方の島があります。

この島には「センチネル族」と呼ばれる少数民族が暮らしているのですが、彼らは外部との接触をかたくなに拒んでいる民族です。

彼らはどうして外部との接触を拒んでいるのでしょうか?

今回はそんな北センチネル島の住民についてご紹介していきます。

センチネル族の基本的な情報

インド・アンダマン諸島にある北センチネル島の位置(出典:SAPIENS)

接触が難しい民族である

センチネル族と外部との定期的な交流は現在では全くありません。

センチネル族が武器を使ってまで接近を拒んでいることと、もしも不用意に近づけば殺されることもあるため外部の住民からしても近づくメリットがないからです。

センチネル族との交流がもつ価値は民族学的な研究しかないことが、彼らに対しての積極的に試みる理由の低さにもつながります。

北センチネル島そのものにも現在では大きな経済的な価値が見込めないため、インド政府なども接触を強く試みる理由がないのです。

また接触の機会が限られる理由の一つとして、センチネル族が使っている言語を誰も理解できないというものもあります。

近隣の部族が使っている言語もセンチネル族には通じないか、もしくは仮に通じていたとしても敵対的な態度でしか反応が返って来ないのが現状です。

接触するメリットがなく対話も出来ず、センチネル族自体が交流を歓迎してもいないため、センチネル族との交流は行われていません。

センチネル族は近づくと弓や槍で攻撃してくることがある

弓を構えるセンチネル族(出典:Conservation Watch)

北センチネル島に接近するとを射られたりを投げつけられる、もしくはなどを投げつけてくるなどの攻撃を受けることがあります。

ヘリコプターによる接近や船での接近にも攻撃を行うことがあり、それらはセンチネル族の「近づくな」というメッセージを強く感じさせる行動と考えられるものです。

しかし領土内や居住地への許可を得ない接近に対して攻撃を受けることは、先進国を含めて一般的な行動でもあるため、彼らがその攻撃にどのようなメッセージを持っているかは議論の余地があります。

センチネル族に接近しても、彼らから攻撃されないことがあるからです。

攻撃されなかったケースの多くは貢ぎ物を差し出したときになり、コミュニケーションを築いても貢ぎ物を渡さなくなると攻撃されるようになる場合があります。

センチネル族の人口

センチネル族の人口は謎に包まれています。

資料や人口調査が行われた時期によって、観察された人口は大きく異なるからです。

目視による正確な確認では最少で15人というものもあり、予測を含めたものでは80から150人程度、最大でも500人ほどと考えられています。

調査が困難な理由は近づけば攻撃されること、攻撃に耐えて接近したとしてもセンチネル族の人々が逃げるか隠れるという行動に出るからです。

それでも北センチネル島はそれほど大きくなく、およそ60㎢しかないため、センチネル族のライフスタイルでは500人以上が生存できるとは考えられていません。

一般的にはセンチネル族の人口は100~150人であろうという考え方が多くの支持を集めています。

センチネル族の外見的な特徴

見た目は黒人ですが、その身長は男性で160センチほどであり全員が痩せています。

これには二つの説があります。

センチネル族が低身長である理由
  • 栄養環境が悪いための低身長:栄養を多く取れるような環境でないために、大きく成長することが出来ていないだけという考え方です。
  • 遺伝的な特徴:島などの栄養が多く取れない環境では、高身長であることがリスクとなる場合があります。「大きいと燃費が悪い」のです。そういった場合においては、高身長者が死亡しやすく、小柄な低身長者が多く生き残り、子孫を多く残すことで低身長者の多い集団が出来ます。

