皇帝ネロとは: 生い立ちや「暴君」と言われた理由について解説  

皇帝ネロは、「暴君」の名で有名なローマ帝国の第5代皇帝です。

残虐で傍若無人、多く人々を殺害したことは有名ですが、彼の蛮行の詳細を知っている人は少ないのではないでしょうか。

この記事では、ネロの暴君たる所以や、彼の生い立ち、名言、どのような最期を迎えたのかを語りたいと思います。

暴君によるキリスト教徒弾圧

まず、ネロの暴挙として挙げられるのは、人類史上初めてのキリスト教徒迫害を実行した事です。

ネロ以前の皇帝の時代、キリスト教の使徒の迫害はたびたび行われていましたが、一般の信者を含めたキリスト教徒の弾圧を行なったのはネロ政権下が初めてとなります。

また、ネロは初代ローマ教皇であるペトロを迫害し、逆さ十字架にかけたことでも有名です。このため、キリスト教文化圏を中心にネロに対する評価はとても低くなっています。

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ネロの生い立ちと暴君と呼ばれる理由

キリスト教徒迫害以上に、こちらのほうが有名だと思われますが、ネロは親族など近しい人々を多く惨殺しました。

このように傍若無人なネロがなぜ皇帝になれたのか、その理由は彼の生い立ちにあります。

ネロの幼少期と野心家の母アグリッピナ

ネロは37年に、現在のイタリアのアンツィオにて生まれました。
ネロの父親はドミティウス、母親はアグリッピナと言います。

父はマルクス・アントニウスの孫で、母のカエサルの姪の子孫にあたる、家柄に恵まれた人物でした。

アグリッピナはネロと同じく暴君と名高い第3代ローマ皇帝・カリグラの妹で、ドミティウスはカリグラの義理の兄弟にあたります。

ドミティウスはネロの誕生からわずか3年で亡くなり、その後アグリッピナは第4代ローマ皇帝・クラウディウスの皇妃となります。

彼女は自らの息子ネロを帝位につけるため、当時の法律で禁止されていた叔父のクラウディウスとの婚姻を無理やり通しました。

クラウディウスの養子となったネロは皇位継承者のひとりとなりました。クラウディウスは有能な政策家ではありましたが、あまりに多忙で妻の行動を管理できずにいました。

アウグスタという権力の象徴とも言える称号を手に入れたアグリッピナは、自分の野心、すなわちネロを皇帝にさせるべく、ネロの側近として、哲学者として有名なセネカを登用しました。

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皇帝ネロの治世のブレーン、セネカ

セネカはネロの幼少期の家庭教師としても知られ、「5年の良き時代」と呼ばれたネロの治世初期にブレーンとして支えた人物です。

アグリッピナはクラウディウスの死後、ネロを帝位につけた後も執拗に干渉をし続けました。

そして、皇帝として独立心を持ち始めたネロに邪魔な存在だと扱われるようになります。アグリッピナは別の皇帝を擁立するなど、次第にネロと対立するようになり、これによりネロの治世が徐々に傾いていきます。

息子を皇帝にすることに尽力したアグリッピナは、治世を巣食う存在となり果て、最期には息子の手で殺される運命を辿ります。
 
また、セネカはネロを退位させ、別の人物を擁立する陰謀計画に加担したとしたとされ、ネロが派遣した役人に尋問される羽目になります。曖昧な供述を繰り返すセネカに、ネロは自殺を命じました。

横暴な皇帝を助け、彼に道徳を説いた聡明な側近は、悲惨な最期を迎えることになります。

暴君は妻に自殺を命じた

時系列が前後しますが、ネロの最初の妻オクタウィアは不倫をしたとして、自殺に追いやられています。

オクタウィアは第4代ローマ皇帝・クラウディウスの娘で、つまりネロの義理の妹にあたります。

この婚姻は母アグリッピナに押しつけられる形で決まったものである上に、オクタウィアがなかなか子供のできない体質だったため、ネロに不貞を疑われたのでした。

ネロは異常な性癖の持ち主だった

身内を多く殺害した残忍な人物のレッテルを貼られたネロですが、彼の性癖なども異常でした。

ネロは花嫁衣裳を着て解放奴隷の男性と結婚式をあげたという話があります。

また、スポルスという美少年を去勢させ妻に迎え歴代の皇后の装身具で着飾らせたそうです。
 
前述した母親のアグリッピナと肉体関係にあったり、オトという男の親友と男色関係にあったそうです。

ちなみに、ネロの次の妻ポッパエアはもともとこの友人オトの妻でありましたが、公然とネロと愛人関係にありました。

ネロがポッパエアを妻に迎えた際、オトとの関係は破綻したようです。

暴君ネロの自殺

多くの殺戮や理解しがたい性癖を持ったネロですが、その最期は意外と普通であったようです。

ネロの亡くなった年に起こった反乱の終結後、穀物の価格が高騰したローマで、輸送船が食料ではなく宮廷格闘士用の闘技場の砂を運搬してきたという事件が報じられました。

このため、ネロは市民の反感を買いました。

そして、皇帝の支持率の低下を機に、ネロと対立していた元老院はガルバという新たな皇帝を擁立しました。

国家の敵とされたネロはローマ郊外へ逃亡し、自らの喉を剣で貫き自害しました。

芸術家ネロの名言

そんな、ネロの名言として知られているのが

「この世から一人の偉大な芸術家が消え去る」

というものでした。

美しいものを愛したネロは、芸術の愛好家としても有名です。数千人及ぶ観衆を集め、ワンマンショーを行なったり、音楽、体育、戦車の3部門から成り立つネロ祭を創立しました。

ネロ祭には元老院が止める中、皇帝自ら出場するなど、とても愛嬌のある人物でもあったようです。

ネロには名君の一面もあった

ネロは自身の悪口を言った元老院議員を処刑したり、簡単に人の生死を左右させてしまう面があるのは確かですが、暗愚な皇帝ではありませんでした。

首都ローマで起こった大火災である、ローマの大火後にネロが陣頭指揮した被災者の救済や、ドムス・アウレア(黄金宮殿)の建設を含む、市内の再建は市民受けのよい政策でした。

また、前述したキリスト教徒の迫害についてですが、当時のローマ帝国内では、ローマ伝統の多神教が存在し、そちらを信仰する市民が大多数であり、必ずしもネロが批判されていた訳ではありませんでした。

先ほどネロは逃亡した末に自殺したと述べましたが、国家の敵とされた彼の墓に多くのローマ市民が花や供物を捧げたそうです。

また、新皇帝ガルバに反抗し、その次の皇帝となったオトは、ネロの死後に火災で失われたドムス・アウレアの再建を許可しました。

そして、オトの次の皇帝ウィテリウスはネロの慰霊祭を行い、市民を喜ばせました。

まとめ

ローマ皇帝ネロの生い立ちや、暴君・名君と言われた理由を見ていきましたが、いかがでしたか?

皇帝ネロは確かに一面では暴君であったかもしれません。

しかし、見方を変えれば、市民に愛された名君の一面も持ち合わせていたとも言えるでしょう。

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