世界には様々な民族がいて独自の文化だけでなく、歴史的な背景から伝統的な役割を持つ民族もいます。
「世界最強の兵士」とも呼ばれるのがネパール出身の「グルカ兵」です。
彼らは複数の民族から構成され、長年の伝統を継承している傭兵集団になります。
どうして彼らが「最強」と呼ばれているのでしょうか?
今回はグルカ兵の能力と歴史、最強と呼ばれるに相応しい伝説的なエピソードをご紹介していきます。
目次
グルカ兵の歴史
グルカ兵はネパールの山岳民族
グルカ兵という名前から「グルカ族」がいるように誤解されがちですが、じつはグルカ族という集団はいません。
グルカ兵は「マガール族」、「グルン族」、「ライ族」、「リンブー族」などのネパールの複数の山岳民族から構成されます。
グルカの語源はかつてヒンドゥー教の聖人であるゴラクナートから取られたものです。
ゴラクナートはヒンドゥー教の活動家でもあり、一種の戦士でもあります。
英雄であり聖人であるゴラクナートの名は王朝の名や民族の名前の由来となっているのです。
なお、サンスクリット語でのグルカの意味は「牛を守る者」になります。
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グルカ兵が結成された理由
グルカ兵の登場は1809年です。
パキスタンの大都市であるラホールのマハラジャ(王さまのこと)に傭兵として雇われたのが始まりになります。
ネパールの山岳地帯は貧しさがあると同時に武術などを奨励する文化あったのです。
貧しくも強い山岳民族たちは傭兵として雇われることを選びました。
グルカ兵たちは宗教的な制約が多い厳格なヒンドゥー教徒というわけではありません。
ヒンドゥー教や仏教、イスラム教や独自のアニミズムが混じった宗教観を持っているのです。
少なくとも純粋なヒンドゥー教ほどには戒律的な制限が多くなかったことが傭兵として優れていたのです。
グルカ兵が結成された理由は彼らの貧困と、傭兵としての能力が高かったことになります。
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グルカ兵とイギリス:兵士としての有能さ
インドを植民地支配していたイギリスはネパールとのあいだにも戦争を起こしています。
世界史的にも有名なイギリスの「東インド会社」の私兵軍と、ネパールのゴルカ王朝とのあいだに衝突が起きたのです。
両勢力は領土拡張を狙っていたために起きた紛争でした。
この1814年~1816年に起きた「グルカ戦争」でイギリス側は敵対していたグルカ兵を高く評価します。
ナラパニの戦いにおいて女性や子供の兵士を含む600のグルカ兵たちは、5000人以上の東インド会社軍を相手に一か月も土地を守り続けました。
8倍以上の戦力と最新鋭の兵器をもつイギリス側の勢力を相手に、グルカ兵は互角に戦っています。
山岳での戦いにおいてグルカ兵の戦闘能力は常識離れして高度なのです。
グルカ兵部隊を東インド会社軍が雇用する:セポイの反乱
グルカ兵の戦闘能力とヒンドゥー教徒でないことを始め、軍人向きの性質はイギリス人に高く評価されます。
東インド会社軍はグルカ兵を雇用して、インド国内外での紛争に重要な戦力として使うことになったのです。
インドにおける独立闘争の歴史は長く、19世紀になればヒンドゥー教徒のインド人が反乱を続発します。
そうした反乱のときにシク教徒やイスラム教徒のインド人傭兵(つまり主流派のヒンドゥー教徒からすれば異教徒の部隊)、そしてグルカ兵がこの鎮圧に当たったのです。
1857年にはイギリスの統治に対しての長年の不満が高まり、インド側が大きな反乱を起こします。
これをセポイの反乱といい、この戦いでは非インド人である傭兵部隊=グルカ兵が活躍したのです。
