後ろ髪を細くて長い三つ編みした、中国人のキャラクターを映画やアニメなどのフィクション作品で見かけたことのある方は多いと思います。
古い中国の髪型としての認識を有しているヘアースタイル、それが辮髪(べんぱつ)です。
今回は、その中国古来の辮髪についてまとめました。
興味深い歴史と文化のひとつをご紹介いたします。
目次
中国で辮髪はなぜ行われたのか
どの民族が始めたの?
現在の中国には、多くの少数民族の方も住まわれているわけですが、大多数を占めているのは漢民族です。
中国人=漢民族の図式は間違いでもないのですが、じつは辮髪の文化を始めたのは漢民族ではありませんでした。
辮髪を行っていたのは、遊牧民である北方の騎馬民族たちとされています。
農耕が盛んな土地に比べて、遊牧生活では水資源の利用が困難となるために、遊牧を行う騎馬民族たちは、辮髪という大きく頭を剃り上げたヘアースタイルを使い始めたのではないかという説もあります。
戦闘的な彼らは兜をかぶるために、頭部が蒸れてしまいます。その状況を改善するために辮髪を用いるようになったのではないかという説もあるわけです。
日本においては江戸時代のヘアースタイルである丁髷(ちょんまげ)も、由来は兜をかぶった時に蒸れずに良いから作られたという説があります。
昔の装備品に、頑丈さと通気性が兼備されていたとは考えにくいため、辮髪もその説が正しい可能性は十分に考えられそうです。
どうあれ、辮髪は騎馬民族の文化であり、もともとは漢民族の文化ではありませんでした。
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辮髪令:辮髪が漢民族にも広まった理由
髪を切るか、首を斬られるか
文殊菩薩を信仰する女真族(じょしんぞく)たち。
やがては文殊をもじった響きである満州族(まんしゅうぞく)と名乗ることにもなる彼らは、中国の東北部にいた騎馬民族でした。
しかし、17世紀、彼らは南下して巨大な帝国を築くことになります。
清帝国の誕生です。
清が建国されたとき、支配民族である満州族たちは、自分たちが支配するようになった農耕民族たちにも辮髪を強制することになります。
何故かと言えば、一種の敵味方の識別です。
自分たち満州族に対して、従順であることを示させるために、自分たちの辮髪を支配している漢民族たちにも強制させることしました。
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漢民族はもともと辮髪ではない
漢民族は儒教文化を強く有した民族であり、儒教の教えには親孝行の概念が強いことは今でも有名です。
17世紀当時の漢民族たちには、さらに儒教の戒律が強く、親からもらった体をみだりに傷つけてはならない、という考え方が一般的でした。
そのため、髪やヒゲも切ることはなく、長く伸び放題にして頭部で結わえたりしていました。
満州族は、漢民族に対してその文化を止めさせてまで、自分たちの文化に従わせようとしたわけです。
辮髪にしなかった者は、敵対者として首を刎ねる。髪を切った者は仲間として認める。
髪を切り支配を受け入れるか、支配を受け入れずに首を斬られるか。
どちらかを選ばされる、それが辮髪令(べんぱつれい)でした。
強権的な命令ではありますが、辮髪を受け入れた場合には科挙制度などの存続が許されるなど、政治や権力への参加の道さえも漢民族には保証されるという懐柔策も同時に行われています。
満州族たちも、漢民族が持っていた文化や政治スタイルを完全に破壊したかったわけではないのです。
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辮髪を受け入れた漢民族たち
首よりは髪を切ることを選んだ
さすがに殺されるよりは、さすがに髪を切ることを圧倒的大多数の人々が受け入れました。
最初はかなり大きな抵抗はあったようですが、漢民族も辮髪になることを許容します。
そして、長い時間が過ぎていくあいだに、辮髪に対する嫌悪感は薄れて、それが一般的なヘアースタイルであるという認識が広まっていきました。
価値観が変わっていったわけですね。
文化の変容がそこにはあったわけです。
満州族側の文化も漢民族寄りに変わった
漢民族に自分たちの辮髪を押し付けていた満州族(女真族)でしたが、彼らの文化もまたそのありようを変えていきます。
漢民族の文化を受け入れていき、どんどん漢民族寄りの価値観を持つ存在に変貌していったのです。
文化が混ざり合って、新たな文化を形成していったわけですね。
そして、辮髪のスタイルも変わります。
当初は髪を剃り上げる場所が多かったのですが、徐々に剃る範囲が狭くなっていきました。
お互いの文化が影響し合った結果、お互いの文化の距離感は狭まりました。
満州族が漢民族に禁止したもの
満州族の正装は、漢民族には禁止した
チャイナドレスとして有名な、袖口の大きく、コートのように上着の丈の長いゆったり目の服があります。
あれらは満州族の正装であり、清の時代においては、満州族は漢民族にそれを着用することを禁止していました。
支配層と支配される層の違いは、明確に存在していたわけですね。
漢民族からすると、なかなか着ることの出来ない正装であり、唯一、死亡したときに、埋葬される際にはその衣装となることを許されていました。
そのため、憧れの衣装とされていたようで、清が滅びてからは皆が普段からも着るようになったりしたわけです。
服装は権威の象徴でもありますから、コンプレックスを満たしたり刺激したりするものの一つでもあったりしますからね。
服装一つにも歴史が含まれているものです。日本の着物も、古くは呉服と呼ばれていましたが、あれは三國志でも有名な呉の服に似ていたからそう呼ばれていたりします。
辮髪のその後:現在は?