どちらの説にせよセンチネル島の食生活はあまり豊かさを感じないものです。

センチネル族の生活様式

センチネル族は狩猟採集を行っており、農業の痕跡は今のところ発見されていません。

センチネル族はを釣ったりを拾ったりすることで食料を得ており、カヌーを作り海に出ていることもあります。

衣服やアクセサリーは植物を加工したシンプルなものになり、ほとんど全裸に近い状態です。

木材を加工してカゴやバケツを作ったり、漁網なども作り、簡素な家屋を建てています。

火を使うこともあると考えられていますが、どのような料理を行うのかは判明していません。

なお火の使用には諸説あり、使っていないのではないかという説もあります。

しかし家屋が火事で焼けていたという目撃情報もあり、また最も古い目撃情報の一つでは18世紀に北センチネル島で多くの灯火を見たという船乗りの記述も残されています。

ほぼほぼ全裸であり弓や槍などを武器や狩りの道具に使うという、基本的に石器時代と同じようなライフスタイルです。

しかし金属についての知識はあり、北センチネル島に流れついた船などから金属部品を回収して矢の部品に加工してもいます。

また漂着物だけでなく外部から接触をはかった人々からの貢ぎ物などを使用してもいるため、石器や木製の道具しか使っていないというわけでもないのです。

彼らが用いている道具の多くに金属を使った加工の痕跡が見つかってもいるという研究もあるため、金属を日常的に使っているのではないかとも考えられています。

センチネル族の起源?

センチネル族は約6万年前から北センチネル島に住んでいるという説もあります。

あるいはそれよりも最近(過去数百年のうちに)になって移住して来た、あるいは他の地域の住民が海で遭難して流れついて居住するようになったとも考えられ、それらの説がより多くの支持を集めているのが現状です。

