アッティラとは?史上最恐のフン族の大王について解説

歴史の流れが大きく変わるときには軍事的に大きな影響を持つ人物が出現するものです。

古代ヨーロッパの覇者であるローマ帝国の覇権も永遠には続くことはなく、フン族という人々の与えた影響によりヨーロッパの勢力図は変わります。

古代ヨーロッパはフン族によって終わり、中世の時代が始まったともされているのです。

今回は歴史の転換点に現れたフン族と呼ばれた人々と、そのフン族の偉大な大王アッティラについてご紹介していきます。

フン族とはどんな影響をヨーロッパに与えた人々なのか?

フン族とはどういった人種だったのか?

フン族と呼ばれた人々が歴史の表舞台に存在していたのは、4世紀~6世紀にかけてになります。

フン族は中央アジアから東ヨーロッパの草原地帯に住んでいた遊牧民として考えられていますが、その正確な出自は歴史上の大きな謎とされています。

東ヨーロッパの草原地帯を馬に乗って遊牧する人々であったことは分かっていますが、具体的にフン族がどこから来たのかは分かっていないのです。

現在の研究としては複数の民族が合流して作られた存在、「遊牧民族の複合体」のような存在であるとも考えられています。

少なくとも文明の中心であったローマ帝国がある地域からは、はるか東からやって来た侵略者であり蛮族であったのです。

フン族は「ヴォルガ川の東から来た」という伝承がヨーロッパに残されていますが、具体的な人種や出自を由来するような文化的な系譜を決定づけるものはないのです。

フン族の「出自」に対しての考察

フン族がどういった出自をもつ民族であるのかについては、下記のような説が存在しています。

フン族の出自に関する諸説
  • 「氷結した大海に近い北方からやって来た」:4世紀のローマ帝国の歴史家であり軍人アンミヌアヌスの残した言葉です。文字通りとすれば北極海周辺の民族ということになります。
  • フン族が独自の言葉を持っていた:5世紀のローマ外交官・歴史家であるプリスクスはフン族が独自の言語をつかっていたとも証言しています。しかし文献上で現在のところ確認することが可能なのは、固有名詞を含んで「三つだけ」です。
  • フン族は「ゴート族の魔女」と不浄なる魂との交わりで生まれた:6世紀の歴史家ヨルダネスの言葉になります。フン族の残した破壊や侵略の影響ゆえなのか、とても不名誉な出自を与えていますが、科学的な解釈とは言えないものになります。
  • フン族は後漢に討伐された「匈奴」の生き残りである:後漢に討伐された遊牧民族「匈奴」は西へと逃げたとされ、それがフン族となったという説になります。王族の名前や「匈奴=フンナ」という名前が似ていることから考えられています。他に具体的な証拠はない説です。

遺伝子的な調査結果もフン族=匈奴説を裏付けるに足る証拠は得られてはいないままです。

広大な範囲を旅してさまざまな人々との混血が盛んな遊牧民族の遺伝子構成は、基本的に単一の由来を持たないものです。

あちこちを旅して回っているあいだに、さまざまな民族と婚姻を結ぶのが遊牧民族だからです。

遊牧民族は複数の起源をもつ遺伝子から形成されることが多いため、遺伝子を追跡する調査でフン族=匈奴説を証明することや、起源となった単一の民族集団を断定することは難しいのです。

フン族は「諸々の遊牧民族からなる複合体」

現代で有力視されているのは上記全ての説を統括したような説になります。

多くの土地からやって来た遊牧民族たちの多くが、「フン族という名前が持つ威光を得るために自称し」、侵略を受けたヨーロッパ諸国も「フン族=蛮族」という意味合いぐらいにしか使っていなかったのではないかという説になります。