清の末期になると、孫文に影響された革命軍が「打倒・清!」を目的に辛亥革命(1911年)を起こしたことで、辮髪の制度は終焉を迎えることになります。
同年末、孫文が中華民国大総統に就任し、翌1912年には溥儀が退位し、清は滅亡。清のシンボルであった辮髪は廃れることになりました。
作家・魯迅の『風波』には、当時香港にいる中国人の市民たちが一斉に短髪に変える様子を描いています。
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辮髪のやり方
古式の辮髪
古式の辮髪、つまり騎馬民族式の辮髪は、頭頂部のわずかな範囲と前髪と耳回りの髪を少し残し、ほとんどの髪を剃り落とします。
そして、頭頂部の髪を三つ編み状に結っていき、長く伸ばして完成です。
清の初期
清の初期で行われていた辮髪は、頭頂部の髪以外を剃り落とし、そこの髪の毛を伸ばしていきます。
清の中期
清の中期では、頭頂部よりやや後ろの髪を残して辮髪を結うようになりました。
清の後期
清の後期以降では、後頭部の髪は剃らずに、後頭部の髪で辮髪を結うようになっていきます。
上述したように、剃り落とす範囲は狭まり、形状もだんだんと変わっていったわけです。
辮髪のメリット
天然繊維による防具!?
長く伸ばす理由は漢民族たちには儒教的な考えもあったでしょうし、満州族たちも長く伸ばした辮髪をマフラーのように首に巻き付けることで、戦闘時に敵から浴びる刀の一撃を、髪で防いだとも伝わってもいるのです。
孝行にしても戦闘用の防具としての考え方にしても、辮髪を伸ばすことのメリットは存在してはいたわけですね。
しかし、髪に防具としての価値があったのでしょうか?
ロープ状に結わえた髪であれば、刀をもってしても一刀のもとに切り裂けなかった可能性はあるかもしれません。
馬上で使われていた刀は曲刀が多く、撫で切るような使い方をする武器です。
辮髪のおかげで無傷だったという奇跡的な結果はなかったかもしれませんが、致命傷が大ケガで済んだことぐらいならあったかもしれませんね。
動物性繊維の強さ
動物性繊維の強さはバカになりません。古代の西洋には布の鎧なるものだってありました。金属の鎧が発達するより前は、薄い金属は矢を簡単に通しました。
それに比べれば植物の繊維で編んだ布を重ねて作った装備のほうが、矢を完全に止めることは出来なくとも、深く刺さることを防げたのです。
体毛で己の首を守る有名な動物には、ライオンの雄もいますしね。無いよりはあった方が戦場で命拾いをしたのかもしれません。
まとめ
- 辮髪は騎馬民族であった満州族の文化
- 漢民族には首を斬るか髪を切るかと迫った
- 辮髪も時代を経て形を変えていった
- 清の滅亡と共に、辮髪制度も廃れた
- 辮髪には防具に使ったという説もある
今回は中国の伝統的なヘアースタイル、辮髪についてご紹介いたしました。
騎馬民族の価値観であったことや、それを徐々に受け入れていき、やがては自分たちの文化として馴染んでいったことなど、価値観や文化の変遷は面白いものですね。
服装や髪型、持ち物でヒトの身分を示すことは、洋の東西を問わず存在した行いであり、ときに差別に使われることもありました。黒人は半ズボン着用義務とか、ある民族はこの色の服を着ろといったところです。
辮髪も歴史において大衆に嫌われたり好まれたり、政治に使われたりと、歴史において様々な価値観のもとに立場を変えた存在の一つです。
文化を支配の道具に使うという、ヒトが良く行う悪癖の典型的なケースの一つとして、辮髪を評価することが出来るかもしれませんね。
辮髪を学ぶことで、歴史だけでなく、ヒトがヒトを支配するということの悪辣さも学べるかもしれません。
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