昔の中国には「宦官(かんがん)」と呼ばれた人々がいました。
彼らは去勢された男性たちであり、中国の皇帝の後宮に仕えた奴隷たちになります。
身分こそ低い宦官でしたが、宦官たちのなかには権力や富を手にする者も現れます。
どうして奴隷に過ぎない宦官たちが出世したのでしょうか?
今回は中国の王朝を支え、時に腐敗させた宦官について解説していきます。
宦官はなぜ生まれたのか?
異民族を絶滅させるための刑罰?
宦官は男性器を切除するという去勢手術を受けた人々のことです。
その始まりは捕虜や奴隷としていた異民族の男に対して、子孫を残さないようにした刑罰だったとされています。
儒教の思想がある中国においては、体の一部を欠損させることは大きな罪悪です。
髪や髭さえも切ることをためらうような文化においては、体の一部を切り落とすことは厳罰に相応しいものでした。
死刑に次ぐ重罰として宦刑が生まれ、宦刑を受けた者として宦官は誕生したのです。
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宦官が後宮に仕える
去勢後の異民族の奴隷を皇帝への「貢ぎ物」として献上します。
その奴隷=宦官を受け取った皇帝は、彼らに自分の身の回りの世話をさせるようにしました。
皇帝とその妻子たちが住むプライベートな空間である後宮に、普通の男性を入れることは妃との不倫などが起きてしまう危険がありますが、宦官であればその危険はないからです。
宦官は奴隷として皇帝に仕え、皇帝の身の回りの世話をするようになりました。
中国の王朝では皇帝の権威は絶対的なものであり、役人や貴族たちが会議で決めた法律よりも皇帝の言葉の方が強いわけです。
そんな最高権力者の身辺に仕えている宦官たちは、たとえ身分が低かろうとも、皇帝に気にいられた瞬間から大きな権力や富が手に入りました。
宦官制度の完成
宦官は制度化されていき、その役割はただの奴隷・召使いというものから遠ざかっていきます。
宦官は料理、掃除、洗濯といったものから、身辺警護や皇族への教育係、礼儀作法の指導教官、役人や官僚の監視、皇帝と重臣たちの連絡係と、その仕事内容は重要性を深めていったのです。
皇帝からすれば自分の手足となって働いてくれる宦官は、頼るべき有能なスタッフでもあったわけです。
また子供時代から宦官により育てられているため、最も身近であり信頼できる人々でもありました。
こうして宦官は皇帝に近しいスタッフとして制度化され、その権力を強めていきます。
宦官になるために去勢を行なう者が続発
昔の中国で皇族や貴族以外の「一般人」が出世する方法には学問を修めて科挙(かきょ)という学力試験に合格し、役人・官僚になるという道がありました。
もしくは、兵士になって軍事的な功績を立てることでも出世することはできましたが、学力が古来から重視させる文化であったため、軍人の立場は科挙合格者には及びません。
科挙を合格できる者は少なく、また学問をすることにも費用がかかった時代であるため、貧しい家庭に生まれれば事実上、役人になれる可能性はありませんでした。
兵士になったとしても戦乱が起きていなければ出世する機会もないわけです。
そんな時代でも一般人が出世できる唯一の方法として、宦官になるという道があったのです。
自ら去勢を行い、宦官として志願し、皇帝の奴隷・召使いになるわけです。
上手く行けば大出世して権力を手にすることも可能であり、出世できなかたっとしても仕事と報酬はあります。
一般人として貧しく日々を過ごすぐらいなら、宦官になったほうが良い暮らしだったわけです。
五代十国のひとつである南漢国では、その総人口である100万人に対して宦官は最高で2万人いたともされます。
つまり男性の25人に1人が宦官だったような国も、中国にはあったわけです。
統一王朝の時代では一般的に1000人前後でしたが、明の時代には10万人にも膨れあがり、補充のための試験に応募者が2万人に達したこともあります。
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宦官制度が長く存続した理由
宦官制度は皇帝という地位と結託していきます。皇帝にとっては身近で信頼できるスタッフであるため大きく依存し始めます。
皇帝は宦官を密偵のように使うこともあり、反乱の兆しがある人物を探らせることもあったわけです。
そもそも平時であれば皇帝はヒマです。民主主義でもなければ選挙もなく、人権すらもない時代であるため、民衆のために働く必要もなければその気もありません。
自分を丁重に扱い、気分を害するような忠告をすることもない宦官に囲まれていることは気楽であり、都合が大きかったのです。
権力を濫用するなど腐敗の温床となってもいきますが、10万人の宦官がいた明王朝は300年も存続し、7000万人の人口を抱えていた大帝国です。
宦官に依存しようがしまいが、国は栄えることも滅びることもありました。
宦官がいることが国を衰退に導く根拠というより、たんに政治力と悪意を併せもった宦官が誕生したときが問題だったわけです。
著名な宦官たち
趙高(ちょうこう)
秦帝国を私物化して滅びに導いたともいわれる、悪評高い宦官。保身のために秦帝国の重臣らを処刑した。