遊牧民族たちは「フン族」という名称を自分たちに有利な「ブランド」として使い、ヨーロッパ人たちは遊牧民族たちの詳細な区別をつけることには興味がなかったのです。

その結果、フン族という言葉はかなり大雑把な定義を持たされてしまったのです。

フン族もまた多様な言語を使っており、ローマ様式の文化も多く取り入れているためオリジナルの姿を想像することが難しい人々になります。

遺伝学的な成果においても従来の考古学的な手法による調査でも、フン族を断定することは難しい問題なのです。

フン族の登場がゲルマン人の大移動の引き金になる

その出自こそ不明なままですが、フン族は4世紀の終わりにはヨーロッパを侵略する遊牧民族として歴史に現れます。

フン族は東欧からドイツ周辺までにも勢力を広げていき、それらの土地に住んでいたゲルマン人と呼ばれる人々を支配するようになったのです。

ゲルマン人たちはフン族の支配や虐殺から逃れるために、南にある東西ローマ帝国領内へと逃げ込むことになり、これが「ゲルマン民族の大移動」という民族の移動の発端になります。

遊牧民族であるフン族の軍事的な能力は高く、ゲルマン人をかつての居住地域から追い払うだけでなく、ローマの各地に侵略と略奪を繰り返すようになっていくのです。

フン族は北方に住んでいたゲルマン人たちをヨーロッパ各地に移動させるだけでなく、東西ローマ帝国を大きく疲弊させていくという変化を古代ヨーロッパにもたらしたのです。

強力な遊牧民族としてヨーロッパを攻撃したフン族ですが、その全盛期の王こそが「アッティラ」という人物になります。

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「神の鞭」と呼ばれたフン族の大王アッティラ

フン族はアッティラの時代に全盛期を迎える

ヨーロッパ各地を侵略していたフン族ですが、その全盛期は5世紀になります。

フン族には無数のリーダーが存在して、それぞれが連携したり時にはお互いを攻撃し合ったりしながら各地で略奪を行っていたのです。

やがてフン族は複数の王がまとめるようになりますが、ルーア王の時代に現在のギリシャがある国、地中海に突き出たバルカン半島までフン族は攻撃を仕掛けるようになります。

ルーア王は東ローマ帝国から大量の「貢納金(戦争を回避するために相手国へ支払うお金)」を得るようになるのです。

東ローマ帝国はフン族との衝突を金銭で回避しています。

また西ローマ帝国の将軍アエティウスは内戦に敗北すると、かつて幼少時代に人質に出されていたフン族のもとに亡命し、ルーア王の助力を得て権力の座に復帰しているのです。

ルーア王は東西ローマ帝国を恫喝しうる力を発揮した強い王でしたが、434年に突然死します。

フン族の逃亡者を巡っての侵略戦争を東ローマ帝国に宣告していた矢先であったため、東ローマ帝国の人々は歓喜したと伝えられています。

しかしルーア王の死は新たな強王の誕生を招くことになったのです。

ルーア王の甥であるアッティラがフン族たちの王として現れ、このアッティラはルーア王を超える猛威をヨーロッパ全土に振りまくことになります。

「神の鞭」アッティラ

ルーア王の甥っ子であるアッティラその兄のブレダ(後のハンガリーの首都ブダペストの語源)が共同王としてフン族の王位に就きます。

アッティラとブレダは先王の方針を継ぎ、東ローマ帝国に進軍して武力を背景に交渉を開始します。

フン族の逃亡者の引き渡しを要求し、そのときに今までの貢納金を二倍の額にするように請求し、さらにはフン族商人への市場開放を要求したのです。

東ローマ帝国側はそれらの要求を飲むと、フン族は一時的に東ローマ帝国から撤退し、その後はササン朝(イラクやメソポタミア地域の大国)と戦いますが、アルメニアで敗退します。

