最後の審判とは?その世界観やミケランジェロの絵画など解説

善人は死後に天国に行き、悪人は死後に地獄へ落ちるという考え方は日本人にも分かりやすいものです。

多くの宗教がそういったルールを採用していますが、キリスト教などには「最後の審判」という大きなイベントがあります。

「世界の終わり」のことであり、この日には人類全てに対して善人なのか悪人なのかのジャッジが下されるのです。

今回は最後の審判の世界観と、それを描いた代表的な美術作品についてご紹介していきます。

最後の審判の「意味」

最後の審判の共通する世界観

ゾロアスター教やキリスト教には「終末論」という考え方があります。

私たちの生きている世界には、「やがて終わりが来る」のだというものが終末論です。

最後の審判が起きるのは「世界が終わるとき」になります。

文字通りこの世界が破壊されて、生きている者の全員が死ぬことになるのです。

それが終末=世界の終わりになります。

しかし、世界が終わるときに神さまは善人を復活させて「新しい善良な世界」に導き、悪人については消滅させたり地獄に落とすことになるのです。

最後の審判については、それぞれの宗教によって違いがあります。

最後の審判を最も重視している宗教がキリスト教です。

キリスト教における最後の審判

キリスト教の最後の審判では何が起こるのでしょうか?

そもそも人が死んだとき、キリスト教では善人は「天国」に、悪人は「地獄」へと送られることになります。

しかし、このときの善悪の判断はあくまでも「暫定的な処置」なのです。

死者の魂は天国と地獄で「復活の日」を待つことになります(カトリックの伝統では天国と地獄のあいだに位置する「煉獄(れんごく)」という場所もある)。

世界の終わりが来ると、天使たちによって世界は破壊されますが、神さまが過去の死者も含めて全ての善人と悪人を復活させてくれるのです。

全ての死者は復活させられ肉体をもらったあとで、かつて死んだときと同様に善人か悪人かを、イエス・キリストによって最終的に判断されることになります。

これこそが最後の審判であり、このとき善人であれば天国で穏やかに暮らせ、悪人であれば永遠に地獄で苦しむことが決まるのです。

キリスト教のルールにおいては、人は死んだ直後と世界の終わりの二回ほど善悪の審判を受けることになっています。

前者を「私審判」、最後の審判のことを「公審判」とも呼ぶのです。

キリスト教において最後の審判は世界の終わりであると共に、善人が肉体をもって復活するという「最終的な救い」になります。

世界の滅びと救いが同時に来ることが、最後の審判の特徴です。

ゾロアスター教の最後の審判

古代イランに生まれたゾロアスター教にも最後の審判という概念があります。

ゾロアスター教において人は死ぬと善悪を判断する橋を渡ることになり、悪人はこの橋から落ちて地獄に行くことが決まっているのです。

しかし、世界の終わりには善人も悪人も神さまの力によって復活させられ、その直後に彗星が世界に降り注いで世界は炎に包まれます。

善人はこの炎のなかでも苦痛を感じることなく、悪人だけが苦しんで消滅するのです(宗派によれば悪人も最終的に救われるというものもある)。

そうして悪が滅び去った新しい世界は、永続して行くことになります。

なおゾロアスター教に生まれた最後の審判という考え方が、ユダヤ教や、ユダヤ教から生まれたキリスト教やイスラム教の最後の審判に影響を与えたのではないかと考えられているのです。

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イスラム教の最後の審判

イスラム教でも最後の審判は行われます。

世界の終わりには神さまにより全人類が復活させられ、イスラム教の精霊である「ジン」たちと共にそれぞれの人生の言動が評価されたあとで、善人は天国に行き、悪人は地獄に行くことになるのです。

ジンはイスラム教成立以前にアラブ人が崇拝していた神々ともされています。厳格な一神教であるイスラム教でも排除できないほどアラブ人に馴染んでいた存在になります。

イスラム教の経典であるコーランでも無視されることはなく、人と天使のあいだの存在であり、神がアダムを作るよりも2000年前にサハラ砂漠の砂嵐から作ったとも伝わっているのです。