北センチネル島に人が居ることを遠方から目撃した最古の記述は1771年になり、最初に接触が行われたのは1867年になってからになります。

それ以上の古さとある程度の正確さを持つ情報はありません。

しかし北センチネル島周辺に住む先住部族の一つであるオンゲ族には「金属を得るために北センチネル島へ出かけた」という伝承もあるのです。

周辺の部族にセンチネル族の子供が拾われて育てられた、あるいは漂着していた者が居つき、しばらく生活していたという話も散見されてはいます。

センチネル族への接触を試みたが失敗した人たち

センチネル族に殺されることも多い

センチネル族に不用意に近づくことはを意味します。

1867年の最初の接触でも攻撃が行われました。

座礁したインド商船の乗組員に対して、センチネル族から金属の矢による攻撃が行われ応戦して生き残ったと伝えられています。

北センチネル島周辺はイギリスがインドを植民地支配していた時代は流刑地(島ごと監獄にしたような形)でした。

そのため、ときおり脱獄囚が北センチネル島まで渡っていましたが、追跡した刑務官らは矢で射殺された脱獄囚の死体を発見しているのです。

センチネル族に殺された密漁者

2006年には密漁をしていた漁師たちの船が北センチネル島に偶然流れついてしまい、そのまま密漁者たちは帰って来ませんでした。

彼らはセンチネル族の戦士によって殺害されてしまい、その遺体はしばらく竹の棒をつかいカカシのように飾られています。

その後、遺体はセンチネル族の手により埋葬されましたが、遺体を取り戻そうと近づいた沿岸警備隊に対して攻撃が行われたため、遺体を取り戻すことは出来ませんでした。

この事件の影響は大きく、センチネル族に対する暴力的なイメージにメディアが飛びつくことで、センチネル族は有名になっていきます。

メディアからすれば死者を弔うセンチネル族よりも、攻撃的なセンチネル族という商材の方が価値が高かったのです。

センチネル族に殺された宣教師

ジョン・アレン・チョウ

ジョン・アレン・チョウ(John Allen Chau)というアメリカ人の宣教師が、2018年に北センチネル島に不法に接近して殺害されています。

センチネル族にキリスト教を布教しようと考えた殉教志願者である彼は、一度の攻撃にもめげずに再びセンチネル族に接近、ついには殺されてしまったのです。

アメリカ人である彼の死は、インド政府にとって大きな外交上の問題になります。

最悪の場合はアメリカ軍がチョウの遺体を回収するためにインドの主権を侵しつつ、センチネル族を虐殺して遺体を回収するケースが起きえるからです。

チョウに協力した人物が複数名逮捕されるような大事件となり、チョウの遺族が彼の遺体を回収することを望まなかった結果、最悪のケースは回避されています。

チョウの行動には善意があったのかもしれませんが、センチネル族にとっては絶滅する最大の危機であったことには間違いのない行動です。

センチネル族とインド政府

インド政府は領土内に住むセンチネル族との接触を試みて来ましたが、結果としては上手く行かずに終わっています。

センチネル族は攻撃的な対応も多く、コミュニケーションを取ることが難しいからです。

インド政府は北センチネル島へ上陸したあとで、島の一部にインド領であることを主張するプレートを建てて撤退しています。

北センチネル島がインドの領土だと主張しなければ、天然資源や領海を求める他国に侵略されるリスクがあったからです。

現在ではセンチネル族は事実上の自治権を認められている集団であり、インド政府もセンチネル族に対する積極的な介入は行っていません。

疫病が流行るか大規模な災害に対するサポート、遭難者への救助などといった目的でのみ接触が合法化されています。

偶発的な遭遇はそこそこある

漁船や商船などに対してセンチネル族が接近してくることもあります。

座礁した船に対して、彼らは武装して接近することもあり、海上警備隊が出動する騒ぎも発生しているのです。

センチネル族の目的は金属と食料になり、接近された船の乗員たちは襲われないように食料を渡したり、船の一部が破壊されて金属片として回収されることを黙認しています。

ですが近年は島の周辺に近づくことが禁じられているため、偶発的な遭遇は減ってもいるのです。

センチネル族との接触に成功した人たち

TN・パンディットによるエスコート

センチネル族と交流を図るパンディット氏

インドの人類学者であるTN・パンディット(TN Pandit)は、1970年代からセンチネル族との交流を実現してきたエキスパートです。

パンディットはインド政府とセンチネル族とのあいだに立ち、彼らの橋渡しとして北センチネル島へ政府の高官や役人などを連れていきました。

パンディットは多くの任務を成功させ、センチネル族に貢ぎ物を送ることで島内に接近することを許されています。

しかしセンチネル族から攻撃を受けたこともあり、センチネル族が挑発的な行動(お尻を見せるなどといった行動)を取った場合は撤退しなければ、矢が飛んでくることを体で学ぶことになったのです。

ドキュメンタリー映画の撮影のために同行していた監督は、センチネル族の矢で太ももを射貫かれています。

パンディットは遠征チームに近隣の原住民族であるオンゲ族を連れていき、コミュニケーションを試みましたが失敗に終わりました。

センチネル族の言語は彼ら以外には理解できないものだということも、このミッションで明らかにされたのです。

マドゥマラ・チャトパディヤイによる「最初の平和的な接触」

センチネル族と交流を試みるチャトパディヤイ氏

インドの人類学者マドゥマラ・チャトパディヤイ(Madhumala Chattopadhyay)の率いるチームは初めて武装していないセンチネル族との接触に成功しています。

1991年に2回行われた遠征により、チャトパディヤイたちはセンチネル族との一種の交流を実現しているのです。

一度目の遠征はココナッツを貢ぎ物として渡して接近を試みましたが、戦士に矢を向けられることになります。

しかし矢を放とうとした戦士をセンチネル族の女性が妨害してくれたことで、事なきを得たのです。

インド政府の役人はココナッツの入った袋を手渡すことに成功しました。

二度目の遠征はそれから約2ヶ月後に行われ、センチネル族の戦士たちは武器なしで接近し、ココナッツの袋を取ります。

このときにセンチネル族はボートにあったライフルに興味を示し、それが鉄の塊であるということを理解しているようだと研究者たちは予想したのです。

チャトパディヤイたちとセンチネル族の交流は3年ほど続き、農業のない島にココナッツを植樹しようという計画もありましたが頓挫しています。

一部の研究者たち以外としか有効な接触が行えない状況であったこともあり、インド政府は積極的な介入をセンチネル族には行わないことを選択したのです。

センチネル族が接触を拒む理由

接触を拒む理由①疫学的なリスク?