アッティラは侵略を東ではなく西に、つまりヨーロッパに集中することを決めたのです。

アッティラは各地でローマ帝国諸都市やゲルマン人の集落などを襲い、破壊と略奪の限りを尽くすことになります。

アッティラ 年表
  • 434年:アッティラとブレダ兄弟、フン族の共同王となる。
  • 440年:マルゴスの司教がフン族の王墓から財宝を奪ったという口実でローマ帝国領を攻撃。
  • 440年:ヴァンダル族の「ガイセリック」が西ローマのアフリカ領であるカルタゴまで南下、占領する。
  • 441年:ササン朝が大国間の緩衝地域でもあるアルメニアを侵略。東西ローマ帝国側は軍事力を分散することになりアッティラ率いるフン族の攻撃を許してしまう。
  • 442年:フン族が快進撃をつづけ諸都市を制圧し破壊する。東ローマ帝国首都コンスタンティノーブルまで進撃。東ローマ皇帝テオドシウス、アッティラに降伏。貢納金がかつての三倍、さらに多額の賠償金を支払うことになる。
  • 445年:アッティラの兄ブレダが死亡する(アッティラによる暗殺説あり)。
  • 447年:東ローマ帝国領にアッティラは再び侵攻開始。ヴァルカン半島を略奪する。
  • 449年:東ローマ皇帝テオドシウス、アッティラに使節を送る。暗殺を計画するも失敗しする。アッティラは使節を丁重に送り返す。
  • 450年:テオドシウス死没。軍人出身のマルキアヌスが後継者になる。フン族への貢納金の支払いを拒絶。
  • 450年:アッティラ、西ゴート王国への侵攻を宣言。西ローマ帝国皇帝ヴァレンティニアヌス3世と同盟を組む。

アッティラは先王ルーアからの親交がある西ローマ帝国将軍アエティウスと懇意であったともされており、西ローマ帝国とアッティラ政権下のフン族たちは仲が良い状況にあります。

ゲルマン諸民族たちの中にはフン族に対抗する民族もいて、その代表格が西ゴート王国であり、この西ゴート族と東ローマ帝国には対立している状態にあったのです。

またゲルマン人の農民たちによる反乱なども起きているため、アッティラは西ローマ帝国との関係を良好に保つことで安定を目指していたとも考えられています。

さらにはヴァンダル族のガイセリックという強力な軍事力に対する警戒心を持っていたとも考えられるのです。

当時のヨーロッパ世界は各地で反乱を企て独立しようとする「ゲルマン諸民族たち」と、西ゴート王国という「西ゴート族の強国」、南に誕生した「ガイセリックのヴァンダル王国」というゲルマン人たちの勢力が発生しています。

アッティラ率いるフン族以外にも、東ローマ帝国、西ローマ帝国、西ゴート王国、ヴァンダル王国、そしてアルメニアに侵略して来たササン朝の存在など群雄割拠の状態となります。

アッティラにとっても西ローマとの同盟は必要性があるものであったと考えられているのです。

しかしアッティラは西ローマを侵略するための口実を手に入れることになります。

カタラウヌムの戦い

カタラウヌムの戦いのイメージ(出典:Learning History)

西ローマ皇帝ヴァレンティニアヌス3世の姉である「ホノリア」には謀反の疑惑がかけられており、元老議員との強制的な婚約を定められています。

そのホノリアがアッティラに助けを求める書状と共に指輪を贈るという事件が発生します。

アッティラはその送られた指輪を「婚約の証」と考えることを選び、アッティラは結婚の上納金として「西ローマ帝国の領土の半分」を請求することになるのです。

西ローマ皇帝であるヴァレンティニアヌス3世は、当然ながらこの結婚と上納金を拒絶します。

アッティラは実力でホノリアと共に西ローマ帝国を奪い取るため、これまで良好な関係であった西ローマ帝国にも軍を進めることになるのです。

アッティラは長年のフン族の支配下にあった東ゴート族らを中心に軍を組織し、西ローマ帝国も敵対していた西ゴート王国と手を組み、フランク族、ケルト人などを中心にした同盟軍を編成して待ち構えます。