ジンにはムスリム(イスラム教徒)もいれば、非ムスリムもいて、イスラム教に帰依すれば救われる立場にあるため、最後の審判でも裁かれる対象となっています。

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ユダヤ教の最後の審判

古代ユダヤ教の宗教観においては、最後の審判は「救いの日」とだけ考えられ、そもそも神の裁きの対象となるのは異教徒たちだけでした。

しかし時代が経つにつれて終末観が変わっていきます。

当初は「救いの日」だったものだが、異教徒の悪人が裁かれる日になり、紀元前8世紀の頃にはユダヤ教徒も含めて神の裁きを受けるのが「最後の審判」という形に変わって行ったのです。

そのため現在でも、どの時代のスタイルを重視するか宗派によって異なるために、最後の審判に対する価値観がユダヤ教のあいだでも若干の差があります。

紀元前3世紀~紀元前2世紀のころになると、ユダヤ教において天国や地獄と最後の審判についての考え方が広まっていき、自分たちを最終的に救ってくれる「救世主(メシア)」を待ち望むような人々も生まれていったのです。

最後の審判まで含めて自分たちを救ってくれる救世主=メシアを、イエス・キリストなのだと定めたユダヤ教の分派がキリスト教になります。

キリスト教の誕生には最後の審判と救世主が深く関わり、キリスト教における最大のテーマの一つなのです。

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ミケランジェロの『最後の審判』

ミケランジェロによる『最後の審判』(出典:wikipedia)

システィーナ礼拝堂の最後の審判

ルネサンスの巨匠ミケランジェロは、1541年にシスティーナ礼拝堂(ローマ教皇の宮殿にある礼拝堂です)に『最後の審判』を描きます。

当時の教皇からの依頼であり、約5年をかけた超大作です。

その大きさは縦に約14メートル、横に約12メートルもあり、描かれている人物の数は400を超えます。

旧約・新約聖書の著名な登場人物の多くが描かれ、キリスト教最大の救いと罰のシーンを壮大なスケールで描いた作品です。

このサイズの絵画は当然ながら世界最大のものの一つになります。

ミケランジェロの『最後の審判』のイエス・キリスト

中央に配置されているのは当然ながら救世主であるイエス・キリストです。

最後の審判を裁くのがイエス・キリストだからです。ミケランジェロの絵の中のキリストの特徴は、たくましい筋肉であることと、多くのキリスト像が伝統的に採用している「ヒゲ」がないことになります。

ヒゲを剃ったマッチョの男が右腕を上げたポーズになっていますが、このポーズには意味があり、「脇腹の傷」を見せているのです。

イエス・キリストにとって身体につけられた傷は、「聖痕(せいこん)」とも呼ばれますがイエス・キリストを象徴するものになります。

復活したときに弟子の一人に本人かどうかを疑われましたが、脇腹の傷口(ロンギヌスに槍を刺されたときの傷跡)に指を入れられたことで、本人だと証明されたのです。

イエス・キリストが右腕を上げているのは、その傷(聖痕)を見せているからになります。

どうしてマッチョなのかはミケランジェロのモチーフの一つにギリシャ神話の英雄「ヘラクレス」があったからとも考えれているです。

ルネサンスとは「ギリシャ芸術への回帰」であり、ミケランジェロの場合は筋骨隆々であることと裸が多いのも作風の特徴になります。

なおミケランジェロの『最後の審判』には複数のイエス・キリストがいるのです。

左上の十字架を背負った男はイエス・キリストで、右上の柱にくくられている男は鞭打ちの拷問を受けているときのイエス・キリストになります。

迫害されて人類の原罪を贖うために代理として死ぬことになるヒーロー、それがイエス・キリストであるからであり、3人いるのはキリスト教にとって3が聖なる数字だからです。

『最後の審判』の聖母マリア

中央のイエス・キリストの左にいる女性が母親である聖母マリアです。

聖母マリアは顔を背けるように下へ向けていますが、これは「自分の役目が終わったこと」を示しています。

聖母マリアの役目は人々が最終的に救われる、または裁かれる日まで、死者の魂に祈りを奉げるという慈悲深いものがあります。『最後の審判』が始まり、息子であり救世主のイエス・キリストが帰還しているため、彼女が祈る必要はもう終わったことを示しているのです。