「阿呆」と「馬鹿」の語源として有名なエピソードに関わっている人物でもある。「阿呆=阿房宮」、ムダに大きな宮殿を建ててしまったことから。「馬鹿」、「珍しい馬がいるぞ」と鹿を部下に見せて、「これは鹿です」と答えた者を後日、処刑している。
司馬遷(しばせん)
刑罰としての宮刑(きゅうけい)を受けたが、どうにか生き延びる。その後、歴史書である「史記(しき)」を書き上げるという偉業を達成した。宦官になりたくてなったわけではなく、罰だった。
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蔡倫(さいりん)
実用的な「紙」の製造方法を広めたという人物。かつては製紙法の発明者と考えられていたが、2006年に蔡倫よりも100年古い時代の紙が発見されている。現在は、製紙法の技術をまとめ、改良して普及させたという評価。
鄭和(ていわ)
12才の時に永楽帝の宦官として仕える。軍功をあげて出世し、船団を率いるまでになる。明の時代は「海禁令」が行われていたが、永楽帝は方針を修正、鄭和の船団は永楽帝の命で7度の大航海を行い、アフリカにまで到達した。
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王承恩(おうしょうおん)
明の最後の皇帝に仕えた忠臣。国の滅亡に際して裏切る宦官が続出するなか、最後まで皇帝に忠誠を尽くす。皇帝の子供たちを落ち延びさせるなどの工夫もこなし、最後は首を吊った皇帝の隣で自らも首を吊り殉死する。後に皇帝の墓の近くに葬られる。
董海川(とうかいせん)
「絶技的武林大師」。清代の武術家であり宦官、皇族の武術教師。貧しい家の出身だが、中国の著名な武術である「八卦掌」を創始した。八卦掌は道教の概念を表現した武術とも言われる。源流は海川の地元に伝わる武術、「八番拳」との説もある。
ロウアイ
「偽宦官」。始皇帝の母と関係を持っていたとされ、一時的に権力を発揮した。
中国以外で宦官を導入した国や地域
中国以外にも宦官と呼べる人々はいました。
朝鮮の王朝
中国と同じく宦官制度を導入している。
古代エジプト
プトレマイオス朝エジプトでは宦官が使用されていたとの記録がある。それより古い時代にもいたという説もあり、陰茎のないミイラも発見されているが、ミイラ化すると陰茎は失われやすくなるため正確なところは不明。
シュメール文明
宦官を示す言葉が8つも残されている。アッシリア、アケメネス朝ペルシャなどの、シュメール文化を継承した国家にも宦官はいた。
中国同様に去勢された奴隷や刑罰により去勢された者たちが宦官となり、後宮などに仕えていた。そのため出世し富を得た者たちもいた。
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古代ギリシャとローマ
古くは奴隷たちであり雑用に従事する者が多かった。帝制ローマ以降は高級官僚の世襲を防ぐために去勢し、宦官が活躍した。
東ローマ帝国
官僚として重用される。軍隊の司令官や東方正教会の総司教職にも宦官が使われている。東ゴート王国を征服した「ナルセス」も宦官である。
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アフリカ
一部の民族に去勢された兵士たちが使われていた。
キリスト教会
聖歌隊で少年の声変わりを防ぐために去勢が行われていた。
宦官が日本で広まらなかった理由
中国や朝鮮から多くの制度を採用してきた日本でしたが、科挙制度と同じく宦官制度も伝わることがありませんでした。
古代の日本は通い婚であり、実家に住んだままの妻の元を夫が訪ねる形式で子供が作られていたため、後宮という制度がなく、宦官が要らなかったという婚姻関係を背景にした説もあります。
他には大奥が誕生したとき将軍の乳母が権力を維持するために男の介入を拒んだという権力争いを反映したという説もあり、食肉文化がなく畜産技術のない日本においては去勢の知識がなかったためではないかという技術論的な説もあります。
去勢そのものは刑罰や僧侶の極端な修行法・節制法として日本でも行われていましたが、宦官制度を作ることはありませんでした。
まとめ
- 宦官は去勢した奴隷
- 後宮に入り皇帝に仕えた
- 出世の道であり権力を得ることもあった
- 人気職業であり、男性の4%が宦官だった国もあった
- 宦官には大悪人や忠臣、英雄や発明家、武術家や歴史家がいる
- 宦官はローマやギリシャや中東やエジプトにもいた
- 宦官が日本に伝わらなかった理由には諸説ある
宦官や去勢した人物は「子孫が作れない」という理由から、後宮やハーレムでの勤務者となり、ときに政治家の権力世襲を防止するための措置としても採用されています。
あるいは聖職者の地位を証明する方法や、声変わりを防ぐためにも去勢は行われました。
宦官には悪評も多くありますが、庶民からすれば人気職業であったり、善良な人物や有能な人々もいます。
去勢の有無で人の価値は変わることはなく、宦官という制度をどう利用したかで、当人の歴史的な評価がなされているだけに過ぎないのかもしれません。
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