アッティラは各都市を破壊しながら進軍を続け、現在のフランス北部であるカタラウヌムで両軍は衝突したのです。

この戦いで西ローマ帝国軍はフン族に大きなダメージを与えられてしまいますが、右翼に陣取っていた西ゴート王国軍が大いに活躍し、アッティラ率いるフン族の軍勢を粉砕します。

西ゴート王国軍の突撃は凄まじく、王であるテオドリクスが落馬して死亡しても気づかぬほどの勢いであり、そのまま西ローマ帝国軍と交戦中であったアッティラ率いるフン族軍主力部隊の背後へと回り込みます。

退路を断たれた形となったアッティラは撤退を余儀なくされて交代、荷馬車で作った簡易な陣地に逃げ込むことになるのです。

それを包囲した西ゴート王国軍と西ローマ帝国軍は、弓矢による攻撃を陣地に加えてアッティラの軍勢に大きなダメージを与えていきます。

アッティラが自殺を決意するほどの大敗北であり、戦死したテオドリクス王の息子トリスムンドは総攻撃を西ローマ帝国軍の指揮官であるアエティウスに進言します。

父王の仇討ちとしてアッティラ軍を殲滅しようとしたのです。

しかしアエティウスはその総攻撃の案を受け入れることはなく、トリスムンドなど同盟を組んでいた諸民族の王位継承者などに対して、自国に戻って王位を継ぐことを勧めます。

王や部族の長たちの多くがこの戦では亡くなっていたため、その座を巡り争いが起きかねない状態であったことをアエティウスは利用したのです。

このようなことをした理由は、アッティラとフン族を滅ぼすことが西ローマ帝国にとっては不利益となる可能性があったからです。

西ゴート王国やフランク族という「西ヨーロッパの強大な勢力」たちがフン族という敵を失えば、彼らが次に襲うのは自分たち西ローマ帝国だとアエティウスは理解しています。

西ローマ帝国側はアッティラとフン族の撤退を許すことで、西ローマ帝国の優勢を誇示しながらも「西ヨーロッパ共通の敵=フン族」を滅ぼさないことで自国の安定を優先したのです。

アエティウスからすれば「西ゴート王国が強大化すること」が最大の恐怖であったのです。

アッティラによるローマ侵攻

翌年である452年、アッティラは体勢を整えると再び西ローマ帝国を攻めることになります。

ホノリアとの結婚と「結婚の持参金」である西ローマ帝国の半分を求めて、北イタリアへと侵攻を開始します。

アッティラは道行く先々で略奪を行います。

ヴェネチアはこの侵略から干潟へと逃げた市民たちによって築かれることになるのです。

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アエティウスは現在のフランスに駐留していて、この戦いに参加していない状況であり、西ローマ帝国軍は少数兵力での急襲を繰り返しながらの時間稼ぎに徹しています。

アッティラ軍には疫病と飢餓が発生している状況であり、やがてその侵攻も止まることになるのです。

西ローマ皇帝ヴァレンティニアヌスはローマ教皇レオ1世にアッティラとの和平条約の交渉を依頼することになります。

ローマ教皇レオ1世との交渉により、アッティラは軍をイタリア半島から引き上げることに同意します。

ローマ教皇は聖ペトロ(キリストの十二使徒の一人、初代教皇)と聖パウロ(新約聖書執筆者の一人で使徒あつかいされることもある上級聖人)の加護を受けたとも言われています。