センチネル族などの外部との交流のない民族には、外部で流行している、あるいは過去に流行した病気の免疫を持っていないことが多くあります。

外部との接触によりセンチネル族には多くの病気が蔓延し、そのまま死に至るというリスクがあるのです。

19世紀に行われた最初期の接触では、イギリス人がセンチネル族の一家を比較的友好に拘束して自宅に招きましたが、すぐさま一家の大人たちが病気にかかり死亡しています。

そのイギリス人はあわてて一家の子供たちに多くの食料を渡して島に戻したのです。

センチネル族には他の閉鎖的であった民族と同じように、外部の病気に対して弱いという危険性があります。

過去におきた外部との接触により病気が蔓延した歴史が、センチネル族にあるのかもしれません。

そして少なくともインド政府を含む外部は、そのリスクを重要視しています。

外部からの不用意な接触は100人ほどしかなく、医療技術もないセンチネル族を病気で絶滅させるリスクは十分にあるからです。

接触を拒む理由②風習あるいは文化

貢ぎ物をつかった接触以外では、あるいは貢ぎ物をつかったとしても近づくことをセンチネル族は好まないケースが多々あります。

そういった攻撃的な文化であるとも予想されるため、不用意な接触は誰にとっても利益とならない危険があるのです。

センチネル族と外部が接触しない方がいい理由

そもそもセンチネル族と外部の接触には上述した疫学上のリスクは常に発生します。

また原住民族の多くは現代社会との接触により崩壊しているという現実もあるわけです。

学力もなければ貧しいため、現代社会との融合は原住民族に多くのデメリットを来たし、その文化や集団そのものを崩壊させるケースが多発しています。

疫学上のリスクと、民族学上で固有かつ古来の文化が消滅するリスク、その二つからインド政府はセンチネル族との接触を禁止しているのです。

多くの人類学者たちはセンチネル族と現代社会は距離を保っていた方がいいのではないかと主張し、インド政府の方針をフォローしています。

こういった主張を実現させるためにも、インド政府は「攻撃的なセンチネル族」というイメージがメディアに使用されることを黙認してもいるのです。

攻撃的な民族であれば、不用意に近づく者が減るためセンチネル族の生活を保てるからになります。

インド政府は過去の接触における平和的な交流の写真のいくつかが使用されることに制限をかけていますが、それはセンチネル族の平和を保つことにもつながっているのです。

センチネル族と交流

大規模災害後などの調査では比較的に平和な接触が行われたという報告もあり、攻撃されずに済んだケースもいくつかあるのがセンチネル族の特徴です。

見せしめにつかった死体も埋葬したり、しつこい接触でなければ威嚇(いかく)で済ますという行動も見られます。

ヘリコプターに手を振って友好的にあいさつをしたなど、イメージとは異なる行動をするときもあるのです。

センチネル族は過去には周辺の民族と交流していたのではないかという説もあります。

なお交流を実現した人類学者たちはセンチネル族を「平和的な民族である」とも発言しているのです。

まとめ

  • センチネル族の人口は15~500人
  • センチネル族は攻撃的な面があり、接近すると殺されることもある
  • 狩猟採集の暮らしで、農業はしていない
  • カヌーを作る
  • 原始時代のような暮らしをしているが金属は使う
  • センチネル族の言語は他の誰にも分からない
  • センチネル族は小柄な黒人
  • 外部との接触拒む理由は疫学的なリスクのためと考えられる
  • センチネル族との接触はインド政府に制限されている

狂暴なイメージを与えられることが集団の平和につながることもあり、センチネル族はそういった集団の一つです。

彼らにとっては接触は多くのリスクを含んでおり、このまま原始的な生活をして過ごすことが幸せなのではないかという人類学者もいます。

またセンチネル族は18世紀の頃から金属を矢につかっているともされ、周辺の民族にも北センチネル島と金属を結びつける伝承もあるのです。

彼らが歴史的には孤立していなかった可能性もあるため、研究が進めば人類学的な成果もあるのかもしれません。

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