グルカ兵たちはこの戦いにおいて外国人傭兵が得られる最高勲章の受賞者を25人も出しています。
グルカ兵の戦闘能力の高さは、この戦いでも示されたのです。
イギリス側と有効的なインドの王族を、都市ごと包囲された状況で4か月間のあいだ守り抜きます。
このとき490人のグルカ兵部隊のうち327人を失いましたが、それでも任務を放棄することなく守り続けたのです。
9%以上の死傷者が出た軍隊の士気は崩壊するものですが、グルカ兵は70%戦力を失っても士気が崩れません。
セポイの反乱における活躍は、イギリス側のグルカ兵に対しての信頼を深めていきます。
これらの軍事的な貢献からイギリス王家は「女王の警棒」をグルカ兵のシンボルとして奉げたのです。
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イギリスの傭兵部隊としてのグルカ兵
グルカ兵はイギリス軍に正式雇用されることになり、20世紀になればイギリス軍と共に世界各地の戦場を巡るようになります。
世界最新鋭の大英帝国軍式の武装を使いこなす、最高の狙撃手たちによる傭兵部隊の誕生です。
1911年にはイギリス軍における最高勲章である、ロイヤルビクトリアクロスを受賞できるようになります。
グルカ兵はビルマ、アフガニスタン、インド戦線、キプロス、ロシアとの紛争、中国との紛争、チベットの紛争を戦い抜いたのです。
第一次世界大戦では20万人以上のグルカ兵が従軍し、2万人の戦死者、そして2000を超える優秀狙撃手勲章を授与されます。
第二次世界大戦では25万人の従軍、32000人の死者、2734もの勲章受章者は輩出したのです。
なお、日本軍ともグルカ兵部隊は衝突しており、日本側がほぼ全滅する「史上最悪の作戦」として名高いインパール作戦でも戦っています。
インパール作戦においては、タル・バハダ・パンというグルカ兵が自分の部隊がほぼ全滅状態となりながらも孤軍奮闘して暴れまわったのです。
彼は単独で敵陣を突破することで味方の前進を助け、激戦地をイギリス軍が制する仕事を成し遂げます。
後にロイヤルビクトリアクロス=最高の軍事勲章を受賞したグルカ兵の一人となるのです。
- 「誰よりも先に来て、誰もよりもあとに去る」
- 「死を恐れないという者は嘘つきかグルカ兵である」
- 「グルカ兵にはヴァルハラ(神々の最後の戦い)を教えられた」
などの評価を他者から受けるほどの活躍をグルカ兵は行って来たのです。
現代のグルカ兵
フォークランド紛争においてもグルカ兵は伝統を維持します。
イギリス軍の正規特殊部隊に先んじての上陸を行い、グルカ兵が来るという噂だけで一部の敵兵が逃げたとも伝わっているのです。
フォークランド紛争以外にもグルカ兵は戦っています。
シエラレオネ、東ティモール、ボスニア、コソボ紛争などイギリス軍が参戦する戦いには先遣隊として派遣されているのです。
近代紛争において参加していない戦場の方が少ないような勢いになります。
また、2010年のアフガニスタンでも、ディプサラド・パン軍曹がタリバン兵との戦闘で伝説を作りました。
彼は管轄地を襲撃してきた12~30人のタリバン兵を単独で撃退させることに成功したのです。
17分間の戦闘で400発の銃弾を撃ち、17個の手りゅう弾を投げ、そこかしこに対人地雷を使用したと証言しています。
現代のグルカ兵精鋭部隊は「ロイヤルグルカライフル」と名づけられており、彼もまたこの部隊の一員です。
怒れる破壊と霰(あられ)の女神カーリーを称えるグルカ兵のなかでも、この部隊はグルカ兵らしさを強調した部隊になります。
ロイヤルグルカライフのモットーは「臆病者になるぐらいなら死んだほうがマシ」です。
グルカ兵の能力
グルカ兵の戦闘能力は異常に高い
グルカ兵の戦績は華々しいものですが、それはどうしてなのでしょうか?