または、かつてローマを強奪した後に時を置かずに死んだ、西ゴート族の王であるアラリック1世の事案に対して、アッティラは迷信的な恐怖を抱いていたとも伝わります。

中世ハンガリーの年代記では「平和裏にローマを去るなら、アッティラの後継者の一人が聖なる王冠を受け取るであろう」とレオ1世が約束したともされています。

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アッティラの死

本国へと戻ったアッティラは軍人マルキアヌスが皇帝となり貢納金を拒絶する東ローマ帝国に対して、貢納金の再開を要求します。

受け入れられぬ場合はコンスタンティノープルを攻撃すると宣言していましたが、アッティラは北部イタリアを攻めた翌年である453年に死亡することになります。

アッティラの死は美しく若い新妻イルディコとの結婚に起因するものです。

いくつかの説が残されています。

アッティラの死因に関する説
  • 結婚式の宴会の最中にいきなり鼻血を出し、それが原因で意識を失い窒息死した。
  • 大量の飲酒の結果、食道静脈瘤が破裂して内出血により死亡する。
  • 夫婦の営みの最中に死亡した。
  • 妻に刺し殺された。
  • 東ローマ皇帝マルキアヌスが関与している。

西ローマ帝国とローマ・カトリック教会としては自然死という説を好みます。

ヨーロッパの破壊者であり数多の修道院や修道士たちを殺したアッティラに対して神罰が下った形を好むようです。

自然死を好まないのはフン族たちやアッティラに評価が高い部族になり、彼らは偉大な戦士であり英雄の死に何らかの意味を持たせたいと考えている傾向が働いています。

フン族はアッティラが死ぬと急速に衰退

アッティラが死ぬとその財宝と権力を巡って子供たちによる内紛が勃発することになります。

三人の息子たちが争って分裂を起こした結果、帝国は弱体化します。

この機会にアッティラが従えていたゲルマン人部族たちが反乱を起こしてフン族と衝突、フン族は大量の戦死者を出す大敗北を喫し、アッティラの長男もその戦で死亡するのです。

この大敗を契機として、かつてはアッティラに仕えていた部族が次々に独立し始め、諸都市が東ローマ帝国側へと併合されることになります。

アッティラが本拠地としていた土地も東ゴート族が支配し、東ゴート族たちはフン族の生き残りを襲撃するようにもなるのです。

フン族はこうして勢力をまたたく間に衰退させてしまい、アッティラ以後は大きな影響力を示せないまま歴史から消え去ることになるです。

アッティラの人物像

ニーヴェルンゲンの歌では良い人として描写されている

(出典:wikipedia)

アッティラはヨーロッパ全域の「破壊者」としての認知度とは別に、北ヨーロッパなどでは評価が「英雄」とされる場合が多くなる人物です。

キリスト教化される以前のドイツで描かれた叙事詩である「ニーヴェルンゲンの歌」では賢く善良な王として描かれています。

レオ1世の説得が成功したことによりキリスト教は「王権よりもキリスト教の聖なる力が上である」という宣伝に使ってもいたことから、キリスト教圏ではアッティラは悪く描かれやすい人物である可能性は高いのです。

キリスト教徒からは「神の鞭」などと呼ばれる程に恐れられた

しかし善良な人物であったという評価もしにくい人物になります。

その人生は侵略と破壊と略奪に満ちているものであり、東西のローマ帝国を中心にキリスト教社会への攻撃は苛烈なものです。

その激しい破壊から「神の鞭」あるいは「神の災い」などとアッティラは呼ばれています。

凶暴で強引な人物、または強烈な個性の人物を形容して「アッティラ」と言うこともあり、セバスチャン・シャバル(ラグビー元フランス代表)、マーガレット・サッチャーなどがアッティラに例えられた代表格になります。

アッティラの見た目、性格(諸説あり)

(出典:Ancient History Encyclopedia)

フン族そのものも謎が多い民族になりますが、アッティラの外見や性格に対してもさまざまな説が存在しています。

  • 金髪の北方人として描かれる場合
  • 黒髪あるいは茶髪の東欧もしくは南欧系の人物に描かれる場合
  • 東洋人(モンゴロイド)として描かれる場合

アッティラは一定の外見が存在していないことが特徴です。

なお東ローマ帝国使節の一員であったプリスクスは「背は低いものの筋肉質。頭が大きくて顔色はくすんだ黄色。両目がともに斜視であり、あご髭には白髪が混じっていた。低い鼻と浅黒い肌をしている」と伝えたとされています。