救世主であるイエス・キリストへ自分の役目も渡すような形であり、イエス・キリストの絶対的な権威を表現する方法でもあります。

聖母マリアのようにイエス・キリストの周囲を囲むのは、洗礼者ヨハネ(イエスの先駆者)と十二使徒(イエスの直弟子)や聖書の聖人たちです。

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ミケランジェロの『最後の審判』の構成

左の下から死者が地の底から蘇る様子が描かれ、「全人類の復活」が示されています。

そのまま上に向かえれば天国に行けるのですが、イエス・キリストの裁きの結果、悪人と判断されれば右から右下に向かうようになり、それは地獄行きを示しているのです。

全体的に循環するような構成であり、時計回りの動きを感じさせる配置になります。

なお混沌としている下は、左下が地上(スタート)であり、右下が地獄(悪い結末)で、その中央にいるラッパを吹く天使たちが世界の終わりを告げる天使たち、トランぺッターです。

絵画の「上」は天国を示し、そこでは祝福され肉体と魂の永遠を与えれた善良なキリスト教徒たちが再会している様子を示しています。

裁きを受けるキリスト教徒からすれば、左下から見上げて行くことが「順序」と言えるものです。

そうすれば自分が最後の審判のときに受けるイエス・キリストによる裁きと、複数の結末を予見することができます。

天国に昇れた者たちの歓喜や、地獄に落ちた者の絶望や苦悩、聖者たちを含めて裁きを待つ者たちの緊張、威風堂々で権威ある救世主イエス・キリストなど、最後の審判の要素が詰まった構成になっているわけです。

ミケランジェロの『最後の審判』への批判

ミケランジェロが完成させた16世紀当時から、彼の描いた『最後の審判』は賛否両論の評価があったのです。

最大の批判は「裸が多すぎる」ことになります。

ローマ教皇の礼拝所に飾られた絵であるため、全裸が多いことにネガティブな意見もあったのです。

教皇庁の役員からも「ミケランジェロは裸を書きすぎる」、「これでは酒場や公衆浴場向けの絵じゃないか」と言われてしまいます。

怒ったミケランジェロはその人物を地獄に配置して描くという大人気のない意地悪をしたのです。

当時六十代半ばのミケランジェロですが、あまり寛容な人物でもなかったのかもしれません。

しかし、当初は登場人物の男性の大半は完全な全裸で描かれていたため、教皇の礼拝所に相応しくないという意見も分かります。

ミケランジェロの『最後の審判』の男性たちは布や葉っぱで股間を隠すように修正が入ったのです。

また、当時のネガティブな意見には筋肉が多すぎる、いわばマッチョすぎるのではないかというものもあります。

イエス・キリストは磔刑にかけられた弱り切った男の姿が一般的ではあったため、ヘラクレス並みにマッチョな人物には違和感を覚えた人々もいたのです。

『最後の審判』にはミケランジェロの自画像がある?

十二使徒バルトロマイは生皮を剥がれて殉教(死亡)した人物ですが、この絵にもイエス・キリストの右下に自分の生皮を持つ形で描かれています。

このバルトロマイの生皮は、ミケランジェロがモデルなのではないかと考えられているのです。

まとめ

  • 最後の審判はキリスト教にとって世界の終わりであり最大の救い
  • 最後の審判では全ての死者が復活して天国か地獄に行くか裁かれる
  • 最後の審判はユダヤ教やイスラム教にもある
  • 最後の審判という概念の成立にゾロアスター教が影響を与えている
  • イスラム教の最後の審判では人だけでなく精霊ジンも裁かれる
  • ミケランジェロは最後の審判をシスティーナ礼拝堂に描いた
  • ミケランジェロの最後の審判にはヘラクレスがモチーフのキリストがいる
  • ミケランジェロの最後の審判には3人のキリストが描かれている
  • 最後の審判は構図と動きによって復活、裁き、天国行き、地獄行きを示す
  • ミケランジェロは最後の審判に自画像を描き込んでいる

キリスト教はアジアの宗教とは異なり、地獄をオブラートに包む芸術作品を営業戦略に用いてきたことも特徴です。

キリスト教徒でなければ地獄に落ち、キリスト教徒なら救われるというメッセージが、多くの人々を信者に取り込むことに貢献しています。

最後の審判は善良なキリスト教徒は救われ、悪いキリスト教徒と非キリスト教徒が地獄に行くことを示す絵でもあるのです。

救いだけでなく地獄=罰を重要視する宗教がキリスト教であり、キリスト教の宗教絵画のほぼ全ては教会の宣伝になります。

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