彼らの身長は150~160センチ台も多いほどに小柄です。
しかし山岳民族由来の強さを持っています。
彼らはネパールの高地で生まれ育っており、グルカ兵の一部はエベレストに荷物を抱えて登るシェルパの一員です。
つまり、世界最高峰の山岳地帯で重たい荷物を運べる体力を持っています。
平地での体力勝負ではグルカ兵よりもイギリス兵の一般的な能力が勝ることが多いのです。
ですが、障害物があるジャングルや山岳地帯などでの機動力はグルカ兵が圧倒的に優れています。
この戦場での機動力の高さもグルカ兵の武器であり、小柄な体格は射撃を受けるときは「当たりにくい」という利点にもなるのです。
グルカ兵が強い理由:武術の訓練を幼少期から行う
グルカ兵は少年期にスカウトされて、小さなころから軍事訓練、格闘訓練をみっちりと行うことになります。
山岳民族から選抜された時点でエリートですが、その少年たちに200年に渡り世界最新鋭のイギリス軍と関わって来た経験を伝え、専門的な教官により高度な教育を授けるわけです。
射撃能力、伝統武術的な格闘能力、各種最新兵器の使い方や戦術論などを幼いころから学び、規律の取れた傭兵となります。
ネパール山岳民族の尚武の精神(武術や争いの技術を高めること学ぶことを尊ぶ価値観)がグルカ兵を支えてもいるのです。
先進国の軍隊ではありえないレベルの訓練期間であり、それもまた彼らの強さの秘訣になります。
グルカ兵が強い理由:高度な語学力
イギリス軍との連携を想定されて教育されるグルカ兵は、幼少時から英語教育を受けます。
そのためイギリス軍はもちろんのこと、英語が通じるさまざまな国の戦場に雇用が生まれているのです。
現代ではイギリス軍を退役したグルカ兵たちにより、グルカ兵で構成された傭兵派遣会社が設立されています。
現代でもグルカ兵の評価は非常に高く、アジアで重要な外交会議などが行われる場合は彼らが登場することも多いのです。
アメリカのトランプ大統領と北朝鮮の金正恩総書記の会談を護衛したチームの一つにも、グルカ兵部隊がいます。
グルカ兵伝統のククリナイフ
グルカ兵の伝統的な武装はライフルだけではなく、接近戦用のククリナイフ(kukuri/khukuri)です。
1814年からは確実にグルカ兵の装備として使われてきた、200年の伝統をもつ武器になります。
第二次世界大戦では特殊部隊の先駆けとなるような使われ方をする部隊も現れているのです。
「弾薬消費ゼロで10名を殺害した」。
ククリナイフを使っての奇襲・暗殺戦術の一つになります。
2010年には退役したインド軍のグルカ兵がククリナイフのみの武装で、30人の列車強盗を撤退させているのです。
ビシュヌ・シュレスタは全治2か月の重傷を負いながらも強盗3人を殺害、8人を負傷、残りを撤退させています。
強盗に襲撃された被害者の家族からの報酬を、彼は以下のコメント共に断りました。
「戦闘中に敵と戦うことは兵士としての私の義務です。電車のなかで凶悪犯と向き合ったのは人としての私の義務です」。
グルカ兵の伝統的な哲学
「臆病であるぐらいなら死んだ方がマシである」という哲学を実践していることも、グルカ兵の伝説的な強さの秘訣になります。
恐れることなく最善を尽くす高度に訓練された兵士、それがグルカ兵です。
彼らの伝統は200年以上前、グルカ兵が結成されるよりも前からのものになります。
ネパールの山岳民族は毒矢を使うこともなく戦い、戦死者を敬い、死を恐れずに最善を尽くし、誰よりも任務への忠誠心が高かったのです。
またヒンドゥー教のアヒンサー(不殺生)や、牛を殺すなかれという伝統(食事だけでなく軍事物資としての牛・牛製品の利用も禁止)からも自由だったことも強味になります。
イスラム教の断食月ラマダンやハラール(ブタ肉などの食料制限)にも囚われてはいなかったのです。
兵士に向かない宗教的な制約を持たない文化であったことも、グルカ兵の強さになります。
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まとめ
- グルカ兵はネパールの山岳民族
- グルカ兵が結成された理由は貧しさから
- グルカ兵はイギリスの傭兵部隊
- グルカ兵は東インド会社軍に参加してインドの反乱を鎮圧
- グルカ兵には伝説が多い
- グルカ兵は戦士に向いた性質が多くあった
- グルカ兵は現代もイギリス軍やアジア諸国の警備部隊、世界の傭兵産業に参加する
- グルカ兵は宗教的な束縛が少なかった
- グルカ兵のシンボルは破壊の女神カーリー
- グルカ兵のシンボルはククリナイフ、女王陛下の警棒
- グルカ兵は引退するとシェルパや傭兵になる
- グルカ兵は世界最強の兵士として名高い
伝説的な強さを誇るグルカ兵は、現代の神話の一つかもしれません。
エベレストをも登ってしまう幼少時からの軍事的なエリートです。
その戦闘能力の高さや経験値、伝統的に受け継がれてきた勇敢さと忠誠心など、かなり特殊な生き方をした人々になります。
第二次世界大戦で見せた兵士の個の強さは、各国の特殊部隊の創設に影響を与えたともされているのです。
グルカ兵は伝統と最先端を併せ持つ、最強の傭兵集団になります。
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