しかしこれもまたプリスクス本人の言葉を別人が伝え聞いての記述になるため、アッティラの姿もまた謎の多い事案になります。

アッティラの血脈も絶えてしまい、先祖を遺伝的に調べるという手段での追跡は不可能です。

アッティラの正確な姿を確定するためには、墳墓と遺骨を発見するなどの考古学的な進展を待たなければならないようです。

なおアッティラの性格についても過激な侵略者というイメージ以外の資料も存在しています。

  • 宴会では自分だけが質素な器を使っていた
  • 東ローマ帝国使節団の暗殺者を許して送り返している
  • 他民族の文化や言語を積極的に取り入れている
  • 北欧の伝承では賢く寛容な王とされる

または激しい性格を現すエピソードも伝わっています。

  • フン族からの逃亡者である王族の子供たちをはり付けで処刑する
  • 発掘された剣を軍神マルスの剣だと信じ、自分が世界の支配者になる定めだと喜んだ
  • 侵略したアクイレイアという町が燃え尽きる様子を見たくて丘の上に城を築いた
  • 兄を殺したとも噂される

アッティラは強大な侵略者である一方で、多民族の帝国を築いた人物でもあります。

アッティラが存在したことで、ゲルマン人がヨーロッパ各地に広まりローマ帝国の覇権を弱めてキリスト教主体のヨーロッパ世界を作り上げていく力となったのは事実なのです。

現在のハンガリー人はフン族の末裔?

かつてのアッティラたちフン族が支配していた土地にハンガリーがあり、ハンガリーの語源はフン族と言われているときがありますが、それは俗説であり「間違い」になります。

ハンガリーの語源は「オノグル(onogur)」であり、これは「十の部族」あるいは「十の矢」という意味を持った言葉になります。

現代のハンガリーの基礎を築いたのはウラル山脈の草原に遊牧生活をしていた「マジャール人」たちであり、9世紀になるとハンガリー平原に移住します。

彼らはそこで国家を築き、自然崇拝からキリスト教へと鞍替えすることを選び、ハンガリー平原に統一国家を築くことになるのです。

「オノグル/十の部族」と呼ばれた所以は、このマジャール人の七つの部族とハザールとよばれる三つの遊牧民族たちを合わせた数字になります。

十の遊牧民族が移住してきて「オノグル=ハンガリー」を名乗り、ハンガリーの歴史はスタートすることになるのです。

名前が似ているだけでフン族との直接的な関連性はない集団になります。

まとめ

  • フン族は謎の多い民族
  • フン族はゲルマン人たちを侵略した
  • フン族は東西ローマ帝国も侵略した
  • アッティラの時代が最盛期である
  • アッティラは「神の鞭」「神の災い」と呼ばれた
  • アッティラは北ヨーロッパでは扱いがいい
  • アッティラはカタラウヌムの戦いで敗北
  • アッティラは北部イタリアを攻めるがレオ1世に説得され引き上げる
  • アッティラの死後、またたく間にフン族は瓦解した
  • アッティラの存在は古代ヨーロッパを終わらせ、中世ヨーロッパの時代を作ることになる

アッティラのいた時代はさまざまな民族や国家が政治的な思惑を巡らせ、軍事的な衝突を繰り返すことになったヨーロッパには戦災の多い時期です。

アッティラ自身の起こした侵略戦争による破壊だけでなく、諸民族と諸国家の衝突が多発していた時代になります。

このヨーロッパ全土の戦乱によりローマ帝国は衰退し、ゲルマン人の建てて多くの国家が独立し、やがて強国となっていきます。

アッティラは当時のキリスト教徒にとっては魔王のような存在でしたが、結果的にキリスト教中心のヨーロッパを作り上げることにも貢献していたのです。

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